品川神社 目次
名称・旧社格
創建
文治3年(1187)年、源頼朝によって天比理乃咩命を祀り、品川大明神としたことが始まりです。
御祭神
天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)
宇賀之売命(うがのめのみこと)
素戔嗚命(すさのおのみこと)
御神徳
元々は海上交通安全祈願のために創建されましたが、徳川家康が関ケ原へ向かう際に祈願したこともあり、家康の強運にあやかりたいと願う方も多いと思います。しかし、最も有名なのは「一粒萬倍の泉」による金運上昇というのものです。
みどころ
小高い丘の上にあり、「品川富士」という、実際に登れる立派な富士塚があります。社殿の奥の方にある「一粒萬倍の泉」は、階段を下っていく秘境感があります。
アクセス
東京都品川区北品川3-7-15
探訪レポート
門前には大きな商店街があります。このあたりはそもそも東海道が近くて、品川宿として賑わっていた場所です。品川神社や隣にあった東海寺(現在も近隣にあります)の門前町というよりは、宿場町としての名残で商店街が栄えているようです。
京急の新馬場駅からすぐのところにあります。入口には階段があって、境内は小高い場所にあります。下から見上げると、木々が鬱蒼としていて石垣や鳥居が灰色なこともあって、何となく暗いイメージがします。第一京浜に面していますので、大型車も多く行き交います。なんだか、ゴチャっとした忙しない印象の中、お参りします。
品川神社の鳥居には龍が巻き付いています。このような鳥居を双龍鳥居と呼ぶそうで、都内に3つしかない珍しいもののようです。
鳥居の横には大黒様が前のめりに小槌を掲げていらっしゃいます。昭和7年(1932年)に、旧品川町が東京市に編入されることとなった際、品川地域を盛り上げるために「東海七福神」を創設したそうで、この品川神社は大黒天の担当となっています。
階段を上がっていると、途中で左側に品川富士の入口があります。富士山の本物の溶岩を積んで造った立派な富士塚です。明治2年に造られたそうですが、品川神社は当時は神仏習合の牛頭天王社だったので、明治政府の神仏分離令ですぐに壊されてしまい、明治5年に再築したそうです。それにしてもお大きいですね。
入口の鳥居をくぐって一合目にあるのが、猿田彦神社です。横に足神様と書かれていて、わらじが奉納されています。これは、日本神話の天孫降臨の際に、邇邇芸命の道案内をしたのが猿田彦神ということから、旅の安全を守る神とされているからだと思います。富士山と同様、山開きが7月に行われるそうですが、通年登ることができます。
二合目には役行者が鬼を従えて鎮座されています。役行者は役小角と言って、伝説に満ち満ちた修験道の開祖です。山岳信仰が盛んだった場所でよくお祀りされています。奈良や和歌山の山深い所が有名ですが、富士山や高尾山でも祀られています。
さて、ここからはぐっと急勾配になります。人丸大明神と書かれていますが、これは万葉歌人の柿本人麻呂のことだそうです。歌聖と呼ばれた人ですから、各地で神として祀られています。かつて、兵庫県明石市に住んでいたことがあるのですが、明石市には人丸という地名があって、人丸には柿本神社があり柿本人麻呂が祀られています。その左側の碑は、幕末の漢学者、松本寒録という人を称える石碑だそうです。なんだかよくわかりませんが、なぜこれらがこの富士塚の七合目辺りに安置されたのか、脈絡ある話なのでしょうか。
頂上に到着しました。頂上はコンクリートの広く平らな場所になっていて、頂上感があまりありません。それでも少し高いところからの眺めは気持ちが良いものです。
あまり多くを知りませんが、富士塚の頂上に祠サイズの浅間神社があるパターンが多いと思うのですが、こちらでは、富士塚の隣に立派な浅間神社があります。品川神社の氏子地域にあった講中がこの神社を支えてきたのだと思いますが、富士塚があったり、立派な浅間神社があったりするところからも、かなり本格的な富士講だったのだと思います。文献にも、講中での富士登山の様子が見られますが、そのために品川神社が富士登山に偏っているのかなと思います。
富士塚と浅間神社との間に、唐突にカエルが登場します。交通旅行安全祈願だそうです。親子のカエルが可愛いですが、なぜここに? という感じです。
