JR古里駅周辺の集落にあります曹洞宗の丹雙院です。二俣尾にあった海禅寺の七世天江東岳が開山しました。村内にあった三つの寺院がひとつになったという寺院です。この辺りの寺院は曹洞宗が多いです。奥多摩地域は、曹洞宗の二俣尾の海禅寺の影響力、真言宗豊山派の青梅の金剛寺の影響力が強いですね。
本堂は禅宗らしい建物です。本堂の右側に真っ赤な阿弥陀堂があるのですが、この阿弥陀堂が、室町時代後期~戦国時代の建物だそうで、奥多摩エリアで最も古い建築物だそうです。
丹雙院のお隣に鎮座しているのが小丹波熊野神社です。立派な鳥居が建っています。小丹波熊野神社の御祭神は、伊耶那美命、速玉男乃命、事解男乃命と、熊野信仰の神々です。
茅葺の屋根の神門が存在感ありすぎですが、この造りは例のあの造りです。
前回もご覧いただいた、この地面に穴が空いたような参道。こちらは前回訪れた川井八雲神社と同じく、神門の二階の裏側が神楽殿の舞台になっているというパターンです。傾斜を利用した石桟敷の客席も同様です。
こちらはこの舞台で演じられているお囃子です。奥多摩の他の神社同様、この小丹波熊野神社でも獅子舞が受け継がれていましたが、歴史の流れの中で途絶えてしまいます。そこで地元の人々によって、お囃子が新たな伝統芸能として受け継がれているそうです。
手水舎です。私が訪れたときは外国人なのかハーフなのか、金髪の男の子が境内で自転車の練習をしていました。地面の下から現れたおっさんに怯えていましたが、しばらくすると無事に練習の続きをしてくれたのでホッとしました。
この神社の創建は、神話のような伝説があります。仁寿3年(853年)に、高山村大六天の峰の柏の大木に夜な夜な光がかかり、ある村人の夢に熊野三社権現が現れて、当地を守護するので鎮座の祭祀をしろというお告げがあった。翌日確認しに行くと柏の木に三面の鏡があったそうで、早速小社を造営したというのがこの神社の創建のお話です。
相殿に五十猛命が祀られていて、他に境内社は写真( ↑ )のように並んでお祀りされています。一番奥の大きな社は、熊野神社が祀られる前からここに存在していたという丹生神社です。穴のあいた石の中に石が入れられていて、妊婦を模している子宝・安産の神様だそうです。
JR古里駅周辺の集落を抜けて、青梅街道を進んでいると、このような( ↑ )緩やかで長く細い階段があります。奥に鳥居が見えますね。早速向かってみましょう。
愛宕神社と書かれています。鳥居の奥はものすごく急な階段になっています。登るべきか登らざるべきか、少し悩むことになります。
階段の途中に祠があります。奥多摩の山の中の神社に行くと、このように狛犬のように左右に祠が建っているのを見かけます。やはり狛犬と同僚に社の守護的な意味合いがあるのでしょう。
ここはそれほど距離はないのですが、なにしろ急なのと、階段の幅があまり広くないので、足腰丈夫な人でないとちょっと難しいです。手すりもありませんし、特に下りは怖いと思います。一気に上ると息切れして大変なので、休憩しながら登りました。
登りきったところに境内がありました。左が神楽殿、正面が本殿です。愛宕神社なので御祭神は火産霊命(ほむすびのみこと)つまり火の神様、カグツチです。おそらくは神仏習合の愛宕権現を祀っていたと思われます。
本殿の右側に境内社が2社ありました。稲荷社と山神社となっていました。無事に下りれるようにお祈りをして、下りの階段を下りました。
愛宕神社を下りて青梅街道を進むと、畑にたくさんマネキンが立っています。これは畑を守るというよりも、通行者を楽しませようという気持なのだ思います。それにしてもこんなにたくさん、畑仕事の邪魔にならないのでしょうか? そんなこと言っていてはエンタメは成就しないですね。
寸庭橋に向かう道が工事中で通行止めになっていました。この景色はそこから更に歩いた将門大橋の隣の橋から見下ろした多摩川です。急流というか渓谷が続いています。
青梅街道沿いに現れた入口。これだけ派手に書いてくれていたら、間違えることはないですね。家紋が巴紋になっていますが、これは三田氏のものですね。平将門は九曜紋を使用していました。奥多摩を治めていた三田氏が将門の子孫ということですので、このようになっているのかなと思われます。ということでここは将門神社の入口です。
