仲見世を通って、本堂にお参りしたら、西境内に行ってみましょう。浅草寺にはたくさんの堂宇や境内社があり、どんな祈願にも対応できる神仏がいらっしゃるそうです。
こちらは阿弥陀如来像です。阿弥陀如来は西方極楽浄土にいる仏様として有名です。この銅像は江戸時代元禄6年(1693年)に建立されたそうです。建立にかかった費用は、江戸市中の町人が寄進をしたものだそうで、当時、念仏講などを中心に阿弥陀信仰が流行していたことが伺えます。
こちらは「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」というものです。お経の中に「宝筐院陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)」というものがあり、そのお経に基づいて作成されたものです。多くは石製で、供養塔などの目的で造られています。この浅草寺の宝篋印塔の特徴は屋根があるということで、江戸中期頃はこの形が流行っていたそうです。こちらは銅製で宝暦11年(1761年)に建造されたそうです。
お地蔵様が3体並んでいます。手前から子育地蔵尊、商徳地蔵尊、出世地蔵尊となっています。家庭を持って子を授かった方は、とりあえず順番にお参りした方が良さそうですね。この3体のお地蔵様の正面には、恵日須大黒天とめぐみ地蔵の祠があります。恵日須天と大黒天の石像が安置されているのですが、この像を彫ったのが弘法大師という伝承があるそうです。
平成26年(2014年)にサウジアラビア人の慶應大学生が浅草寺の仏像を破壊してニュースになりました。そのときに破壊されたのが、上記の子育地蔵、商徳地蔵、出世地蔵と、こちら( ↑ )の聖観音像です。この聖観音坐像は「浅草の大仏」と称され親しまれていました。イスラム教は偶像崇拝を批判していて、バーミヤンの仏像遺跡を破壊したりしています。偶像崇拝は釈迦も禁じていたのですが、それでも数々の仏像が造られたのは、歴史の必然であって、人々の強い信仰の現れだったのだと思います。原理は大切だと思いますが、それ以上に人々が紡いできた歴史に大きな価値があると思います。
銭塚弁天です。弁財天は仏教を守護する神で、仏教の天部の神です。七福神の一員としても有名です。元々は仏教以前のヒンドゥー教の女神で、水の神とされていましたが、日本に伝わって性質が変更されたり様々な神と同一視されたりと、独自の弁財天となっていますが、水の女神という本質的な部分は同じです。
弁財天があるところには池があるのも、水の女神たる所以なのですが、本来のインドの神は池ではなく川なんですけどね。叡智や学問、音楽の神としての性質に、福徳や財宝の神という性質が加えられ、日本では非常に親しまれる存在になりました。
銭塚弁天の正面あたりに、六地蔵石灯篭があります。こちらは、元々は浅草の繁華街(元花川戸町)にあったものが明治23年(1890年)にこちらに移転されました。風化してしまって文字が判読できないのですが、建立は1146年、1170年、1368年という伝承があるそうです。浅草は昭和の初め頃までは東京一の繁華街だったそうなので、モヤイ像やアルタ前のように、ランドマークになっていたのかも知れませんね。
影向堂といい、西境内で最も大きな建物です。影向とは、神仏が姿形となって現れることを意味します。浅草寺では本尊に聖観音菩薩像、左右に干支ごとの守本尊八体(影向衆)を影向堂にご安置しています。外陣には商売繁盛の大黒天がご安置されています。元々は本堂の南東の二天門付近にあったそうですが、平成6年(1994年)に境内整備をし、この地に建立されたそうです。
一言不動尊といいます。何かひとつに決めてお願い事をすると叶うそうです。お不動様ですから、不動明王がご安置されていると思われます。こちらは亨保10年(1725年)の建立だそうです。不動明王は憤怒の形相をしていて、右手に知恵の剣、左に荒縄を持って煩悩を払うという、お馴染みの存在です。
こちらは橋本薬師堂と呼びます。「橋本」というのは、徳川三代家光が慶安二年(1649年)このお堂を再建した際に、そばに橋があったそうで橋本薬師堂となったそうです。浅草寺は震災や戦災で多くの堂宇を失いましたが、この薬師堂は家光が建てて以来、現在まで残っているもののひとつで、浅草神社の本堂と同時代のものだそうです。本尊は薬師如来ですが、秘仏となっているようで、御前立の薬師如来像と日光・月光菩薩像、十二神将像が安置されています。
こちらは境内社、三峰社です。火事が多かった江戸の町ですが、三峯神社の防火のご神徳を浅草に居ながら祈願できるように、埼玉秩父の三峯神社から勧請した三峯社を境内に建立しました。明治維新の神仏分離令以前は、特に不思議なく寺院の中に神社があったりしました。
元和4年(1618年)の建立ということで、浅草寺で最も古い建物だそうです。当時の建物で六角形というのはかなり珍しいそうで、東京都の文化財に指定されています。本尊は日切地蔵尊をご安置しています。地蔵菩薩は六道(天・人・修羅・餓鬼・畜生・地獄)に関係していて、寄り添ってくれる系の菩薩様です。この日切地蔵は、日数を定めてお願いすると、霊験があるとされています。
こちらは淡島堂です。淡島堂も神社ですね。元禄年間(1688~1704年)に和歌山県の加太にある淡嶋神社から勧請して建立されたそうです。このお堂自体は、東京大空襲で本堂が焼失した後に仮本堂として使われていた建物で、その後は二天門の近くで影向堂として使われていました。平成6年の境内整理で、淡島堂として現在の場所に移転したそうです。和歌山に住んでいたことがあるのですが、加太の淡嶋神社と言えば、おびただしいほどの人形がお祀りされている神社として有名です。そもそも淡嶋神社の御祭神は、少彦名命(すくなひこなのみこと)と大己貴命(おおなむちのみこと)というお馴染みのセットなのですが、少彦名命は医薬の神様で、特に淡嶋神社の御祭神は女性の病気に御神徳があるとして有名です。そんな訳で、浅草の淡島社も女性守護のお堂として信仰を集めています。
淡島堂の更に奥に銭塚地蔵堂があるのですが、写真を失念してしまいました。また、いつか訪問したときに撮影して、サラッと載せておきます。銭塚地蔵堂は、兵庫県西宮の山口というところにある銭塚地蔵堂から勧請してこちらに安置しているそうです。非常に賢明で婦人の手本のような武家の妻のお話があります。貧しい暮らしをしていた武家の垣根の下から、たくさんの銭が出てきたのですが、その婦人は「武士たるものが勤めずして禄を得ることは家紋の災い、いわれのない財を得ることはできない」と土中に埋め戻させた。そのような婦人に育てられた二人の子は立身出世し、その銭を埋めた場所に地蔵堂を建立し母を供養した。という日本むかし話にようなお話です。
さてさて、浅草寺を歩いていて思ったのは、「やっぱり浅草寺だなぁ」というキャッチコピーみたいなことです。東京には由緒正しき寺院や神社がたくさんありますが、人々が親しみ集うこの浅草寺こそ、信仰の場であり文化が息づく場であり、この地こそ東京であり日本である、という観念的な言葉がストンと腑に落ちてしまいます。やっぱり浅草寺なんだなぁ。
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