寺社探訪

寺社探訪とコラム

山+神「登計トレイル+愛宕神社・天聖神社」

奥多摩駅周辺から「氷川渓谷遊歩道」という、多摩川と周辺の山々が美しい遊歩道があるのですが、昨年2度ほど訪れたときには、いずれも工事で立入禁止になっていました。空はどんより曇っていますが、天気予報を何度調べても雨は振らないようで、むしろ晴れ予報になっています。

氷川渓谷遊歩道の通行禁止区域を調べてみると、奥氷川神社の横を降りたところからだと行けるはずなので、神社に寄って道中の安全祈願をしてから川の方へ降りてみると、通行止め状態でした。氷川小橋や登計橋を渡っているブログや動画を見かけるので、通れる時は通れるのでしょうが、運が悪いのか3戦全敗です。

仕方がないので昭和橋(この橋も前回も今回も工事中でした)を渡って愛宕神社登山口に直行です。こちら( ↑ )は「想」という表題の石像ですが、これは和式トイレを背後から覗かれた様子を絶妙に表現していると思いました。ここからも登計橋方面を狙ってみましたが、バリ封されていて進めませんでした。

愛宕神社を目指して登り始めてしばらくすると、とある特徴に気づきます。虫が多いです。特に蜘蛛。蚊と蝿も多い。十数年前に北岳に登った時は、蝿みたいな虫が大量にいてすごくフラストレーションになりましたが、蜘蛛の巣が腕や顔に定期的に張り付くので、なかなか大変です。蜘蛛にしてみても、自分自身の成分で糸を張って作っている訳ですから、身を削って作った巣を、人間に通る度に壊されてはたまったものではありません。この、誰も得しない蜘蛛の巣破壊が頻繁に続きます。

私は山の中の静寂は好きなのですが、なぜか山に入ると頭や顔が痒くなるので、あまり鬱蒼とした森の中は得意ではありません。顔や腕の皮膚にいろんなものが張り付くのも嫌で、虫が多い場所も苦手です。あちこち体中を神経質に引っ掻きながら歩いていると、必要以上に体力を消耗してバテてしまいます。

そして平日なので人類はいません。誰もいない、時間も流れない森の中で、蜘蛛の巣と格闘して神経質にイライラ歩いていると、真横に突如こんなもの( ↑ )が現れ、飛び上がるほどびっくりしました。周囲を見る余裕を無くした自分を戒め、ひと呼吸おいて、生きとし生けるものと同化し、イライラを昇華させます。

すると、深い藪の中で寝そべる人にも目が届くようになります。心の在り方で生き方が変わるということの最も簡単な例ですが、また蜘蛛の巣にかかるとイライラし始めてしまいます。

そしてついに、ここへ到着しました。必要があったから造られたのか、その必要とは何だったのか、造った人に聞いてみたいほど、自然の中にあって異様さが際立つ階段です。踊り場がないと聞いていましたが、小さな踊り場はありました。180段少々あるそうです。身延山久遠寺の山門から続く階段は287段あるそうで、それに比べると100段ほど短いですが、角度はなかなかのモノです。

階段を登りきったところにあるこのスペース。以前からおかしいと思っていましたが、訪れてみると、私には違和感満載で少々気味悪い不思議な場所に思えました。この鐘は奥多摩町が町制施行40周年と、戦後50周年の記念事業として造ったものです。説明文によると、地元の教育長を永年勤めた地元の名士が奥多摩町に多額の寄付をしたので、その方が好きだった愛宕山に、青少年育成や観光宣伝を名目として平和の鐘を建てた。ということです。平成7年と書かれていましたので27年前ですね。その左側には、「南無妙法蓮華経」と書かれた石碑が建っています。日本山妙法寺・日達と書かれているので、日蓮系の新興宗教日本山妙法寺の宗祖、藤井日達の書の石碑だとわかります。が、なぜここに? 

説明文によりますと昭和30年に小峰建設株式会社が建立した石碑だったが、傾いて倒れそうだったから、東よりこの地へ移転させたとのこと。移転させたのは、奥多摩で土木工事を行っている株式会社榎木工業という会社。日本山妙法寺は建立にも移転にも絡んでないのでしょうか。ちなみに日本山妙法寺は、非暴力平和主義を掲げて「世界平和塔」という仏舎利塔を各地に建てている宗派です。奥多摩の最奥の小菅村の山の頂上にも仏舎利塔を建立しましたね。

