寺社探訪

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真言宗豊山派 護国寺

真言宗豊山派 護国寺 目次

名称・寺格

神齢山 悉地院 護国寺と称します。真言宗豊山派大本山です。

創建

天和元年(1681年)、徳川綱吉が母桂昌院の願いを受けて、亮賢を招いて建立した。

本尊

如意輪観世音菩薩

みどころ

元禄年間の建築物の多くが現存しています。猫に会える寺。また、寺院にしては珍しい大きな富士塚があります。

アクセス

東京都文京区大塚5-40-1

東京メトロ有楽町線護国寺」すぐ

探訪レポート

真言宗豊山派大本山護国寺にやって参りました。私が働く葬儀業界では、桂昌殿という葬儀式場が有名です。とても広い式場で、社葬クラスの葬儀がよく行われています。近年は私は縁遠くなっていて、数年振りに訪れました。と言っても、仕事でしか来たことがなかったので、境内の伽藍などを見学するのは今回が初めてです。

f:id:salicat:20210717012128j:plain いきなりインパクトありすぎな仁王門で、重厚感を感じます。真言宗豊山派の本山は奈良県長谷寺で、大本山、別格本山などの本山格に位置付けられているのは、この護国寺だけです。仁王門の向こう側に見えるビルは、真言宗豊山派宗務所で、全国の真言宗豊山派寺院を統括しています。位置づけ的には浄土宗の増上寺や、日蓮宗池上本門寺的な感じですね。

f:id:salicat:20210717012109j:plain仁王像もかなりの年代物です。正面側に阿形、吽形の仁王像が安置されていて、裏側には二天(増長天広目天)が安置されています。寛文元年(1661年)に、後に将軍となる徳川綱吉上野国館林藩に封ぜられ、綱吉の生母である桂昌院は、帰依していた亮賢を上野国高崎にある碓氷八幡宮別当寺である大聖護国寺の住職に据えました。天和元年(1681年)綱吉が徳川五代将軍なった翌年、桂昌院の発願によって亮賢に幕府の土地を与えて開かせたのが現在の護国寺です。護国寺寛永寺増上寺などの江戸期の大寺院と比べると創建が遅いのですが、震災や戦火を切り抜けた堂宇が多く、結果として江戸の雰囲気を最も伝える寺院となっています。f:id:salicat:20210717012328j:plain伽藍にはわかりやすく説明看板が立てられています。なぜかHITACHI。六地蔵は新しそうですね。きれいに花が生けられています。お地蔵様は4頭身くらいのお像で、赤い頭巾と前掛というのがスタンダードですが、こちらのお地蔵様は7頭身のモデル体型です。

f:id:salicat:20210717013143j:plain仁王門を抜けて正面の階段を上がると、不老門があります。 この門は昭和13年に建てられたものです。この不老という額の文字は徳川十六代家達のものです。はぁ? 徳川は十五代慶喜で終わりでしょ? とお思いかもしれませんが、江戸幕府は終わっても、徳川家は永遠に不滅です。という訳で、徳川宗家の跡取りとなった方です。この方は国会議員として長きに渡って活躍しました。近頃森さんが辞任した東京オリンピック組織委員会委員長という役職にも就いていました。日中戦争東京オリンピック自体が無くなってしまいましたが。

f:id:salicat:20210717012343j:plain不老門を抜けるとさまざまな伽藍が並ぶ境内になります。護国寺は徳川家専用の祈願寺だったので、明治維新の後、経済的に窮してしまいます。そんな時に護国寺を数うべく立ち上がったのが、実業家で茶人の高橋箒庵という方です。江戸後期の松江藩大名で江戸を代表する茶人であった松平不昧の墓所が芝から松江に移転する計画を聞くと、その墓所護国寺移転を実現しました。滋賀の古刹三井寺(現・天台寺門宗総本山)から、月光殿を譲り受け護国寺境内に移設しました。また、不老門、多宝塔を建設する他、阿倍仲麻呂の塚石を自宅の庭から護国寺境内に寄進し、有名な仲麻呂の歌「みかさのやまに いでしつきかも」にちなんで、三笠亭、仲麿堂、箒庵(上の写真)という茶室を建設しました。整えた伽藍と5つの茶室で大規模な茶会を開き、茶の湯の本山として護国寺を復活させていったのです。

f:id:salicat:20210717013030j:plain茶室の更に奥にある大師堂です。1701年の建造。シンプルな印象ですが、堂の大きさといい、前庭の広さといい、絶妙に空間に収まっている感じがして、詫びというか、そんな価値を感じます。ただ、扉が閉まっていて少し残念ですが……。

f:id:salicat:20210717012444j:plainこちらのお地蔵様は赤い前掛をしていますね。こちらは一言(ひとこと)地蔵尊といい、ひとことだけ願いを叶えてくれるお地蔵様だそうです。扉は閉まってますが……。

f:id:salicat:20210717012551j:plainこの鐘楼も江戸中期のものがそのまま残っています。この鐘楼堂は「袴腰付重層入母屋造」というそうで、震災と戦火を切り抜けたものが少なく、非常に貴重なものだそうです。