舗装された山道を進みます。途中に真新しい供養塔が建っているのですが、将門公一族と交通受難者を一緒に供養していました。なかなかの力技です。多摩八座(多摩八社)という括りがありまして、平安時代に定められた延喜式神名帳の中に記載された官社のうち、当時の多摩郡に置かれていた八社のことなのですが、日本武尊が東征の際に素戔嗚命と大己貴命を祀った穴沢天神をこの地に創祀しました。現在も穴沢天神は境内社として将門神社内にあります。ということなのですが、実はこの多摩八座の穴沢天神には現在複数の候補がありまして、この奥多摩の将門神社境内にある穴沢天神のことかどうかはグレーゾーンとされています。議論を要する論社というやつです。
多摩川左岸巡礼111番:将門神社
山の中に突如として神社が現れるのは本当に奇妙というか、不思議な感じがします。かつてこの地には穴沢天神だったのですが、この地の鎮守府将軍だった藤原利仁が八千戈命を祀って多名沢神社を起こし、その後、平将門の長男とされる良門が亡き父の霊を相殿として祀ったので、平親王社と呼ぶようになったそうです。
永正年間(1504-1520年)に三田氏の崇敬を受けて棚沢村の東地区の総鎮守になり、江戸期を通じて地域の鎮守として崇敬されましたが、明治41年棚沢西地区の総鎮守だった棚沢熊野神社に合祀され幕を閉じました。んが、昭和50年に地域住民が社地を整備して、この地に再建したそうです。
手水舎もあります。右にあるのは、昭和50年の将門神社再建を記念した石碑と再建の由緒書きです。ちなみに多名沢神社と将門神社が合祀され棚澤熊野神社は、鳩ノ巣駅の北側にあります。今回は訪れていませんが、奥多摩特有の石桟敷の舞台がある神社です。
こちらが本殿です。この本殿内には将門公の神像があるそうですが、当ブログ「寺社探訪」でも訪れた赤坂氷川神社にある平将門神像を模して作られたそうです。
緑の陶器の狛犬は珍しいです。山の中ですごく人工的で目立ちます。うつむく視線が可愛らしいです。
馬の額が飾られていますが、この馬だけで将門を表しているそうです。「繋ぎ馬」と称し、騎馬隊で名を馳せた将門の紋章のようなものだそうです。実はこの馬は神田明神のシンボルである随神門にも描かれています。
本殿から更に山奥にしばらく歩いていくと、三面不動堂がありました。こちらの不動堂は将門神社の境内の堂宇ということみたいです。このお堂に安置されている不動尊は三面六臂で、鎌倉時代末期~南北朝時代の制作だそうで、奥多摩町の文化財に指定されています。
そしてこの不動堂の左側に小さなお堂( ↑ )があって、それこそが日本武尊がこの地に安置された穴沢天神社です。元いた神が後から来た神に主祭神の座を奪われ、境内社として存在しているって、アラハバキ神のようですね。
多摩川左岸巡礼113番:御幸姫観音
御幸姫というのは将門公の妃だそうです。将門の没後、当地棚沢に一族と共に移り住んだそうです。姫の没後は御幸姫塚を築いて、永く人々に崇拝されてきました。戦後、塚は荒れるがままにされ、忘れ去られていきました。その後は誰ともなく御幸姫の霊に対する追慕の念が強まって、昭和50年に将門神社が再建される際に、御幸姫観音も建立されるに至ったそうです。
観音様は変幻自在で男性だったり女性だったりするのですが、御幸姫観音は女性の仏様で、柔和な顔と雰囲気が周囲に漂っています。足元に心と書かれた石があって、訪れる人を和ませています。心は丸く…ですね。
多摩川左岸巡礼114番:稲荷神社
青梅街道に戻って、また奥地へ向かって進んでいきます。JR鳩ノ巣駅の手前に稲荷神社がありました。鳥居の額に正一位稲荷大明神と書かれています。稲荷神社ではこの正一位と書かれている神社があるのですが、これは稲荷神社の総本社である京都の伏見稲荷神社から勧請した御祭神を祀っている神社だということだそうです。神にも神階という階級制度を当てはめたことがあるのです。
更に青梅街道を進みます。棚沢橋という橋の袂に小さなお地蔵様がいらっしゃいました。こちらのお地蔵様は交通安全のお地蔵様です。飲物がお供えされていました。左の花立てが取れてどこかへ行ってしまっていますね。
JR鳩ノ巣駅前に到着。鳩の巣は景勝地で、駅の周りは旅館や釜飯屋や蕎麦屋などがありました。雲仙橋が掛かっていて、橋の上から鳩ノ巣渓谷を見ることができます。