つまりここは、愛宕神社の境内ではなく、奥多摩町の管轄地なのでしょう。しかし、愛宕神社の社殿はもう目と鼻の先で、ここは参道ではないだろうか。排他的な宗派が多い日蓮系の新興宗教がこのような場所に石碑を建立するとは思えません。東ってどのあたりだろう? 謎が深まります。 

そして、私がずっと不思議に思っていたのがこの五重塔です。「奥多摩 愛宕神社」と検索すると、この五重塔の写真が出てきます。五重塔というのは、それこそ日本山妙法寺が建てまくっている仏舎利塔の形式の一つです。地、水、火、風、空の五つの世界で仏教的宇宙を表現する建物です。「その仏教的五重塔がなぜ愛宕神社に?」 という違和感を解決しないまま現地に来てしまいました。この建物については説明書きがないのですが、結果的に言うと、こちらも愛宕神社とは全く関係ない建物です。正確かどうかわかりませんが、かき集めた情報によると、昭和31年に建立されたものだそうです。氷川町が奥多摩町になったのは昭和30年で、この建物は旧氷川町が町内の戦没者178名を合祀する仏塔として建立したようです。「戦没者奉祠靖国の塔」という札が掲げてあります。

五重塔の横にあるこの「忠魂碑」と書かれた石碑ですが、これがまた五重塔とは関係がないという不思議さ。この石碑は山県有朋の書だそうです。もうほとんど読めないような石碑の文章を解読した人がいて、大正2年に帝国在郷軍人会氷川村会によって建立されました。明治27・8年の戦没者5名(日清戦争かな?)と、昭和8年満州事変の戦没者1名の慰霊のために建立されたそうです。おそらくはここではないどこかから移転してきたのだと思います。

そして、ついに社殿が見えてきました。最後の階段を登ると愛宕神社の社殿です。この愛宕神社の由緒に関してあまり多くの情報が無くて、いつからここが信仰の地として存在しているのか? ということはわかりません。

手水舎です。これを手水舎として使う人はいないと思うのですが、奥多摩むかし道の白鬚神社の手水舎よりはまだ形がしっかりしています。

狛犬は獅子ですので、奥多摩秩父地域に多い日本武尊ヤマトタケル)の神話には関係なさそうです。現在の社殿が建てられたのは平成元年です。氏子だけでなく、近隣の篤信者や遠方の元氏子などから何度かの寄進を募って新築されたものです。では、前社殿はいつ建てられたかというと明治41年です。今から114年前ですね。その時、愛宕山の西側の登計部落の氏神である阿羅波々岐(アラハバキ)神社と、愛宕山の東側の長畑部落の氏神である白髭神社愛宕神社の三社を合祀して、愛宕神社としたそうです。御祭神は火産霊神(ほむすびのかみ)、塩土翁神(しおつちおじのかみ)、足名椎神(あしなづちのかみ)、手名椎神(てなづちのかみ)です。

なんと謎の縄文神「アラハバキ」の名前が出ました。心躍ります。上記の4柱のうち、阿羅波々岐神社の御祭神は足名椎神と手名椎神になります。この2柱は夫婦神で、櫛名田姫の両親で出雲国の簸川(ヒカワ)という川の上流の土地に住んでいたとされています。櫛名田姫は八岐大蛇伝説で須佐之男の妻となった神です。そして、この地は奥多摩町「氷川」で、出雲族が東征し支配した地域とされていて、奥氷川神社では須佐之男が祀られています。いろいろと繋がりますね。当ブログのコラム「縄文時代の神」で書きましたが、縄文時代から信仰されてきた神は、日本を支配した大和朝廷の神々(古事記日本書紀に登場する神々)に上書きされたことと、明治維新でも同様に記紀に登場する神々を祀るように指定したので、日本神話以前の古い神は姿を隠してしまいました。この愛宕神社でも、御由緒の説明書きにアラハバキの文字が書かれているだけで、境内地に何か縄文時代の信仰の欠片が残っている訳ではないのですが、たしかにアラハバキ神を信仰した歴史がここに存在していたのだと思うと、ロマンを感じますね。

愛宕神社の社殿の前に大きな岩があります。縄文時代には「イワクラ」という山中にある不思議な形の岩に対する信仰があります。この岩が縄文時代からここで祀られていたとは思えませんが、男根的な突起にしめ縄が張られていますね。実はアイヌの古語でアラハバキは女陰を指すという説もあります。諸説がありますので、確かなことはわかりませんが、様々に想像を膨らませることが楽しいですね。