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口角が上がって、ビジネスマナー講習で褒められそうな笑顔ですね。 大仏と呼ばれるものの中では小さなサイズで、2.5mの高さの釈迦如来坐像ですが、この笑顔のおかげで独特の存在感を放っています。この大仏は護持院からやってきたそうです。護持院というのは江戸神田にあった大寺院で、火事で消失して護国寺と併合されたお寺です。

f:id:salicat:20210717012651j:plain金剛力士像というやつですね。胸肩上腕のムダの無さ比べて 、ぽっこりお腹が残念ですが、仁王像にしても、四天王像にしても、なぜかお腹はこんな感じです。護国寺に併合された大寺院、護持院について、もう少し深掘りしてみましょう。江戸から見て鬼門の方角にある筑波山に知足院という寺院があり、江戸の鬼門守護のため徳川家康に庇護され、江戸に別院を設けました。五代綱吉の時代になり、綱吉からも深く帰依された知足院は神田に広大な敷地を与えられ、湯島にあった知足院別院を神田に移し、護持院と改名しました。

f:id:salicat:20210717012713j:plainしかし、享保2年(1717年)に、護持院は火災により全ての堂宇を綺麗さっぱり焼失してしまいました。そのために広大な土地がぽっかりと空いたので、そこは護持院ヶ原と呼ばれ、江戸城の火除地として建物を建ててはならず、江戸を通じてずっと空き地でした。享保5年に幕府の命によって、護持院は護国寺と合併し、寺領は合わせて2700石の大寺院でした。明治時代になり、徳川家専用の祈願寺だったことで、廃仏毀釈に耐えられず、護持院は廃寺になりました。

f:id:salicat:20210717012736j:plain今となっては、幻の大寺院となる護持院ですが、現在の神田錦町1、2、3丁目と、一橋通り町を占める広さでした。現存していたら真言宗豊山派大本山は護持院だったかも知れませんね。f:id:salicat:20210717012758j:plain本堂は観音堂で、本尊は如意輪観音となります。ここも扉が閉まっていますが、これは来た日が悪かったのか、時間が悪かったのか。お参りできず残念です。さて、創建当初の本尊は桂昌院の自念仏だった唐物天然琥珀の如意輪観世音菩薩像が安置されていましたが、元禄13年にこの琥珀の観音像は秘仏として奥の院に移され、幕府の大老堀田正虎の母、栄隆院によって六臂如意輪観世音菩薩像が本尊として寄進されました。この観音像は、増上寺の黒本尊と同じく、恵心僧都の作となっています。

f:id:salicat:20210717012840j:plain1691年 に建立された薬師堂です。こちらも当時のまま残っています。さて、真言宗空海が開いた宗派ですが、空海の没後激しく分派していきます。まずは東寺(教王護国寺)と金剛峯寺の本末争いがあり、東寺が金剛峯寺を従えることになりました。その後、真言宗内では派閥争い、権力争いが激化して、金剛峯寺には、権力に強欲な僧侶とやる気のない僧侶の二極化が深刻化しました。そんな時金剛峯寺に現れたのが、空海以来の天才と言われた覚鑁(興教大師)です。覚鑁金剛峯寺を東寺の支配から独立させ、教学を重んじ復活させようとしました。ところが、金剛峯寺内の僧たちがこれに反発して、覚鑁を追い出してしまいます。

f:id:salicat:20210717012903j:plainこちらは 忠霊堂で、日清戦争で戦死した軍人の遺骨を埋葬した際、多宝塔と拝殿を建立し供養したのだが、その拝殿が、この忠霊堂です。さて、高野山を追われた覚鑁と弟子たちは、根来寺を開き、覚鑁の死後金剛峯寺から独立し、新義真言宗として発展していきました。根来時は雑賀衆と組んで鉄砲も扱う強力な僧兵団を結成し、秀吉や家康の合戦に絡んでいくこととなります。秀吉に追い詰められ、奈良長谷寺に逃れたのが真言宗豊山派、京都智積院に逃れたのが真言宗智山派となるのです。

f:id:salicat:20210717012922j:plainきっと名のある方の墓所ですが、護国寺の墓地はやたら立派な墓所がたくさんあります。やはり徳川家専用のブランド力で、明治以降社会ステイタスの高い方が多く墓地を求めたのでしょうね。墓地と言えば、明治時代に寺領を政府に召し上げられ、皇族専用の墓地として活用されている豊島岡墓地が隣接しています。そのために護国寺のことを「天皇家菩提寺」と呼ぶ方がいらっしゃいますが、天皇家神道ですし、昭和天皇人間宣言するまでは神として存在していたので、仏教に帰依することはありませんね。

f:id:salicat:20210717012945j:plainさて、こちら(↑)どう見ても永代供養墓ですね。 現代社会では家族がいても、いつ自分の墓を見る人がいなくなるかわかりません。行く末を寺院が管理供養してくれる永代供養墓や納骨堂はこれからスタンダードになっていくと思い、当ブログでもご紹介しています。この永代供養墓は地下3階まであるそうで、かなりちゃんと造られていますが、内容については一切不明でした。おそらく個々の事情によって入れたり入れなかったりするのかなぁと思いますが、ご希望の方は料金含め問い合わせしてみると良いと思います。

f:id:salicat:20210717013307j:plain最後に、こちらは音羽富士というものです。 富士山は霊峰と呼ばれ、さまざまに信仰と結びついて存在しています。富士山信仰で最も有名なのは浅間神社ですね。気軽に富士山に行けない人のために、築山を作ってそこに浅間神社を勧請するということは、各地で見られることです。護国寺境内にもこんな感じで浅間神社があって、築山の中をうねうね歩いて浅間神社にお参りすることができます。

今回は初めて護国寺の境内を歩いて見学しましたが、思えば桂昌殿の方へ全く行かなかったです。仕事場だという認識なんでしょうね。桂昌殿を見学するという発想すら思い浮かびませんでした。

 

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