真言宗大覚寺派 大山寺 目次
名称・寺格
雨降山(あぶりさん)大山寺と称します。通称は大山不動、大山不動尊などと呼ばれています。真言宗大覚寺派の準大本山という位置づけです。関東三大不動尊のひとつとされています。
創建
天平勝宝7年(755年)に、良弁によって創建されたとされています。
本尊
鉄造不動明王
ご利益
厄除けが有名ですが、各種祈願の護摩祈祷もしています。的に向かって小皿を投げる「土器(かわらけ)投げ」もあります。雨降山ですから、古くから雨乞いの聖地でもありました。
みどころ
山の斜面が境内地となっていて、とにかくこの立地に建立されたことが素晴らしいです。紅葉の季節は色づいた葉が鮮やかでとても美しいです。
アクセス
神奈川県伊勢原市大山724
小田急小田原線「伊勢原」よりバス「大山ケーブル行き」で終点まで向かい、大山ケーブル「大山寺」下車徒歩200m
探訪レポート
「大山詣」は江戸庶民から絶大な人気を集め、日本遺産にも認定されています。登山口までは電車とバスで来る方法と、自家用車で来る方法があります。今回私は自家用車できましたが、ハイシーズンの休日だと駐車場の心配が必要です。
駐車場からはこま参道という門前町を抜けてケーブルカーの駅に向かいます。ここからケーブルカーに乗り、大山寺駅までは3分ほどの乗車で到着します。今回私はケーブルカーを利用しないで歩いて登ったのですが、特別企画「山+神」としてレポートしますので、大山登山全体はそちらをご覧ください。
さて、ケーブルカー「大山寺」駅から200mで大山寺に到着します。長く急な階段で、左右に三十六童子が安置されています。三十六童子は、不動明王の眷属です。簡単に言うと、不動明王の従者という感覚です。仏像は三体一組で安置されることが多く、中央の像の名を取って「釈迦三尊」「薬師三尊」と呼びますが、不動明王を中心とした「不動三尊」も存在します。不動明王の脇侍は「矜羯羅(こんがら)童子」と「制多迦(せいたか)童子」の二体であることが多いです。この二体は「八大童子」と呼ばれる不動明王の眷属のうちの二体で、不動明王の眷属は八大童子の他にも、三十六童子、四十八使者などがあります。真言宗の寺院ではよく安置されていますが、ここ大山寺では三十六童子が入り口の階段でお出迎えしてくれます。
階段の上から見下ろすとこんな感じ。傾斜の度合いがおわかりいただけるかと思います。この三十六童子の外側に植えられているのが紅葉の木で、見頃を迎える秋頃には「紅葉祭り」が行われ、闇夜にライトアップされた真っ赤な紅葉の絶景が拝めます。
境内に上がると、左手に手水舎があります。大山寺は、真言宗大覚寺派の準大本山で、大本山の大覚寺に次ぐ寺格となっています。しかし、そのようなことはつい最近になって便宜上カテゴライズされたことに他ならず、大山寺の歴史は遥か悠久のロマンある昔に遡ります。おそらく始まりは縄文時代の精霊信仰で、大山自体がカンナビ(神体山)として人々の信仰の対象であり、山頂にある巨石も磐座(イワクラ:信仰の対象となる岩)として信仰の対象となっていたと思われます。そのような神聖な山には、後に神社と寺院が建てられ、修験者の修行の地となり神仏習合し、明治維新で分離するというのがありがちな流れがあります。比叡山や高野山などもそうですが、この大山もそのありがちな流れです。
カンナビ、イワクラとして信仰されていたこの山に、阿夫利神社(あふりのかみのやしろ)が創建されたのが3世紀頃、阿夫利神社の神宮寺として大山寺が創建されたのが755年です。
大山寺のご本尊は不動明王です。関東三大不動尊のひとつとされていますが、三大○○の法則に従って、関東三大不動尊も、成田不動尊、高幡不動尊のふたつは固定で、三つ目の候補が複数あります。755年に華厳宗の僧、良弁が開山しました。良弁は聖武天皇の庇護を受け、東大寺に大仏を建立し、東大寺初代別当を務めていました。
さて、大山寺は元々は、現在の阿夫利神社下社の場所にありました。現在では、その場所にある阿夫利神社下社が、大山の中心地のように見えますが、高尾山や御岳山と一緒で、平安時代から明治時代まで1000年以上、神仏習合の時代がありました。大山も神仏習合の石尊権現(山頂のイワクラ)を祀っていて、阿夫利神社は大山寺にほぼ吸収され、石尊権現として一体化していました。
本堂左側にある、なんだかごちゃごちゃしているエリアです。ろうそくを奉納するガラス棚や数種の絵馬が掛けられている棚や薬師如来らしき石像、殺虫スプレーとバケツとジョウロなどが置かれています。
