寺社探訪

寺社探訪とコラム

聖観音宗 浅草寺1

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聖観音宗 浅草寺 目次

名称・寺格

金龍山浅草寺と称します。元は天台宗の寺院で、昭和25年(1950年)に独立し、聖観音宗の本山となっています。

創建

飛鳥時代推古天皇36年(628年)檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟の網に掛かった観音像を、土師真中知(はじのまなかち)が出家し自宅を寺院に改め供養したことを創建とします。

本尊

檜前浜成・竹成の網に掛かった観音像が本尊で「聖観音像」と呼ばれています。大化元年(645年)に勝海上人という僧が観音堂を整備し、夢のお告げに従い聖観音像を秘仏としました。絶対秘仏となっているので、御前立(おまえたち:秘仏の代わりに人々が拝む本尊)を造ったのが第三代天台座主の慈覚大師円仁です。

ご利益

諸願成就。とにかくたくさんの堂宇や境内社がありますので、どんな願いでも対応できるそうです。

みどころ

東京で一番古い寺院です。雷門~仲見世の賑わいは、都内随一の観光地として知られています。たくさんの堂宇があり、どんな願い事にも対応できる由緒とご利益のある神仏がいらっしゃいます。

アクセス

都営地下鉄浅草線東京メトロ銀座線・東武スカイツリーラインつくばエキスプレス「浅草駅」より徒歩5分

探訪レポート

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浅草寺は寺院というよりも観光地として有名で、雷門は紹介する必要もないほどですが、実はこの雷門は慶応元年(1865年)に焼失してから95年間、時折架設の門が建てられるだけで、再建されることはなかったのです。今となっては浅草というか東京のシンボルとなっていますが、門がない時代が結構長く、しかも最近の再建だったのは驚きです。昭和に入り、戦後になって現在の雷門が再建されるのですが、この門を寄進したのが松下幸之助さんです。松下幸之助さん自身は名前を出されることを嫌がったそうですが、寄進した金額が大きすぎるので、提灯に名前が記されています。松下幸之助さんは浅草寺のみならず、仏教界に常識を遥かに超える多額の寄付をしています。まさに明治政府の廃仏毀釈を帳消しにしようとしたと言っては、少々過言であろうか否か。億万長者に古き信仰文化を守りたい気持ちが備わったら、歴史に抗うこともできてしまうんですね。

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風雷神門というくらいですから、もちろん正面には風神様と雷神様の像が安置されていますが、その他にも風雷神門の住人がいらっしゃいまして、天龍像と金龍像が安置されています。ちょうど風神雷神の裏側にいらっしゃるのですが、上( ↑ )が金龍様で、下( ↓ )が天龍様です。こちらは水を司る龍神さまです。風雷神に加えて龍神とか、仏教なのに神様なのかと思われますが、仏教の守護神としての神様が仏教の世界にはいらっしゃいまして、なぜだか山門の中によくお住まいです。

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雷門と書かれた提灯の存在感がありすぎて、扁額が目立っていませんが、山号である「金龍山」と書かれた扁額が掲げられています。こちらは天台宗曼殊院門跡である良尚法親王の筆だそうです。私は人混みが苦手と以前書いたことがあると思いますが、浅草寺を訪れたのは平日の午後という最も空いている状況を選びました。そんな極力人混みの少ない雷門の前には、筋肉ムキムキのお兄さんたちが人力車のお客さんを求めて並んでいました。観光業は大きなダメージだと思いますが、頑張って生き延びていただきたい。

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仲見世を歩いていて気がついたのが、着物を着ている人が結構いらっしゃったことです。男性も女性も、着物を着た方々は若者層が多くて、化粧している男性もいて、アニメから出てきたようなおしゃれな着物を着ていました。京都祇園の「変身舞妓さん」みたいなもので、着物のレンタルと着付けを気軽に提供するサービスをしているお店があるんですね。

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上下二分割で大きさを表現してみました。こちらが宝蔵門(仁王門)です。浅草寺の山門としての役割があって、ここから先は仏様の神聖な領域です。仁王門なので仁王像が安置されています。裏側には巨大なわらじが掲げてあるのですが、これは、こんな巨大なわらじを履く仁王様がいるのだと知らしめ、魔を退散させるために掲げてあるそうです。実際にはこのわらじは約4.5mもあって、仁王像の身長とほぼ同じなのですが。仁王門自体の創建は天慶5年(942年)ですが、東京大空襲までは徳川三代家光が寄進した仁王門が建っていました。東京大空襲浅草寺は大きな被害を受け、現在の仁王門は昭和39年(1964年)に完成したものです。経蔵を兼ね備えた仁王門になったので、宝蔵門と呼ばれています。とにかく大きな山門です。

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宝蔵門を入って左側に五重塔が建っています。この五重塔も空襲で破損し、戦後再建されました。最初は三重塔が本堂に向かって左右一対で建っていたという記録があるそうです。ところで、五重塔寛永寺や本門寺にもありましたが、そもそもどういう役割の建物なのかというと、五重塔の原型はインドの仏塔(ストゥーパ)とされていて、釈迦の遺骨(仏舎利)を納める塔です。浅草寺五重塔は他の有名な五重塔とは違って単独で建っておらず、土台部分が建物(塔院)になっています。

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左右に御札やお守りの授与所、おみくじや御朱印所などがあって、正面に本堂が現れました。常香炉に人が集まっています。この光景はお寺ならではです。ここで煙を手で扇いで頭やら体に被るようにするのですが、観光地ですから外国の方々も見様見真似でこの所作をしているのですが、どんな風に見えているのでしょうか。私はこの光景が少し滑稽に思えて、自分ではしたことがありません。

