名称・寺格
経栄山(きょうえいざん)題経寺(だいきょうじ)と称する日蓮宗の寺院です。寺格は特にありません。柴又帝釈天の通称で知られています。
創建
寛永6年(1629年)に、禅那院日忠と題経院日栄という2名の僧によって創建されました。
本尊
大曼荼羅
ご利益
病気平癒が有名です。
みどころ
門前の商店街から「男はつらいよ」の映画そのままの風景が広がっています。彫刻ギャラリーや庭園の拝観ができます。
アクセス
東京都葛飾区柴又7-10-3
京成線「柴又」徒歩3分
探訪レポート
山田洋次監督の国民的作品「男はつらいよ」の舞台となった柴又帝釈天に行ってまいりましました。柴又駅前には寅次郎とさくらの銅像が建っています。1999年に寅次郎の銅像が建ち、2017年にさくらの銅像が建ったそうです。駅の方へ向かおうとする寅次郎が振り返った先にさくらが立って兄を見つめているという映画そのままの構図です。「男はつらいよ」は私よりも年上の世代の方々がど真ん中で、若者世代はわからないと思います。1969年から50作のシリーズが撮られた日本人感覚に染み込む人情作品は、現在でも根強い人気を誇っています。
帝釈天の参道はまさに「男はつらいよ」の映画を切り取ったようなお店が並んでいます。帝釈天の魅力の半分はこの門前の商店街が担っているように思います。団子や飴や煎餅や蕎麦や川魚など。特に寅さんのお団子屋が人気のようで、とても美味しそうでした。ここを通るすべての人が「男はつらいよ」の作品を知っているという訳ではないと思いますが、老若男女それぞれこの雰囲気を楽しんでいるようで、商店街は賑わっていました。「国の重要文化的景観」という幕が張られていて、調べてみますと、農業、漁業、街並み、森林、鉱山、水利など、国民の基盤的生活や成業の特色を示すもので、2021年10月までに全国で71件が選定されているそうです。関東地方は新しい街や生活に次々と更新されているからか、2件しか選ばれていません。ひとつは群馬県の利根川・渡良瀬川合流域の水場景観で、もうひとつが柴又帝釈天参道の文化的景観です。
帝釈天は日蓮宗の寺院なんですね。日蓮宗の寺院が大衆に開かれているイメージってあまりなくて、鎌倉武士の中でも堅ブツの人々が頑固に信仰しているイメージです。杉並の妙法寺はむしろ珍しい寺院かと思っていましたが、帝釈天はまさに大衆の寺院という感じです。
この山門は明治29年に完成した二天門です。右に増長天、左に広目天が安置されています。実は四天王として他の二天(持国天・多聞天)も帝釈堂内に安置されています。四天王は仏教の天部にいて、帝釈天に仕えているという解釈です。仏教の天部は仏教以前の古代インドの神々が仏教と習合したものですが、帝釈天は梵天と対で祀られることが多く、単体で信仰されている柴又帝釈天はかなり珍しいのだそうです。梵天は梵天勧請やブラフマンとして知られる、釈迦に仏教を広めるように説得した神です。
二天門を入ると左に浄行菩薩がご安置されています。浄行菩薩は地水火風のうち、水を司る菩薩様です。この世を浄化し、人の罪や穢を洗い清めるご利益があるとされています。
浄行菩薩の隣に御神水があります。そもそもこの地が祈りの場となったのは、松の根に霊泉が湧き出したので庵を結んだのが始まりです。後ろに双頭の白蛇を祀ってある場所があるのですが、これは金塊に双頭の白蛇が絡みついているので、金運UPなのだと思います。門前の商店街で売っているので、それをこの御神水で浄めて自宅に安置し、然るべき期間が経ったら、古いものをこちらへ納めて、新しいものを求めるというシステムになっているようです。
こちらが手水舎だと思うのですが、仏の使い的な3人で支えている手水鉢から水が垂れて、その水で手を清めるシステムだと思います。緑の苔が深すぎて、手をつけるのはちょっと憚られます。