鳥居がひとつあって、さらに神域に入っていきます。この日は春の平日で、訪問者は少なめだったと思われます。
江戸火消しの保存会の方々の奉納した石碑が建っています。火事を消すのは人の力ですが、火事が起こるのは神仏の領域なのでしょう。多くの寺社でこれらの奉納を見ることができます。
包丁塚もあります。包丁塚や筆塚はそれほど珍しくなく、様々な寺社にあるのですが、品川は宿場町だからでしょうね。ちなみに、この包丁塚という字は三木武夫が総理在任時に書いたものだそうです。
東海七福神にまつわる石碑ですね。千客万来・商売繁盛と書かれているのが、何となく品川宿っぽい感じです。
そうそう、このブログの特別企画「多摩川左岸 百所巡礼」で訪れた奥多摩エリアの神社によくある風景が、この品川神社にもありました。神社+児童公園のセットです。平日でもあり、ここで遊んでいる子どもはいませんでしたが、洗練されたおしゃれな公園ではなく、私の世代が懐かしいと思えるような公園があって驚きました。
こちらは御嶽神社です。浅間神社と共に、山に関する神社です。これは実際に関係があって、富士講のみなさんが実際に富士登山に出かける際に、この御嶽神社の行者に山に登る日取りを伺うというしきたりがあったそうです。行者の決めた日以外に登ると、山が荒れると言われていたそうです。
神楽殿です。使用していない時は戸が閉められている神楽殿が多いのですが、品川神社の神楽殿は毎日開けられているのでしょうか。中の様子から見て、開けっ放しではないような気がします。1月1日に太々神楽が奉納されるそうです。
こちらは祖霊舎で、隣りにある砲弾型のものは忠魂碑だそうです。乃木希典の書だそうですが、忠魂ということで、この国ために亡くなった戦没者の慰霊のための石碑です。そもそも品川区内の小学校に建てられたものが、紆余曲折して品川神社に移築されたそうです。
こちらが社務所です。wikiに面白いことが書いてあって、実は品川神社の裏側に板垣退助の墓があるそうなのです。江戸時代、品川神社の隣にあった高源院の境内に墓所があったそうですが、高源院が移転し、お墓だけが残されたそうです。その後の周辺土地の変遷によって、品川神社を通らなければ墓所に入れないようになったのですが、神社の境内にお墓があるなんてことはないので、品川神社と板垣退助の墓所は無関係なのです。面白いのは、品川神社で板垣退助の墓所のことを伺うと、機嫌を損ねるので注意が必要と書かれていることです。
こちらが手水舎です。なぜか角っこに座禅している河童がいます。
拝殿は鮮やかな朱色です。祀られている神は三柱で、源頼朝が祀った天比理乃咩命は、祈願成就、航海安全の神様だそうです。あまり見かけない神様で、どんな神様なのかよくわかりません。鎌倉時代末期の元応元年(1319年)に、北条高時の臣、二階堂道蘊が宇賀之売命を勧請しました。宇賀之売命はウカノミタマのことで、全国で祀られている稲荷神で、農耕や食物、商業産業を司る神です。そして、文明10年(1478)年に、太田道灌が素戔嗚命を祀って、神仏習合の牛頭天王社となった訳です。
拝殿の隣に千本鳥居があり、阿那稲荷神社があります。この神社は境内社としては珍しく、上社と下社があります。この千本鳥居の先にあるのが上社で、天の恵みの霊をお祀りしていて、上社の手前を下りて上社の裏側下部に当たる場所に下社があります。
こちらが下社で扁額に「一粒萬倍」と書かれています。下社では地の恵みとご神水をお祀りしているそうです。この世の万物は天・地・水から恵みを得ているということです。
中には阿那稲荷神社の他に、天王白龍辯財天社、大国主恵比須神社、八百萬神社が並んでいます。他に一粒萬倍の泉という湧き水があって、そこでお金や印鑑にこの水を注げるようになっています。銭洗弁天システムです。品川神社がお金のご神徳で有名なのは、このご神水のことです。説明書きによると、ここでご神水を注いで神徳を得た銭を北品川の商店で使うと、更なる吉兆なのだそうです。
訪れたのが平日の穏やかなお昼だったこともあって、混雑していない穏やかな時間を過ごすことができました。なんだか、ゴチャっとした忙しない印象と書きましたが、階段を上がって境内にやってくると、広々としていて、高台の気持ち良さを感じられる場所でした。
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