根津神社 目次
名称・社格
根津神社と称します。古くより根津権現として親しまれてきました。旧社格は府社で、東京近郊の准勅祭社による「東京十社」の一社です。
創建
創建は不詳ですが、1900余年前、日本武尊が東征の際に千駄木に創建したと伝えられています。
御祭神
素戔嗚命(すさのおのみこと) 大山咋命(おおやまくいのみこと) 誉田別命(ほんだわけのみこと)
ご神徳
除災招福・家内安全・病気平癒・心願成就・安産祈願 など
みどころ
根津の鎮守の神様です。徳川6代将軍家宣の生誕地で、江戸期の荘厳な権現造りの社殿や楼門、唐門などの建築物が素晴らしいです。また、境内社の稲荷神社の千本鳥居は映える影スポットとなっています。東京十社巡りの一社で、つつじが見頃の季節(4月中旬~下旬)には、見事なつつじ苑があります。
アクセス
東京都文京区根津1-28-9
東京メトロ南北線「東大前」徒歩5~10分
探訪レポート
根津は町そのものにすごく魅力があって、根津・谷中・本郷あたりは、一度は住んでみたい町でした。古い町が一周巡って新しい、というか、ボロい建物が一周巡ってカッコいいというか、年月が町を魅力的にしていて、それをわかっている人たちがその魅力を維持している。という印象で、若い頃は憧れていました。谷中に「乱歩゜」という味のある喫茶店があって、訪れたのは20年以上前だと思うが、調べてみると今でも存在してるようですね。町を歩いていると、当時と比べてずいぶん変わってしまった感は否めませんが、まだまだ魅力的な通りがたくさんあります。そんな根津の町の鎮守である、根津神社に行って参りました。
朱色よりも臙脂色に近い鳥居をくぐって、参道を歩くと、境内が開けてきます。まずは大きな楼門があります。この日は土曜日で、入口から参拝の方が多かったです。七五三のお参りの家族連れも見られました。看板のご由緒を見ると、ご祭神は素戔嗚尊、大山祇命、誉田別命とあります。地の神っぽい感じですが、調べてみると、いわゆる神仏習合の権現社だったそうで、かつては根津権現社と呼ばれていたそうです。この楼門の左側に2000坪のつつじ苑があるのですが、季節ではないので、また良き時にご紹介したいと思います。
楼門を抜けると、左に手水舎、右に舞殿があります。神楽殿ではなく、舞殿なのですね。素戔嗚尊を対象とする神仏習合の信仰はいくつかあります。祇園信仰や氷川信仰などなど。根津権現は権現と言っても、例えば蔵王権現とか、飯綱権現のように、固有の形相や性質や成立ちを持つ神ではなく、素戔嗚尊そのものを、神仏習合の神として信仰しているようです。ちなみに本地仏は十一面観音菩薩だそうです。私ごときのリサーチではあまり深く知ることはできませんでしたが、根津神社というよりも、今でも根津権現として親しまれている感じです。
こちらが唐門です。やはり色合いが渋いですね。スサノオと共に祀られている大山咋命は別名山王といって、比叡山の日枝大社でも祀られている、いわゆる神仏習合の山王信仰(山王権現)というやつです。当ブログでも溜池山王の日枝神社を訪れました。誉田別命は、応神天皇のことで、その神霊を八幡神と言います。八幡神も神仏習合し、八幡大菩薩と言われますね。これら神仏習合の神が三柱祀られているので、根津三所権現とも呼ばれたそうです。
根津神社の創建は不詳ですが、1900余年の昔に日本武尊が創祀したという伝説があります。創建されたのは千駄木の地です。江戸時代になった頃、まだ根津権現は千駄木にあって、ほど近い上野の寛永寺で南光坊天海が勢力を振るっていたからなのか、根津権現の別当寺院は天台宗の寺院が務め、山王権現としての色合いが濃くなってきたようです。徳川三代将軍家光の三男で、六代家宣の父である徳川綱重の屋敷が根津にあり、1706年、家宣が江戸城に入ることで、空いた屋敷跡地に根津権現が千駄木から遷座してきたという訳です。将軍様の生誕地に遷座するということで、大名たちがガッチリと普請した権現社です。このあたりが根津という地名なのは、根津権現社が移転してきたから、という説と、岡の根にあたり港(津)があったという地形説があるそうです。地形説が有力とのことですが、だとしたら、千駄木にあった頃は根津権現とは呼ばれてなかったのでしょうか? さておき、このあたりは明暦の耐火、上野戦争、関東大震災、東京大空襲と、木造建築物の保存的に大変な場所だったはずですが、江戸時代の建物がそのまま残っているというのは、素晴らしき御神徳です。
