上ノ島神社を過ぎるとすぐに国立市に入ります。石田大橋の手前に四谷本宿床止という、堰があります。これは航空写真で見るとすごく気持ち悪いです。トライポフォビアの方は見ないことをお薦めしますが、google mapなどで見られますので興味があれば見てみてください。
中央自動車道を超えたところ、万願寺の渡し跡があります。日野橋ができたことで、大正15年にお役御免となりました。現在の石田大橋は国道20号日野バイパスが走っていますが、江戸時代には甲州街道をつなぐ渡しとして活躍していました。
畑の一角に鳥居が見えます。この感じだと、畑の所有者さんが建てたお社ですね。周囲の植木もちゃん整えられています。
小さな祠で、一体何の神をお祀りしているのかはわかりません。
多摩川左岸巡礼29番:青柳稲荷神社
そこからすぐ近くにあるのが青柳稲荷神社です。境内も広くてちゃんとした感じでした。1755年の創建で、青柳村の村社として親しまれていたそうです。本殿と拝殿は市の文化財に指定されています。境内で小さな子どもと母親が楽しそうに笑い声を上げて遊んでいたので、そこへ無愛想なおじさんが特攻すると、楽しい親子のひとときをぶち壊してしまうので、入口で一拝して去りました。
多摩川左岸巡礼30番:国立市青柳 稲荷社
青柳稲荷の近く、府中用水の取水門のあたりにあります。社よりも、隣の木がインパクトあります。かなりの樹齢だと伺えます。このあたりは農業用水の取水門と排水門があって、歩いていても、なんとなく空気が湿っている感じがします。
木製の味のある橋が現れます。根川貝殻板橋と言います。このあたりから立川市に入ります。根川貝殻板橋は、多摩川の支流の根川に掛かる橋ですが、多摩川沿いのサイクリングロードはここを通る設定になっています。支柱が木製の斜張橋です。植物に侵食されつつありますが、きっと冬の間に葉は落ちてしまうと思われます。
海から40kmになりました。広い河川敷と土手という風景では、大田区六郷あたりからそんなに変わっていません。ただ、周囲の景色は都心とは違って巨大マンションなどもなく、のどかな印象を受けます。奥に見えるのは立日橋で、モノレールも一緒に走っています。2019年の台風19号で、手前の日野橋が歪んでしまい、数カ月間通行不能になりました。その時に活躍したのが立日橋です。
40kmのキロ杭からすぐのところに日野の渡し跡がありました。万願寺の渡しと同様に、甲州街道をつなぐ渡しだったと思われます。おそらく、洪水による氾濫で、渡し位置もズレて移動したでしょうし、甲州街道も周囲の村も何度も移動したのだと思います。大正15年に日野橋の架設と共に役目を終えました。
お参りポイントに立ち寄ることなく、昭島市に入りました。少し川の様子が違っています。ゴツゴツとした大きな石というか岩盤というか、大昔の地層が露出した感じです。もう少し進むと、アキシマクジラの出土地ですので、本当に数100万年前は海の底だった場所になります。このあたりまで来ると、ジョギング勢、自転車勢、散歩勢の三大勢力の他、山菜勢という新しい勢力が加わります。河川敷で何が取れるのか知りませんが、山菜を摘んでいる光景が見られるようになりました。
昭島市の渡し跡のモニュメントは、船の形をしたベンチ調のものです。ここは築地の渡し跡です。説明文によると、この渡しがつないだのは大山街道と呼ばれた通りで、所沢から八王子を経て大山に繋がっていた道だそうです。大山は阿夫利神社がある大山です。昔は、このように信仰の地を目的地として道が造られていました、大山にもこの所沢-八王子ルートだけでなく、各方面から大山を目的地とする道がありました。〇〇詣でというのが流行していて、各地から聖地を目指して団体旅行のような参拝が組まれていたようです。昭和15年まで運用されていました。
多摩大橋です。このあたりは昭島市福島といい、先ほどの築地の渡しも、福島の渡しと呼ばれていた時期があります。視界がすごく開けていて、多摩川は広いなという感じです。
海から45km。全行程の半分は過ぎたのかなと思いますが、おそらく後半は前半ほど進みやすくないと思いますので、体感的には1/3過ぎという感じかと思います。広い河川敷をグイグイと進みます。立川~昭島と、全く巡礼ポイントに立ち寄っていないですね。