明治時代の神仏分離令で、一旦は廃寺にされてしまいますが、暴徒と化した人々が寺を襲う様子が、寺伝に遺されているそうです。その後、現在の地に再建されますが、この急斜面に堂于の建材を運び入れるのは並みの苦労ではなかったと思われます。
こちらは大師堂です。この大山寺は良弁が開基しましたが、三代目の山主が弘法大師空海となっています。空海はたくさんのお寺を開いたとされていますが、元からある寺の住職になるというのは珍しいことです。山内にも、空海が杖を付いて水が涌き出た地や、空海が道具を使わす自分の爪で一夜彫ったという石像があります。他にも行基が不動明王像を作らせたりと、名だたる僧侶がこの大山寺に関わっています。開山した良弁は華厳宗、弘法大師は真言宗、行基は法相宗、焼失した堂于を建て直した安然は天台僧です。不動尊信仰が宗派を超えて広まったことは、この大山寺の歴史にも見受けられます。
こちらは、厄除けのご利益があるという「土器(かわらけ)投げ」です。かわらけ投げ道場と書かれていたので、修行のひとつなのでしょうか? 2枚300円で小皿の土器(かわらけ)を買い、この鳥居のような場所から下にある的に向かって小皿を投げます。「投げて厄を落とし」「砕いて厄を払い」「的を通して願いが叶う」とされています。つまり、投げるだけで厄除けになるとのこと。同様のアトラクションを、上野の寛永寺にある清水観音堂で見たことがあります。
様々な宗派の修験僧たちが修行しまくる大山を良く思わなかったのが徳川家康で、家康の命令で、真言宗以外の修験者や僧を山から下ろして、真言宗の清僧(妻帯しない僧)のみを入山させた。新義真言宗に統一することで、徳川家の庇護を受けることになります。この時山から降ろされた修験者たちが、御師として大山詣の案内人や宿坊の運営を担ったそうです。
上から見ると的はかなり離れていて難しそうです。投げた小皿はそのまま土に帰るのだそうです。このアトラクションは最近できたようですが、江戸時代中期頃から、豊かになった庶民が「〇〇詣」と称して、全国の聖地へ参拝に訪れるというのが大流行します。一人ではそのような大旅行ができない民衆も、寄り集まって「講」を作り、資金を積み立てて順番に代表者が参拝する、ということをしていました。有名なのは伊勢や和歌山の熊野などですが、江戸から向かうのは大変です。そんな訳で立地的にもちょうど良い「大山詣」が大流行します。江戸や武蔵野から大山へ参拝するための「大山道」が何本も整備され、現在でもその名残を見ることができます。
本堂の左側には、様々な堂宇が建っています。こちらは稲荷神社ですね。正一位ののぼり旗と朱色の鳥居が目印です。左側には木遣塚が建っています。木遣といえば鳶職人の作業歌ですが、この木遣塚を奉納しているのは赤字で書かれている「第四區」という団体です。これは何の団体かと言いますと、一般社団法人「江戸消防記念会」という江戸の町火消たちの保存会的な団体です。町火消は鳶職人たちが多くを担っていて、。平仮名の「そ組」「つ組」などが集まって、数字の「一番組」「二番組」などの組織が作られ、それらが纏まって「第一區」「第二區」と大きな組織になっていきます。第四區は文京区豊島区全域と千代田区新宿区の一部がエリアとなっている団体です。
こちらは不動明王の眷属である八大童子です。足場が組まれているのは、屋根をこれから作るのか、それともこれが屋根なのか、よくわかりません。
右上に見えるのが、倶利伽羅龍王です。不動明王が持つ剣に巻き付いている龍の姿が如実に表現されています。倶利伽羅龍の滝ということで、鯉がいて、金龍権現と看板が立っています。鯉は歳を重ねると天に登り龍になるそうです。
立派な鐘楼です。この大山寺には徳川三代家光が寄進した鐘楼があったそうですが、廃仏毀釈で破壊されクズとして払い下げられてしまったそうです。破壊された一部が、現在は阿夫利神社社務局に保存されているそうです。家光といえば乳母の春日局も大山に何度も参拝する崇拝者だったようです。
ちなみに、明治維新の廃仏毀釈で暴徒を引き連れて大山寺を破壊した国学者の権田直助氏は、その地に再建された阿夫利神社の宮司になった人です。神仏分離令は明治政府(=明治天皇)の決めたことですが、なかなかの因縁がある山です。大流行した大山詣と有力者の庇護によって運営されてきましたが、現在は墓地もなく檀家もいない寺院として、参拝者の寄進や賽銭によって運営されているそうです。現在でも大山は都心からのアクセスが良く、日帰り登山として人気があります。良弁、空海、行基と、名だたる僧侶が作り上げてきた寺院ですし、秘境っぽい立地がすごく気に入りました。
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