将門の魔方陣巡礼3 目次
将門塚
所在地:東京都千代田区大手町1-2-1
創建:不明。一説によると、将門が没した天慶3年(940年)に、この地にあった神田明神近くに将門の墳墓が築かれた。徳地2年(1307年)時宗の僧、他阿真教が将門の霊に蓮阿弥陀仏の法号を授け板碑を建立します。
御祭神:平将門
将門との関連:京都で獄門にかけられた将門の首が空を飛びこの地に落ちたという伝説に基づいて、この将門塚が築かれています。
将門塚は通称「将門の首塚」と呼ばれていて、京都で獄門にかけられた将門の首が胴体を求めて関東へ飛び、力尽きてこの地に落ちたという伝説の地となっています。もともとこの地には神田明神があって、神田明神の近くに古墳のように塚が築かれていた記録があります。疫病が流行って将門の怨念を恐れた民衆の願いを受けて、時宗の開祖一遍上人の弟子にあたる他阿真教上人が板碑を建てて供養し、神田明神の別当寺である日輪寺を天台宗から時宗へ改宗させました。その2年後に将門の霊を神田明神に合祀することで、ようやく疫病が収まったという伝承もあります。
都市伝説として語られている将門の怨念は、大正~昭和にかけてのお話が主で、粗末に扱ったり撤去しようとしたら祟りが起こるという内容です。その都度、国や大企業が祟りに対して慰霊祭を行ってきたことが、却って祟りの信憑性を高めて人々の畏怖の念を強めていったように思います。そのうちにここは不可侵領域になっていて、周辺ビル群の発展と共に6度も改装されて現在に至ります。現在の将門塚は、比較的新しい「蓮阿弥陀仏」の法号が掘られた石碑と、古そうな石塔が置かれているのみで、敷地内はスッキリ広々しています。浅草に移転した時宗日輪寺や、神田に移転した神田明神は、今でも将門塚保存会と協力して、将門を怨霊ではなく守護神として、この将門塚を大切に供養しています。
関東の有力者としての将門
前回までは関東の土地と覇権を巡って将門が伯父たちと戦うお話でした。伯父たちやいとこの貞盛を蹴散らして関東の覇権を握った将門ですが、そのことで流れがおかしくなっていきます。武蔵国の権守として興世王が、介として源経基が赴任してきます。守、介というのはどちらも国司の役職の名前で、県知事と副知事みたいなものです。権守なので、県知事代理という感じです。当時は国の下に群があるのですが、国司は中央の貴族から、郡司は地元の豪族から選ばれます。そのため、国司と郡司の間で諍いが起こることは当時のあるあるだったそうですが、興世王と源経基は期日より早く赴任してきて土地調査を始めたので、郡司の武蔵武芝がこれを拒否して揉めてしまいます。天慶2年(939年)の2月、興世王と源経基がこれに対して兵を出して略奪などやりたい放題してしまいます。困った武蔵武芝は、関東の大御所となった将門に相談します。仲裁に乗り出た将門は、酒宴を設けて和解させようとしたが、酒宴に参加していなかった経基の営所が、竹芝の兵に囲まれてしまいます。慌てて京へ逃げた経基は、朝廷に対して将門謀反の策ありと報告します。太政大臣の藤原忠平が調べますが、将門が朝廷の疑いを解き、逆に源経基が虚偽の報告で罪とされます。ヤクザの大親分か大物政治家のように地域のよろず揉め事を解決する力を持つ将門ですが、そのことが破滅への一歩となるのでした。
将門、朝敵となる
興世王は権守(とりあえずの代理県知事みたいなもの)だったので、正式な武蔵守として百済王貞蓮が赴任してきます。興世王と百済王貞蓮が不仲となり、興世王は将門の権力を頼るようになります。権力を持つと、その権力に人が群がります。常陸国に藤原玄明という土豪がいて、領地内で横領をしたり、税を一切納めなかったりと、問題行動を起こしていて、太政官符の指示により常陸介の藤原惟幾に逮捕されそうになりました。そこで藤原玄明は将門に救いを求めます。藤原惟幾は将門に藤原玄明の引き渡しを求めますが、将門は拒否して、天慶2年(939年)の11月、ついに将門は常陸国府に出兵し、惟幾と合戦になり圧勝してしまう。これまでと違い、明らかに朝廷の施設、しかも国府に対する攻撃ですから、将門は言い逃れも出来ない朝廷の敵になってしまいました。朝廷側のトップは、元主君の藤原忠平ですから、一応言い訳のようなことは伝えたそうですが、受け入れられるはずもなく、将門は朝敵として追討される立場になってしまいました。
これらのエピソードから、将門は頼られると放っておけなくなる人情派の人物と評されることもあります。将門が主役のNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」(1976年放送)で加藤剛さんが演じた将門は、まさにそんな一本気で男気あふれるキャラクターでしたね。
ーーーーーーーーーーーーーーー