二天門を入った正面に建つのは、本堂ではなく帝釈堂です。瑞龍の松が見事ですね。拝殿と内殿で構成されています。珍しく、靴を脱いで上がってお参りするようになっています。帝釈堂内殿にご安置されているのは日蓮が自ら彫ったとされる板本尊です。この板本尊の片面には「南無妙法蓮華経」と法華経薬王品の要約が彫られていて、片面には帝釈天像が彫られています。江戸中期まで行方不明だったが、改修の際に梁の上にあったのが見つかったそうです。
こちらは大鐘楼です。昭和30年に建立されました。枡組がごっつい感を出しています。高さもかなりあって、実際にすごい鐘楼だと感じます。「男はつらいよ」でも、この鐘楼の音が効果音として使われていたそうです。
授与品を販売している福寿殿の横に、自動販売機のお守りがあります。その中に「寅さんおみくじ」というのがあって、ずっと「男はつらいよ」のテーマ曲が流れていました。駅前も、参道も、帝釈天も、全て「男はつらいよ」という作品の一部のように感じます。もちろん江戸時代から昭和初期までは寅さんは存在しませんから、その頃の帝釈天はどうであったかというと、やはり近隣の地域だけでなく遠方からも信仰を集める寺院だったようです。これは板本尊が帝釈堂で発見された日が庚申の日だったことで、帝釈堂の縁日が庚申の日になったことが始まりです。
福寿殿は授与品を求める人々で賑わっていました。さて、庚申信仰は中国から伝わった民間信仰で、帝釈天とは関係ないのですが、その日に縁日が開かれたことで人々が帝釈天に集まります。庚申信仰とは、60日に1度の庚申の日に、三尸という虫が眠っている人々の悪業を天帝に告げ口するので、眠らないで過ごすというヘンテコな信仰です。ご近所同士で集まって念仏をしたり、飲み食いしたりして過ごしたのですが、庚申を縁日とする帝釈天にお参りに行くというのは良い時間の過ごし方ですね。人々は日が暮れる頃にぞろぞろと帝釈天に集まって、そのまま夜を明かして過ごしたそうです。
回廊でつながっていますが、こちらが帝釈堂の右側にある祖師堂で、いわゆる本堂という扱いです。祖師堂も帝釈堂と同じく拝殿と内殿から成り立っています。帝釈堂を新築した際に、かつて帝釈堂として使われていた堂宇を大改装して祖師堂にしたそうです。だから造りが似ているんですね。
祖師堂の右側に釈迦堂が建っています。この釈迦堂が、江戸末期に建てられた境内で最も古い建物です。この釈迦堂内には白鳳期の釈迦如来立像が安置されているとのことです。白鳳期というのは現代の歴史区分では飛鳥時代後期ということになります。諸説ありますが、大化の改新から平城京遷都までの間あたりです。釈迦堂にはこの釈迦如来立像の他、開山の祖日栄上人像と中興の祖日敬上人像を安置しているそうです。
室町時代に尾張国在住の人物が願主となり、富士山本宮浅間大社大宮司だった富士親時が関わって建立された十一面観音鉄像が、富士山頂に奉納されたという記録があります。明治維新の神仏分離、廃仏毀釈の影響で、富士山周辺の仏像も破壊されたり他所へ移されたりした。それがこの釈迦堂の横にご安置されている鉄像とのこと。尊格が違うものの背中の銘文が一致し、富士山麓の砂地を引き下ろした際の擦り跡もあるそうです。何の説明もなくポンと置かれていますが、こちらの像が室町時代~明治初期、富士山頂上にあったというのは、結構なロマンだと思います。
帝釈天では帝釈堂の内殿の彫刻ギャラリーと庭園を、とてもリーズナブルな価格で拝観することができます。今回私は訪問していませんが、またの機会があれば庭園も見学したいと思います。帰りは夕方の参道を柴又駅へ戻ります。風情豊かです。次回は寅さん記念館にも訪れてみましょう。おそらく、この有名な参道を少し外れたところにも、柴又の風情あるお店があることでしょう。
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