拝殿は豪華ですが、渋みのある赤です。楼門から唐門、本殿と歩いてきましたが、全て1706年遷座当時の建物で、国の重要文化財に指定されています。当時の徳川家の威光の大きさを物語る、豪華で精緻な作りです。写真を見てもわかりませんが、七五三のお参りの方々も見受けられました。一人っ子政策が始まった頃の中国は、ひとりしかいない子に一族の愛が集中するから、肥満児だらけになっていたようですが、図らずも少子化の日本でも同様に、子供ひとりに大人四人という団体が多かったです。肥満児だらけにならないように注意しましょう。
本殿の左側に千本鳥居があり、ここにも稲荷神社があります。この国で稲作がいかに重要な要素を占めていたのかが、稲荷信仰の広がりでわかりますね。このような摂末社だけでなく、町の通りの角や大きな家の庭などにも、小さな稲荷社があったりします。根津権現の摂末社は二社あり、いずれも稲荷神社です。
こんな感じで鳥居をくぐって歩きます。ここは映えるポイントなので、撮影している若い人が多かったです。私は背が低いので頭がぶつかることはなかったですが、180cmある人だと屈んで歩かなければ、ぶつかってしまいます。
千本鳥居をくぐり終えると、お社があり、お社の前が清水寺の舞台のようにせり出して、下の境内を見下ろすことができるという、凝った造りになっています。こちらは乙女稲荷神社と言います。乙女とつくので、恋愛稲荷神社です。稲荷神社の御祭神は、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)ですが、宇迦之御魂神が女神で、社伝の奥の岩穴を女性に見立てたという由来です。神社関係はこのように男女のシンボルを神体のように扱うことが多いですね。
乙女稲荷神社を抜けたあたりに、庚申塔が6基集まって庚申塚として建っているものがあります。庚申信仰というのは中国の道教由来の信仰で、60日ごとにやってくる庚申の日に眠ると、三尸という体内にある虫が体から抜け出して、(中国で全てを司る存在とされる)天帝にその人の罪悪を告げ、寿命を縮めてしまうという言い伝えがあります。この言い伝えに、仏教や神道・修験道や民間信仰や習俗が加わって、日本で広まった信仰です。平安時代には広まっていて、庚申の日は眠らずに集まって般若心経などを唱えて過ごしていたそうですが、それが転じて、遊興を行うようになったそうです。室町時代に入って、そんな庚申信仰に祈りの対象が作られるようになり、それが青面金剛や猿田彦神などとなって庚申塔が建てられるようになったそうです。
庚申塚の隣に塞の大神があります。こちらは路傍の神である道祖神です。道祖神は、村や土地の境界や辻や三叉路などに建てられ、外側からの良くないものの侵入を防ぐ、内側を守るという意味合いがあったそうです。石碑や石像の形で建てられることが多かったそうです。由緒書によると、ここに安置されている塞の大神は、そもそも駒込の追分と呼ばれる場所にあった榎の木と一里塚(日本橋から一里)が、明和3年(1766年)に焼けて、その跡に庚申塔が建てられたが、それも文政7年(1824年)の火災で欠損し、その跡地に明治6年(1873年)に建てられたものです。明治43年に道路拡幅のために、根津神社境内に遷されたそうです。
塞の大神の石碑をすぎると、また鳥居がポツポツ現れます。更に進んでいくと、駒込稲荷神社があります。こちらの鳥居は乙女稲荷に比べるとスカスカ感があります。
駒込稲荷神社は、ここがまだ根津神社ではなく、徳川綱豊(六代将軍家宣)の屋敷だった頃、屋敷内に守り神として祀られていたもので、根津権現社の遷座に伴って末社となったそうです。横から向かうとスカスカ感のある鳥居を抜けていきますが、正面からですと階段を上がって大きな灯籠があってと、なかなかの重厚感です。
かつては徳川将軍家の縁の神社として栄えましたが、現在は根津の鎮守として地域の方々に愛されている神社です。本殿とその周囲が、坂があったり川(堀)があったり、つつじの丘があったり、それらを見渡す舞台があったりと、非常に凝っていてゆっくりと巡りながら時間を過ごすことができます。
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