愛宕神社の建つここが愛宕山の山頂507mだそうです。眺望はほぼないですが、木々の隙間から覗いた景色がこちら( ↑ )です。

おそらくこの先に屋根らしきものが見えているので、子安神社があるのだと思います。通行止めになっていますので、そちらを訪れることはできず、巻き道で坂を下って進みます。

石碑に描かれているのは天狗です。行者姿をしていますが、果たしてこの愛宕神社神仏習合愛宕権現であったかは不明です。この神社が三社合祀で建てられた明治41年は、既に神仏分離令が出された後てす。それ以前、例えば江戸期にこの地が愛宕権現で、山伏が拠点として出入りしていたとするなら、その跡形が少しは残っているのではないかと思います。しかし、そんな雰囲気もありませんので、この天狗の石碑は、なんとなく山の中だから、などという理由でここにあるのかなと思います。訪れた印象で、確かなことはわかりませんが…。

そこを更に下ると狛犬と鳥居が現れます。こちらが正式な愛宕神社の入口のようです。アスファルトが敷かれた広いスペースになっていて、ここまでは遠回りをすれば車でも来られるようです。私が歩いてきた奥多摩駅から直線的に来るルートは、裏参道という位置づけになりますね。この鳥居の横に由緒書の石碑があります。お昼になったので、このエリアに腰を掛けて昼食タイムにしました。ブンブンと虫がすごい……。

さて、更にまっすぐ鋸山方面に向かいます。目的地は天聖神社の奥宮で、鋸山までは行きません。こういう階段は歩きやすいのですが、登るたびに踏ん張るので疲れますね。

結構な山道です。蜘蛛の巣に絡まれながら、体力が奪われます。紫陽花が自生しています。同じ種類の地味な紫陽花が広がっている様子を見ると、色とりどりの大きな花が咲き群れるような紫陽花で有名な寺社は、作られた庭なのだということがよくわかりますね。平日なのですれ違う人は全行程通じても数人でした。しんどかったり不自由だったりすると、圧倒的な自然と力無き自分というのがよく理解できます。

ここにも石を積み上げる信仰が見られました。積んであったのはここだけで、大山のように隙があったら石を積むというのではありません。石を積む信仰は賽の河原などにありますが、山の中で石を積むのは、調べてみると作られた信仰のようです。それとも山伏に関係あるのでしょうかね。

森を抜けて尾根を歩き始めてしばらくすると、鉄の階段がありました。もうすぐ到着です。呼吸が苦しくて本当に疲れてしまい、私にはもう山登りは厳しいなと思いました。後ろから来た登山者は私より年配に見えましたが、鋸山を経由して大岳山、御岳山へ行くと言って私を抜いていきました。ハァハァと息切れしながら情けないような悲しい気持ちで歩き始めます。

鉄の階段からすぐに天聖神社の奥宮に到着しました。天聖神社については何の知識もなく、調べてみましたが、どんな神様をお祀りしているのかさえわかりません。里宮を先に訪れたら何かしら情報を得られたかもですが、ルートの都合で先に奥宮に来ています。コンクリートの囲いの中にあるはずのお宮がありません。おそらくはそのお宮が奥宮で、隣の天狗二体が狛犬的な眷属という位置づけだと思われます。

天狗しかいないので、天狗をよく観察します。このままでは、ここが本当に天聖神社の奥宮なのかさえわかりません。こちらは右側の天狗で、右上の方に大天狗と書かれています。いろいろと文字が刻まれているのはわかるのですが、判読できるものが少ないです。

こちらが左側の天狗です。迫力的に比べるとこちらが小天狗なのかなと想像できます。お宮というか祠は、おそらく風化してボロボロになってしまい撤去されたのだと思います。何年前からここに鎮座していたのかわかりませんが、地元の方や登山者など多くの方が祈りを繋いできた場所だと思います。信仰が受け継がれ、また新たにここにお宮が置かれる日が来ると良いですね。

大天狗の足元に、天聖の文字が刻まれていました。天聖神社里宮も、狛犬的な眷属は天狗だそうですから、ここが天聖神社の奥宮なのは間違いなさそうですね。里宮は登計地域にあるので、登計地域の古き氏神アラハバキが関連していないかと思ったのですが、アラハバキと天狗はあまり関連がないので、無関係なのか天狗に上書きされたかです。

ここは山頂ではなく景色は開けておらず、木々の隙間から垣間見える程度です。先へ進んで鋸山に向かおうかとも考えましたが、後半は登計トレイルを歩くので、ここで折り返して来た道を戻ります。