写真では音が伝わらないのが残念ですが、水の流れる音と言うか、水が岩を叩く音と言うか、ゴゴーっという音が自然の力を感じさせます。
多摩川左岸巡礼116番:水神宮
鳩の巣渓谷に降りてみると、水神宮があります。凸凹した渓谷の凸の部分に建てられた神社です。御祭神は罔象女神(みつはのめのかみ)です。代表的な水の神様です。ちなみに羽村市の玉川上水の入口にあった玉川水神社の御祭神も、大田区の玉川水神社の御祭神も、水波能売命=罔象女神です。この奥多摩の水神宮と関係あるのか無いのかは知りません。
巨岩のてっぺんに上ったところに祠がありました。ここからは鳩ノ巣小橋が見えます。
せっかくですので、鳩ノ巣小橋を渡って多摩川右岸の遊歩道を進みたいと思います。鳩ノ巣小橋を渡った辺りが一番岩がゴツゴツと重なっていて、渓谷美の素晴らしいところです。記念写真を撮っている方がたくさんいました。これでも遊歩道なのか? と問いたくなるようなゴツゴツの道を進みます。結構アップダウンもあるので、最低でもスニーカーのような運動靴。できれば、底の分厚い靴が良いです。
水神宮のところにあった看板によりますと、明暦3年(1657年)江戸で明暦の大火が発生し、その復興のための木材を奥多摩地域から多摩川を流して運んだのだそうです。木材を運搬するための人夫が宿泊する飯場小屋が多摩川沿岸に建てられたのですが、この地にも(現在はないが)滝があった都合上人足が必要で、飯場小屋が建てられたそうです。飯場に祀った水神社の森に鳩が二羽巣を作っていて、朝夕せっせと餌を運ぶ様子が仲睦まじく、人々が霊鳥として愛護しました。そのために鳩ノ巣飯場と呼ばれ、この地の地名にもなったそうです。
絶景を見ながら進んでいると、白丸ダムに到着しました。写真は白丸魚道と呼ばれていて、ダムによって魚の通り道が遮断されることがないように作られた魚の通り道です。賢い人が考えて作ったのでしょうが、本当かなぁ、と思いますね。一度近くで魚が泳いで通っているところを見てみたいものです。
多摩川の水力発電を管轄しているのは、国土交通省とか東京都建設局とか東京電力とかだと思っていたのですが、実は都営地下鉄や都バスを運営している東京都交通局なのです。これはそもそも都が扱う電気事業の目的が電車を走らせることだったからのようです。多摩川には3つの水力発電所があります。ひとつは奥多摩湖のそばにあります。もう1つはこの白丸ダムのそば、そしてもう1つ、ダムなんてありました?
もう1つの水力発電所は、御岳山の麓、杣の小橋の近くにあります。そこにはダムはありません。この白丸ダムから水を引いて発電だけしている施設です。御岳神社の一之鳥居の近くに、山の上から通っている長いパイプを見ることができます。
このダム湖畔に沿った道は、遊歩道とダムの監視道を兼ねているそうです。深い緑の水が、エメラルドの伝説ですね。
整備されて手すりもしっかりある道なので、とても歩きやすいですが、すれ違えるほど道幅がないので、周りに人がたくさんいると歩きづらいです。
数馬峡橋からの景色です。緑の水と紅葉が美しいです。
カヌー? カヤック? わかりませんが、10年若ければどうかなぁ、やらないでしょうね。ただ、こんな色の湖に自分の体ほどの大きさの船で浮いていると、ワクドキ感は半端ないと思います。
海から80.2kmです。数馬峡橋を渡って、再び多摩川左岸に戻ります。短い区間でしたが、渓谷~ダムという散策は楽しかったです。巡礼というテーマが吹っ飛んでしまっていますが。遊歩道というには過酷ですが、御岳渓谷あたりからある川沿い遊歩道は是非お薦めなので訪れてみてください。
多摩川左岸巡礼117番:十一面観音像
数馬峡橋から青梅街道を横切って、JRの線路の近くまでやってきたところに、白丸杣入観音堂という名前のお堂があります。ここには秘仏として厨子内に安置されていた十一面観音像があります。この像は徳治2年(1307年)仏師定快が制作したもので、東京都の文化財に指定されています。定快は快慶の一番弟子で、国宝に指定される作品も手掛けている大仏師です。
敷地内にお地蔵様が立っていました。
数馬の切通しという道があります。切通しとは、山や岩を開削して作られた道のことです。トンネル掘削技術のない元禄年間に、火と水を使ってこじ開けたそうです。
