上野東照宮 目次
名称・旧社格
東照宮と称します。通称上野東照宮と呼ばれています。旧社格は府社です。
創建
南光坊天海と藤堂高虎によって寛永4年(1627年)に創建されました。
御祭神
みどころ
上野公園内にある神社です。江戸徳川家の礎を築いた徳川家康を祀る神社です。金の豪華な装飾が有名です。
アクセス
東京都台東区上野公園9-88
JR山手線「上野」徒歩5分
探訪レポート
上野恩賜公園内にありますので、そもそもは寛永寺の境内に「東照社」として建立されました。家康の死後に関しては、家康自身が遺言した相手である、南光坊天海、藤堂高虎、以心崇伝、本多正純の他、秀忠や家光という後継ぎもいます。誰がマウントを取るか、小説や映画にすると面白そうな題材です。家康は死んで神になるのを望んだそうで、崇伝が「明神」を推して、天海が「権現」を推したのです。結局、明神は秀吉にも名付けられたが、豊臣家がすぐに滅んだことを受け、権現が採用された。それで、東照大権現というのです。
当時家康が最も信頼していたのは天海で、天海は影の支配者的な要素があったので、ここから先の遺言話は天海によって捻じ曲げられたものかもしれませんが、歴史に残る史実として存在しています。家康が天海、崇伝、本多正純に伝えたことは、遺体は駿河国の久能山に納め、葬儀は江戸の増上寺で営み、位牌は三河国の大樹寺に置き、一周忌を過ぎたら、下野国の日光山に移して小堂を建て、京都の金地院にも小堂を建て、武家にお参りをさせるようにとのことだった。家光の時代に朝廷から宮号宣下があり、東照社は東照宮と呼ばれるようになり、世は徳川の天下が始まったところですから、その後も全国に500以上の東照宮が建てられます。
天海と高虎に対しては、三人一処に末永く魂鎮まるところを作って欲しいと遺言しました。そして、天海は高虎の江戸領地で、現在の上野公園にあたる土地を幕府から拝領し、寛永寺を建立します。寛永寺の境内社として東照社が置かれ、そこには家康と天海、高虎の像が安置されています。 現在では寛永寺から切り離され、上野東照宮として運営されています。死んでも三人一緒がいいなって、話としては可愛過ぎますよね。ところが、現在の上野東照宮のご祭神は、徳川家康、吉宗、慶喜の3名です。どうしてそうなったかはよくわかりません。上の写真(↑)に写っている銅の灯籠は諸大名から奉納されたもので、全部で48個あるそうです。ズラッと並んでいるので壮観です。
金ピカの装飾が見えてきましたが、この東照宮が現在も信仰を集めているのは、この建物そのものが大変な強運を持っているからです。これまでの寺社探訪でも散々お伝えしてきた通り、江戸の寺社仏閣は、関東大震災、第二次世界大戦の東京大空襲によって大きな打撃を受けました。この東照宮は、そのふたつを乗り越えただけでなく、まさに寛永寺が戦場となった上野戦争をも切り抜けています。群雄割拠の戦国時代を制し、260年の政権を築き、幾多の災害を切り抜ける、そのご神徳にあやかりたいと思うのは当然ですね。
唐門は国の重要文化財に指定されていて、 拝観料500円でこの門の中に入ることができます。門の中には、社殿と栄誉権現社、御神木があります。社殿は例によって金ピカで、細かい彫刻がなされています。栄誉権現社はお狸様を祀っています。これは家康=たぬきってことですか? それを栄誉だなんて、なんだかあからさま過ぎて言葉が出ません。元々は安置される各地に災いをもたらしていたそうで、この社殿脇に鎮座して以来災いは鎮まったそうです。それは家康とたぬきがマッチング、あるべき場所に戻ったからじゃないでしょうか。一応、他を抜くので勝ち運を得られるということです。
この五重塔は寛永寺が東京都に寄贈したものです、重要文化財として保存されています。動物園の敷地内にあるので、近くでしっかり観察したい方は動物園に入園すると良いです。入園料はすごく安いのですが、もったいなければ動物も見学していただければお釣りが来ると思います。この東照宮は、日光にお参りしたいけどできない人のために、将軍家が豪華に維持してきたものです。寛永寺も増上寺も戦火や政変で変わってしまった現在、当時のまま存在するここは、都内で江戸徳川260年を一番感じられる場所かもしれません。
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