神田神社 目次
名称・旧社格
正式には神田神社と称しますが、神田明神の名が通っています。旧社格は府社です。
創建
天平2年(730年)に創建されました。
御祭神
大己貴命(おおなむちのみこと) 少彦名命(すくなひこなのみこと) 平将門命
みどころ
江戸総鎮守の神田明神として、東京を代表する有名神社です。いつでも多くの参拝客でにぎわっています。
アクセス
東京都千代田区外神田2-16-2
探訪レポート
神田明神は明治維新以前の名称で、現在は神田神社というそうですが、多くの方がお構いなしに神田明神と呼んでいます。このあたりは江戸の町の中心地というか、古くから栄えている町で、神田神社は江戸総鎮守とされています。本当はもう少し江戸の中心地にあったそうですが、区画整理のために江戸の始めにこの地に移転しています。と書くと都市伝説が好きな人は異論があると思いますので、そんな都市伝説的にも紹介します。家康は江戸を守るために神社や寺院を周囲に配置して結界を作っていたのですが、特に鬼門となる東北には寛永寺と神田明神を移転させて、江戸の町を守護させました。また、平安時代に東国を治めて天皇になろうとして殺された平将門の強い怨霊を封じ込めるべく、将門の首、兜、鎧などが祀られている神社を北斗七星の形に並べて結界を張ったという伝説もあります。ちなみに北極星の位置に日光東照宮があり、大正時代に山手線を開通させようとこの結界をぶった切ったら、関東大震災が発生したとか・・・
さて、そんな江戸総鎮守として名高く、極彩色鮮やかな印象の神田神社ですが、朱塗りの随神門がド派手で美しいです。昭和50年の再建ということで、まだまだ新しいです。この随神門は新しいので、新しい感覚で作られていて、よくよく彫刻を観察すると、因幡の白兎の物語だったり、鼠だったり、様々な動物が掘られています。
神田神社は随神門を通る前に手水の儀を済ませるんですね。随神門の左側に手水舎がありました。うっかり入ってしまうところでしたが、現在はコロナ感染対策で柄杓は置いてないそうです。
門の左右に随神像が安置されていますが、でました、北村西望さん監修の作品です。長崎の平和祈念像が有名ですが、武蔵御嶽神社の狛犬や、池上本門寺の日蓮像など、寺社彫刻に欠かせない人です。そして、奉納したのは、あの松下幸之助さんです。平成10年に塗り替えられたとはいえ、本当に存在感たっぷりで、きらびやかで美しい門です。
境内の正面に御社殿(本殿)が見えます。江戸時代に幕府が造営し関東大震災で焼失したものを、昭和9年にコンクリート造りで再建したものです。当時珍しいコンクリート造りにしたことで、第2次世界対戦の東京大空襲にも耐え抜いたという社殿です。
お祭りされているのは一之宮に大己貴命(おおなむちのみこと)、二之宮に少彦名命(すくなひこなのみこと)、三之宮に平将門命です。大己貴命は、大国主命と同一神で、若い頃の名前とされています。神田神社では縁結びの神と紹介されています。大国主は出雲神社の主祭神なので、同様に縁結びは得意なようですが、日本を創った国津神の主宰神ですから、その力は伊勢の天照皇大神と匹敵するほど強大です。大国主がまだ大己貴命だった頃、みんなが狙うモテモテの女神から結婚相手に選ばれたり、一目惚れした女神と駆け落ちしたりと、そんなエピソードから縁結びの神とされているのだと思います。と、こじつけましたが、神田神社での大己貴命の扱いは、ほとんど大国主命の本地仏とされる大黒天のものです。
ちなみに二之宮の少彦名命と三之宮の平将門命では、三之宮の方が先で、関東で英気病が流行し、これを将門の祟りとして、1309年に神田明神の祭神にして怨霊を鎮めたのです。将門は反乱を起こした悪者的イメージですが、平安時代の東国は、朝廷の目も行き届かず、国司が私腹を肥やしたり横暴な政治をしていたりという中で、民衆のために立ち上がった人物とも言われています。それはさておき、朝敵ですから、明治天皇が神田神社を参拝する祭に、朝敵を祀っていては都合が悪い訳です。そこで1874年に本殿から平将門命を摂社に移し、代わりに少彦名命を祀ったという訳です。少彦名命は大国主命が国造りをしたときのパートナーなので、すぐに代打の声がかかったんでしょうね。民衆に医療や農耕を伝えた神ですが、神田神社では本地仏を恵比寿天にしたところから商売繁盛の神とされています。ちなみに戦後、平将門命は、本社内に戻されています。