この切通しの上に鎮座しています。何を祀ったどんな神社ななのかわかりませんが、切通しがなかった頃から存在していたような気がします。おそらくこんなところで山越えしなければ進めなくなっていたのでしたら、休憩する場所があって、道中の安全を祈る場所もあったのではないでしょうか。おそらくですが……。この赤い鉄の鳥居は昭和55年に奉納されたと、祠内に記録されてありました。
ここへ来るまでの道は最近人が手を入れた感じがあって、石碑が建っていたので見てみると、令和2年に整備したと書かれてありました。できれば、由緒なども碑に書いていただけると、より理解できるのですが。
この社は朽ち果てようとしていますね。過疎地に行くとこんな小さな祠ではなく、中で人が儀礼を行っていた社殿が朽ち果てている世の中です。致し方無いのかも知れませんが、このお社ができてから、これまで祈りを捧げてきた人が何人いるのだろうか? と考えてしまいます。
海沢大橋からみた多摩川です。支流が本流に流れ込んでいますね。こちらは多摩川右岸の山から流れているものです。
JR白丸駅と奥多摩駅のちょうど間くらいに大山祇神社があります。山の中の集落なので、山の神がいて不思議はありません。きっとこれから先も、大山祇神がたくさん祀られていると思います。
ちなみに大山咋神(おおやまくいのかみ)は、日吉大社や松尾大社、いわゆる比叡山の山王信仰の神として有名ですが、大山祇神(おおやまつみのかみ)とは別の神様です。大山祇神の娘の神大市比売(かむおおいちひめ)は、素戔嗚命の妻となり、大年神(おおとしのかみ)を生みます。大年神と天知迦流美豆比売(あめちかるみずひめ)の間の生まれたのが大山咋神です。ひ孫ですね。どちらも国津神で山に関する信仰を司っています。
こちらの境内社も、朽ち果てて行こうとしています。
青梅街道をJR奥多摩駅方面に向かうと、長いトンネルに差し掛かります。このトンネルを回避するには、奥多摩温泉「もえぎの湯」の裏口のような隧道のような場所へ入って行かねばならず、申し訳ないと思いましたが「もえぎの湯」のバックヤードのような場所へ入っていきます。するとすぐにこの祠がありました。三面の馬頭観音様ですね。
結局「もえぎの湯」は通らずトンネル内を通って、トンネルを抜けてから隧道を引き返しました。するともえぎ橋があります。
キャンプ場で楽しんでいる方々が橋の上からよく見えます。キャンプしている方々がもえぎ橋を使って「もえぎの湯」に行くのでしょうね。「もえぎの湯」は3時間850円とリーズナブルで、食事や休憩ができるスペースもあります。
多摩川左岸巡礼121番:大木戸稲荷神社
こちらはJR奥多摩駅の入り口にある稲荷神社です。電車で来られるのはここまでですので、奥多摩の山を目指す人達が、電車を降りてまずは安全祈願する感じですね。稲荷神社は食物の神様ですけど。
見事な三本杉の御神木です。二本に分かれているのは夫婦杉とか言ってよく見かけますが、三本はなかなか珍しいと思います。東京都内最大の杉だそうです。山の中にもっと大きいのありそうですけどね。東京都の天然記念物に指定されています。
由緒正しき「三氷川」の源と言われる奥氷川神社ですが、境内では地元の方々がゲートボールに興じています。本殿の横に氷川コミュニティセンターがあって、ゲートボールのコートにぴったりな境内の大きさです。奥氷川神社についてはまた別でレポートしますね。
通りかかった殿様を招き猫が境内に招き入れて、それでお寺の運命が変わってしまったのが曹洞宗豪徳寺です。江戸幕府の重臣井伊家の墓所を管理し、現代では招き猫の聖地となっています。ただ、奥多摩まで徒歩で寺社巡りしているおっさんを招いても、何も起こりませんが。
またまた曹洞宗の寺院ということで、二俣尾の海禅寺の末寺かと思えばそうではなく、青梅市の丁寧寺の末寺だそうです。
境内は細長くて、鐘楼や阿弥陀堂などがありました。ちょうと訪れた時に、住職さんらしき方が車で送ってもらって帰られました。地元の人っぽい軽バンだったので、地域の方の法事に出かけていたのかも知れませんね。
今回は一気にJR奥多摩駅のある、奥多摩町氷川の町までやってきました。電車はこの町で終わりです。ここから先はバスが主な公共交通手段です。といっても、私は徒歩ですが・・・。
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