お通夜や告別式の現場にいると、お焼香の回数についてよく質問されます。お線香の本数も同じです。私的には「何回でもどうぞっ」という気持ちですが、お葬式は間違えたら恥ずかしいとか、失礼に当たるとか、過度に意識してしまいますから、ちゃんと答えるようにしています。昔は教科書通りに「大切なのはお焼香の回数やお線香の本数ではなく、故人様に対するお気持ちですから、回数にとらわれずお気持ち込めてご焼香ください」などと答えていました。正論ですよね。「私、正しい」の押し付け。でも、質問した方が知りたいのは、私の考えではなくお焼香の回数なので、回数含めたお焼香の作法を答えるようにしています。
菩提寺のある遺族親族からの質問であれば、菩提寺の住職にお尋ねして、それを遺族に伝えます。同じ宗派でも同じ焼香の仕方とは限らないのです。宗派の本山が発行している書籍に書かれているお焼香の仕方と、その遺族の菩提寺の住職が言うお焼香の仕方が違っていたら、菩提寺の住職の言う方が優先です。いつだったか、遺族に質問されて菩提寺の住職に伺ったら、ひどく怒られたことがありました。読経の後の法話で「お焼香の回数なんか関係ない。おばあちゃんの顔を思い浮かべて、ありがとう、安らかに、しっかりやるから安心してね、という気持ちでお焼香することが大事なんです。回数を数えながらお焼香して、何の気持ちが伝わりますか? 」と、槍玉にあげられてしまいました。まぁ、そのようなこともあります。
一般の会葬の方からの質問であれば、その宗派の一般的なお焼香の作法をお伝えします。これは日本人気質の現れだなぁと、私はいつも思います。おそらく外国人の価値観であれば、自分の宗派の作法でお焼香すると思うんですよね。自分の信仰を曲げてまで遺族の宗派に合わせるとかおかしいでしょ? と思う時期もありました。学校で教科を学ぶように、葬儀や宗教を学んでしまっていたのです。経験を積んでいく中で、日本人の価値観を肯定し、辻褄とか整合性とかをいったん置いておき、否定しないことで見えてくる、日本人と宗教の関係のようなものがあります。それが見えると、遺族の宗派に合わせてお焼香をしても、自分の信仰を曲げることにならず、全く同じ敬虔な気持ちでお焼香できるのです。仏式のお葬式に参列した神職さんやキリスト教会のシスターも、香を摘んでお焼香しています。
中には、住職さんの方から、焼香の作法について遺族親族に指導しておくように言われる人もいます。宗教儀礼に関することなので、自分で言いなさいよ、というのは置いておいて、一礼する順番や、手を下に添えるとか、押し頂くときの手は上向きか下向きかなど、細かくこだわる住職さんもいらっしゃいます。
面白いのは、遺族や会葬者がこだわるのはお焼香の回数だけなんですよね。例えば数珠も各宗派によって形が違います。数珠は遺族の宗派に合わせる気はないようです。各宗派共通というのを持っているんでしょうか。各宗派共通って、結局どの宗派のものでもないということでは?
でも、それでいいと思います。古来日本人は、 すぐ側にある身近なものにも神が宿ると感じていました。どこにでもあるので、それを神道という宗教とは考えてなくて、みんな尊くて有難いと思っていたのです。なので、大陸から仏教が入ってきても、対立しないで習合してしまいます。神葬祭に参列したら玉串奉奠し、キリスト教の葬儀では献花をします。神社に初詣に行き、クリスマスを祝い、お寺に除夜の鐘をつきに行きます。みんな尊くて有難いのです。仏教の宗派の差など、大した問題ではありません。おそらく、自分の宗派の教義やお焼香の作法を知らない人の方が多いのではないでしょうか。よくあるのが、浄土真宗ではお線香を立てず、寝かせるものなのですが、家でも葬儀式場でも、何も説明しないとお線香を立ててしまうことが多いです。これも、私自身はそのままでも良いと思うのですが、そのままではいけないと思う誰かに注意されてクレームになっても面倒なので、一応説明だけはするようにしています。立てるだの寝かすだのいうことを考えず、故人を思ってお参りできたなら、それ間違えてないですよ。と思ってはいます。
そんな訳で、同じ地域で葬儀の仕事を長くやっていると、地元の名士の方たちと顔見知りになりますが、葬儀式場で顔を合わせると「今日は、何回?」と聞かれるのです。宗教に大らかで寛容なのに、なぜかお焼香の回数にこだわる、という現代葬儀の小さな不思議でした。
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