御守が自販機で売っています。おそらくこういう時代の流れ的なものを一番取り入れている神社だと思ってはいましたが、まさかここまでとは思いませんでした。資料館があるのですが、初代タイガーマスクに関する展示が行われていました。アニメの聖地になったり、秋葉原のアイドルと絡んだりと、人と時代の変容を受け入れることを恐れない神社です。
ところで、この狛犬ものすごい迫力で、武蔵御嶽神社を思い出してしまいました。また北村西望さんかと思ったら、池田勇八さんという方の作品でした。この狛犬に迫力を感じるのは、狛犬が正面を向いているからだそうで、ちょっと珍しいですね。私的には鼻の穴の膨らみが尋常ではないからだと思います。息巻いて邪気を払っています。
こちらは獅子山です。神社って、なぜこれが境内にあるのか? というものが多いですね。こちらは親獅子が子獅子を谷底に突き落とし、最初に這い上がった子を我が子にするという能の演目「石橋(しゃっきょう)」を再現したものだそうです。江戸時代に作られたもので、関東大震災で崩壊していたものを最近再建したそうです。
本社の社殿をぐるっと囲むように摂社末社が配置されています。それぞれ立派なのですが、狭い土地に押し込めた感が否めません。こちらは合祀殿です。神田・日本橋の市場用の籠作り職人が結成した籠祖講に方々が支える籠祖神社という摂社に、あれやこれやの神社を合祀したようです。この合祀殿の右側に祖霊舎がありました。武蔵御嶽神社のときに祖霊舎と墓地を見つけて騒いでしまいましたが、こちらはさすがに墓地はありません。
鮮やかな朱色は稲荷神社ですね。赤い前掛けをしたお狐様に守られています。末広稲荷神社と言うそうです。道端の祠や個人宅の庭や、とにかく日本で一番祀られている神社だと思います。京都の伏見稲荷神社が総本社となっています。稲や穀物に宿る神様、稲荷神と、日本書紀に登場する穀物の神である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が同一視され、祭神とされています。
三宿稲荷神社と金毘羅神社はそもそも別の場所にあった神社だったものを、神田神社の境内に末社として移したものだそうです。
浦安稲荷神社も、別の場所にあったものを神田神社に遷座したそうです。というか、稲荷神社ばっかりですね。神田はもともと伊勢神宮の領地で祭祀祭礼の経費のための田でした。神様の田なので神田です。稲作地だったから稲荷神社が多いのかとも思いましたが、真相はわかりません。とにかく日本人は稲荷神社が大好きだったみたいです。
それにしても一つひとつ立派な建物です。さすが都心にある神社という感じがします。江戸というのは平安時代には存在していた地名で、創建は702年と神田神社よりも古く、江戸最古の地主神と言われています。12世紀に秩父から出雲系の氏族がこの地を領して江戸氏を名乗るのですが、この神社を江戸氏の氏神として大切にします。もともと現在の皇居の中にあったのですが、徳川の時代に入って神田へ移され、後に神田神社境内に移ったそうです。祀っているのが牛頭天王なので、江戸時代は天王祭という神事があったそうです。牛頭天王は神仏習合の神で、薬師如来や素戔嗚命(すさのおのみこと)が習合した神です。天王祭は現在でも奉賛会の方々が、神田祭の中にその形を残しているそうです。
八雲神社が2つ並んだ後に水神社があります。八雲神社も牛頭天王を祀っている祇園信仰の神社です。最後に紹介するのは魚河岸水神社です。このあたりは江戸の下町なので、様々な商売を営む人たちが、それぞれ組合ごとに加護を祈って神社をお祀りしていたようです。現在大田区にある青果市場も、もともとは神田にありました。そして現在豊洲市場にある魚市場は、そもそも日本橋にありました。その頃に市場の守護神として神田明神内に創建されたそうです。明治になり1873年に市場内にあった常磐稲荷神社に合祀され、1901年再び神田神社内に戻ってきました。
日本のサブカルチャーを受け入れ、時代の先をゆく神田神社には賛否両論あるでしょうが、このまま突き進んでほしいですね。江戸時代、最も町民文化が栄えた場所に鎮座して、庶民の文化とともにあることが、神田神社の伝統なのでしょう。だから、摂社・末社のひとつひとつに、当時の町民生活の事情や願いが込められていて、それぞれにこの地に根付いた歴史を持っています。神田神社が今もなおその土地の文化とともに歩む姿勢は、伝統を無骨に貫いているように見え、とても格好良いです。
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