八高線を超え、大神公園というところに平の渡し跡の看板が建っています。先ほどのベンチ上の築地の渡しのモニュメントとは大きな差ですが、ここにも渡しがあったようです。八王子市平と昭島市大神町を渡していたとのことなので、まさにこの地点にあったようで、付近の渡しの中でも最も古い渡し場だそうです。
こちらは日野用水堰です。このあたりは農業用水として、昭島方面(左岸)と日野方面(右岸)の両方に水を引いていたので、両者の間で何度か揉めたそうです。
「たまリバー50km」のコースはまだ続いていますので、自転車も走行できる土手の道が真っ直ぐに走っています。
拝島橋の袂に拝島の渡し跡のプレートがあります。リアルな写真風エッチングも添えられていて、当時の様子が伺えます。ここはそもそも八王子と日光を結ぶ日光街道(日光脇往還)だったそうです。江戸時代、日光は言わずと知れた「東照大権現」徳川初代家康の眠る土地です。関ケ原の合戦や甲州街道・日光街道(日光脇往還)の整備をしていた八王子千人同心という旗本武士たちが、交代で東照宮を守る日光勤番と呼ばれる業務をしていました。その時に使われたのがこの道です。江戸が終わっても、拝島の渡しは盛んに利用され続けたそうで、昭和24年、拝島橋の架設によって役目を終えました。
昭島市拝島に入りました。拝島というからには、お参りポイントに立ち寄らなければと、多摩川土手の道から少し離れ、16号線を奥多摩街道まで入ります。奥多摩街道に入ってすぐ、白山神社がありました。門のように刈られた植木に囲まれたブロック造りの社です。白山神社はその名の通り、北陸地方の石川県福井県岐阜県にまたがる白山に対する山岳信仰です。山を御神体とする原始的な信仰から、修験道と仏教と神道が習合した白山大権現を祀り、比叡山や永平寺と結びつき繁栄しますが、明治維新の廃仏毀釈で本拠地がバラバラになってしまったという歴史があります。
用水路のようなところに橋がかかって境内に入ります。境内には本堂と庫裡と住職の住居が繋がって建っている感じです。創建は不詳とのことですが、天正年間(1573-1592年)石川土佐守によって再建されたと言われています。このあたりのお寺の中心となるのは、後ほど伺う大日堂なのです。多摩川を挟んだ対岸に滝山城があり、滝山城の城主だったのが北条氏照です。氏照の重臣でこの拝島を治めていたのが、石川土佐守でした。石川土佐守の娘おねいが病気を患い両目が見えなくなってしまいました。父母はせめて片目でもと大日堂に祈願し、大日堂に湧き出る水でおねいの目を洗ったところ、左目が見えるようになったという逸話があります。石川土佐守は報恩のために大日堂を立て直し、新しく一山八坊を建立し、滝山城の鬼門除けとしたそうです。その八坊の1つがこの圓福寺ということです。これらが建立または再建されたのは天正年間という記述と、天正元年という記述があるようです。
ブロック塀の祠に鎮座されています。ここは大日堂の入口です。由緒書きが無ければ、全国どこにでもいる、ありふれたお地蔵様の一体として通り過ぎていました。先ほど「拝島の渡し」の時にご紹介した八王子千人同心が日光勤番に赴く際に、ここ拝島を宿場町としました。宿場町が成立した天和2年(1682年)に、宿場町を東西から見守る2体のお地蔵様が設置されたそうです。この坂下地蔵尊は東のお地蔵様だったそうです。明治17年の坂下大火、大正6年の下宿大火という大火事の際、このお地蔵様は町と人々を守るため、火消しに空を飛び回ったという伝説があるそうです。そして、建立330年を記念して、地元の方々で花立香炉と由緒書き、のぼり旗を設置されたそうです。見てみると、花立香炉と由緒書きが新しいですね。言われないとわからないことですが、ありふれたような道端のお地蔵様にも、歴史と物語があるんですね。読んでいて感動しました。