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大きな手水舎があります。本来は柄杓がたくさん置いてあるのですが、コロナ感染拡大防止のために直接手を注ぐようになっていました。八角形の御影石の手水鉢の中央に龍王が立っています。こちらは高村光雲作の娑伽羅龍王像で、以前は本堂裏にあった噴水に安置されていたそうです。娑伽羅龍王は八大龍王の1神で、風雷神や仁王と同じく、仏教の守護神として安置されています。沙伽羅龍王高尾山薬王院にもいらっしゃって、薬王院の八大龍王堂でも水の中に立っています。

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手水舎の天井にも龍の絵が描かれています。こちらは東韶光という日本画家の作です。日展の方だそうです。手水舎で手を清めている時にふと見上げると、このような絵が描かれていたら、驚きますよね。天井絵は龍が圧倒的に多い気がします。天龍寺法堂の龍雲図や日光輪王寺薬師堂の鳴き龍などが有名ですよね。

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本堂も広くて、どこに注目しようかと迷ってしまいます。本堂の建物の中にも授与物や祈祷の受付などがあります。通常はこの本堂内の外陣からお参りするので、格子越しに内陣の様子を見ることができます。内陣の中央には御宮殿(ごくうでん)と呼ばれる総金箔押の厨子が安置されています。この中に絶対秘仏聖観音像と、御前立本尊が納められています。12月にこの御宮殿の煤払いと開扉法要が行われます。この時には一般信徒にも御前立本尊が公開されます。浅草寺の観音像は浅草がまだ海に近かった頃、漁師の兄弟の網に掛かったことで有名ですが、そもそもは飯能市の岩井観音堂に安置されていた観音像だという一説があります。証拠はないのですが、そのような古い言い伝えがあり、昭和のはじめに、浅草寺側から浅草寺の本尊の分身として造られた聖観音像を岩井観音に寄贈したとのことです。

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雷門にも宝蔵門にも、そしてこの本堂にも、大きな提灯が掲げられています。雷門の提灯には「雷門」と書かれていて、宝蔵門には「小舟町」、本堂には「志ん橋」と書かれています。これは一体どういうことかと言いますと、それぞれ寄進した方々が好きに言葉を選ぶことができるというルールです。小舟町というのは地名で、江戸時代、魚河岸のあった日本橋と地続きの町で、市場に集まる様々な産物を商いしていた小舟町の人々が、浅草寺に寄進した提灯です。では、「志ん橋」とは何ぞや? パッと頭に浮かぶのは噺家さんの名前です。「江戸時代、浅草出身の大人気噺家の志ん橋さんが寄進した提灯」という勝手な想像を追求することもなく、そんな感じだろうなと思い込んでいました。実際には「志ん橋」は「新橋」でした。地名ですね。新橋をキャンペーンするために、電車内の中吊り広告のように、浅草寺の本堂にその名を示したのだそうです。

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こちらは本堂から右に行ったところにある二天門です。ペンキ塗りたてでピカピカでした。浅草神社のすぐ近くです。安置されているのは増長天持国天です。仏教の守護神たる天族の神様です。浅草寺は東京で一番古い寺院と紹介しましたが、628年の創建とされています。この年は推古天皇が亡くなった年で、聖徳太子の没後6年、蘇我馬子の没後2年にあたります。仏教が伝来して(538年として)90年後で、世の中は蘇我氏が権力を握っていました。世の中は蘇我氏でありましたが、浅草寺は全く世相と関係のない、日本昔話のような漁師さんの物語で創建されます。(詳細は浅草神社の回をご覧ください)東京で一番古いと言われていますが、おそらく他にももっと古い寺はあったと思います。あったけど遠い昔に無くなっていたり、寺院という形ではなく、草庵だったりお堂だったり、もっと同時多発的に大小様々な仏教施設が作られていたと思います。東京で一番古いお寺の観音像が、飯能の川から流されて、浅草浦で漁師の網に掛かるまで何年要するのかは謎ですが、仏教正伝の前後から浅草寺の物語は始まっています。

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こちらは平和地蔵尊といい、戦後に戦没者供養のために建立されました。地蔵菩薩様の向かって左にある銅像が、この平和地蔵尊を寄進された龍郷定雄さんという方です。ちょうど地蔵尊の背後に二尊仏があって、祈りが空間を支配している感じがします。

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こちらは弁天山という場所にある弁天堂です。弁天というと弁天池ですが、この弁天山の周りはかつては池だったそうです。この弁天様は「関東三弁天」のひとつだそうです。三大〇〇シリーズは微妙なものが多いのであまり好きではありませんが、ご紹介のため。安置されている弁天様は白髪で、老女弁天と称するそうです。特に何がすごいというほどのものは感じませんが、この小高い弁天山に、ある有名な堂宇が建っています。

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それがこちら、時の鐘です。寛永寺の回でご紹介しましたが、江戸時代、深川に住んでいた松尾芭蕉が詠んだ俳句「花の雲 鐘は上野か浅草か」は、江戸の市民感覚をふと感じさせる情緒があります。

浅草寺は慈覚大師円仁が中興したこともあって、天台宗寺院として存在していました。現在は天台宗から独立して、聖観音宗の本山です。宗派が変わることは大変革のように思えますが、おそらく浅草寺は宗派名が変わる前も、変わった後も、ほぼ何も変わらないように、人々が集まる信仰の対象であり、東京随一の観光地として存在していたのだと思います。神仏習合の時代も、神仏分離の時代も、天台宗の時代も、聖観音宗の時代も、浅草寺はいつも変わらず「浅草の観音さま」だったんだと思います。

 

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