愛宕神社前まで戻ってきました。左側が今降りてきた鋸山方面で、右側が登計集落へ向かう道です。

あまり人も車も通らないのか、アスファルトに苔が生えて、滑って転びそうになります。数分で登計トレイルの入口に到着しました。正確にはここは出口ですけど。

森林セラピーという言葉を掲げていて、奥多摩町が取り組んでいる試みです。このような( ↑ )ステーションが入口と出口と中間と、全部で3つ建っています。鍵がかかっていて中に入れませんでしたが、おそらくここを歩く人に開放するための施設で、今は何らかの事情で使用不可になっているのではないかなと思います。

この道、ウッドチップが敷き詰められていて、とても歩きやすいです。美浦栗東でトレーニングする競走馬に思いを馳せながら歩いていきます。途中で写真( ↑ )のような椅子やテーブルがたくさん出てきますが、なかなか座るには勇気が必要です、

この鉄の網タイプの椅子なら座りやすいです。オットマン付きで森林セラピーに相応しいですが、実際に寝転がると虫がすごいと思います。

森に付き出したバルコニーというかテラスがありました。見える景色はそんなに変わりませんが、気持ち的にスッキリ爽快です。

更に発展したテラスがありました。ウッドチップの道はまだまだ続いていて、この道を維持するのは大変な苦労だなと思いました。

こちらもテラス席です。残念なのは、私は出口から逆走しているはずなのですが、誰ともすれ違わないことです。みんな逆走しているか、本当に人が通っていないかですが、前者であることを祈ります。距離的には駅から近いので、氷川渓谷遊歩道から途切れないで登計トレイルに誘導できれば良いのかなとも思いました。

この登計トレイルの素晴らしいのは、車いすでも登れるケーブルのレールが設置されていることです。予約制で有料だそうですが、自力ではなかなか辿り着けない森の中に入れるというのは、魅力的だと思います。このあたりで私も鉄製の網の椅子に座ってみました、しばらく座っていましたが、虫も集まらす、森の音と匂いに包まれてリラックスできました。

この出生記念の看板がたくさんありましたが、奥多摩町てその年に生まれた子供の数が書かれていました。ただ木を植えるのではなく、記念植樹にしたら人々の関心や思い入れが違ってきますね。

さて、最後(本来は最初)のステーションに到着。遊具はありませんが、公園のようになっています。

ウッドデッキの道を歩いて終了です。これはたぶん、私が歩いた逆走ルートの方が歩きやすいし、ルートも組みやすいと思いました。と言っても、結局最後までは人を見かけることはありませんでしたけど。

さて、登計集落をしばらく歩くと、天聖神社が見えてきました。なかなか立派です、しかも車が止まっていて、神社の扉が空いています。中に人の気配もします。通常は扉も窓も締め切られているそうですので、運が良かったです。

かなり古くなった鳥居ですが、きちんとしめ縄も紙垂も飾られています。

手水舎です。蛇口があって自分でひねって水を出すというシステムです。

なぜか足元にバケツがありますが、やはり狛犬的なポジションに天狗です。奥宮と同じだとすると右側が大天狗ですが、一見すると全く同じに見えます。

左側の天狗です。本殿に向かうと、入口に書面が掲げてありました。読んでみると、この天聖神社の正式な法人名は「神道大教聖神社」とのこと。なるほど。これで少し情報が広がります。神道大教とは教派神道の一つですが、元を辿れば明治政府が「天皇を中心とした神の国」日本の神道を取りまとめる公的機関として作った組織です。港区西麻布に大教院という本社的な神社があります。天聖神社は、神道大教に所属する神社だということがわかりましたが、いつから天聖神社が存在したのかなど、多くの情報はわかりません。

せっかくなのでお参りさせていただきます。ネット上で唯一見つけた情報では、天聖神社は商売繁盛のご神徳があるとのことです。神道大教の御祭神は造化の三神(日本神話で最初に存在した神)を元にイザナギイザナミ(国産みの神)、天照大御神天津神国津神を御祭神としています。いわゆる、八百万の神々全てということです。

さて、社殿の入口にあった書面に書かれてあったのは、天聖神社の正式な法人名だけでなく、取得している宗教法人を解散するという内容でした。神社の維持が困難ということでしょうか? 法人を解散したら、天聖神社はどうなるのでしょうか? 奥宮の祠は撤去されたままになるのでしょうか? 新たな疑問が浮上します。

解散という言葉に衝撃を受けながら、もう一度森の中に入って帰り道を進みます。これまでその存在さえ知らずにいた神社ですが、その行く末が気になってしまいます。纏わり付く蜘蛛の巣を払いつつ、奥宮の空っぽの祠を守る天狗に思いを馳せるのでした。

 

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