このあたりには天台宗の寺院がいくつかあり、大日堂が普明寺の堂宇の1つのように位置付けられていますが、そうではなく、実質は大日堂(密厳浄土寺)ありきなのです。天暦6年(952年)、日原村の日原鍾乳洞に安置されていた大日如来像が洪水で流され、多摩川の島(中洲)で発見されます。そこに村人がお堂を建てて像を安置し、拝むようになったことから、「拝島」という地名になったそうです。しかし、世田谷区野毛の六所神社といい、流れてきた社や仏像がどこにあったものかを知っても、元の場所に返さないのが当時の常識なんですね。
その後、大日堂の別当寺として天正元年(1573年)に普明寺が建立されたと言われています。天正年間(1573-1592年)に、北条氏照の重臣、石川土佐守が大日堂の堂宇を整えて、一山八ヵ寺を建立する。という流れで、普明寺は大日堂の別当寺の1つでした。そこからどういう訳か、密厳浄土寺の名前は江戸中期には消滅し、別当寺の普明寺が大日堂を護持しています。
こちらは大日堂の入口と並ぶように建っています、日吉神社の鳥居です。日吉神社の総本社である日吉大社は、比叡山の守護神です。日吉大社も延暦寺もあれやこれやも、全て含めたひとつの山、比叡山の信仰、いわゆる山王信仰を担ってきました。そして、比叡山から遠く離れたこの拝島でも、拝島山という一つの山に、天台宗寺院と日吉神社(山王社)が一つになった信仰がありました。この日吉神社は天正年間の大日堂の再建期に、その守護神、山王社として建てられ、山王大権現と称しています。この天台宗の寺院の在り方を今に伝える場所として、東京都指定の史跡に選定されています。
仁王門があります。仁王門は創建不詳でよくわかりませんが、密厳浄土寺の額が掲げられています。仁王門の中にいらっしゃる仁王像がかなりの年代物で、鎌倉時代の制作で東京都の文化財とされています。説明によると、阿形像と吽形像は別々の仏師が彫ったとされていますが、私には同じ人が彫ったように見えます。結構経年劣化が見られるので、ド迫力という感じでもないですが、古いものなんだなぁと感心します。
大日堂への階段の手前に池があって鯉が泳いでいます。湧き水で見えない目が治ったという伝説もあり、水が豊富な印象を受けます。この先は左に手水舎があり、右に伝説の「おねいの井戸」があります。そこから階段を上がっていると、逆に階段を降りてくる見知らぬ方が「こんにちはぁ」と挨拶をしてくれました。コロナ禍の世の中になってから、こんな風に見知らぬ人とすれ違いざまに声を掛け合うことも少なくなりました。登山やハイキング中でも、挨拶は慎むのが昨今の常識のようになっているそうです。
大日堂にやってきました。本尊は大日如来坐像です。実はこの大日堂は戦場にもなったことがあり、1569年、関東の領主北条氏照の滝山城を武田信玄が攻めた際、武田側の本陣をこの大日堂の境内に置いたそうです。この時は、氏照が撃退に成功していますが、被害も大きく滝山城を破棄しています。現在の大日堂は亨保17年(1732年)に階段下から階段上へ移転再建されたものです。
鐘楼も立派です。個人的な趣味の問題ですが、私は朱塗りよりも生成りの建物の方が好きです。おそらく荘厳なの見た目や保存状態を良くするために朱塗りは良いのだと思います。しかし、古いものを「古いものを見るように」見るのが寺社の味わい方だと思うので、年輪や筋が見える方が味わい深く感じます。
左が日吉神社、右が大日堂。本当に並んでいるのだと興味深く感じました。この状態になったのは1732年以降だと思いますが、これぞ山王信仰ですね。大日堂の東側に薬師堂があるのですが、山王権現の本地仏は薬師如来です。延暦寺の本尊も、寛永寺の本尊も薬師如来なので、拝島のこの地が本当に古き正しき天台の姿を今に伝えているのですね。
こちらが大日堂の別当寺で、大日堂を運営している普明寺です。入口の階段や山門は新しいです。整然としてすごくきれいな境内です。大日堂の歴史の重さ丸出しの感じとは随分違っています。普明寺もそうですが、大日堂も圓福寺も、山号は拝島山で同じです。一山八ヵ寺として整えられたから当然なのですが、450年前の人が行った報恩が、今も形になって残っていることに、神仏に祈りを捧げることの見えざる価値が、目に見えてくるような気がします。
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