寺社探訪

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臨済宗建長寺派 普済寺

臨済宗建長寺派 普済寺 目次

名称・寺格

玄武山 普済寺と称する臨済宗建長寺派の寺院です。本山である建長寺の別格地となっています。

創建

文和2年(1353年)、当地を支配していた立川宗恒が居館のあった敷地に一族の菩提寺として建立し、建長寺から物外可什禅師を招いて創建しました。

本尊

聖観音菩薩

みどころ

多摩川に沿った広い境内は、ゆっくりと境内や周辺を歩くのにちょうど良いです。国宝の六面石幢(せきどう)がありますが、現在は保管施設の建設中で、拝観できません。

アクセス

東京都立川市柴崎町4-20-46

JR中央線「立川」徒歩15分

多摩モノレール柴崎体育館徒歩7分

探訪レポート

多摩地域臨済宗建長寺派の大寺院、普済寺に行ってまいりました。住宅街を歩いていると突如現れるという感じです。まずは巨大な石灯籠にビックリします。これは写真の角度にもよるのかもしれませんが、ネット上に見られる過去の写真に比べて、内側に傾いているような気がします。いつかゴロンと転がり落ちることはないのでしょうか。長い参道にちょうど桜が咲いていて綺麗です。ここは意識して景色を眺めながら、時間を掛けてゆっくり歩くと良いと思います。右手に墓地があり、左手には人口の川と橋があります。

この人工の川には水が流れる仕組みになっているのか、意識的にこ流していないのか、わかりません。枝垂れ桜はまだ若そうですね。倍くらいに育ったら、見事な景観になるでしょう。普濟寺は当地を治めていた立川氏によって創建されましたが、立川氏がずっとこの地を治め続けた訳ではありません。小田原北条氏が支配したり秀吉に滅ぼされたりと領主は変わっても、そんな激動の時代を普濟寺はこの地に存続し続けました。まさに立川の歴史とともにあった寺院と言えます。

歩いていると、堂宇が全て新しいことに気づきます。実は平成7年(1995年)放火によって、本堂、庫裏、客殿など、建物と寺宝を焼失してしまったのです。放火というところがやるせ無いですね。こちらの鐘楼堂も真新しく見えます。更に奥の方にも新しい建物が建設されているようです。数百年の歴史は取り返せませんが、失った建物を再建するだけでも、檀家さんの負担は大変なものだったのではないかとお察しいたします。それでもこのように多くの堂宇が建てられて境内が造営されていることは、仏教の底力と申しますか、檀家さんたちが信仰と共に生きることを大切にされている現れですから、素晴らしいことだと思います。

こちらは閻魔堂です。朱塗りの閻魔大王坐像や、生前の行為を映し出すと言われる「浄玻璃の鏡」が安置されています。仏教以前のインド神話で、人類の始祖と言われる「ヤマ」が人類最初の死者となり、死者の国の王となって死者が進む道を示したとされています。この「ヤマ」が仏教に取り入れられて閻魔となりました。中国に伝わって、道教と習合して冥界の王、地獄の主として死者を裁くという考えが定着します。日本に伝わると、地蔵菩薩との結びつきが加えられ、地蔵菩薩は淨土と地獄を行き来する存在となります。

誕生物の石像です。誕生仏とは釈迦が生まれた際に上と下を指差して「天上天下唯我独尊」といったという伝説に基づいた仏像です。石碑や石像は火事を免れたのでしょうか、この辺りに固まって安置されています。

こちらは子安地蔵のようですね。地蔵菩薩は中国でも地獄から衆生を救い出す存在として信仰されていますが、日本では子供の守護仏として広く信仰されています。

この小屋風の祠にも地蔵菩薩他たくさんの石像が安置されています。「南無延命子育地蔵尊」「南無出現地蔵尊」と扁額が掲げられています。「南無」というのは帰依しますという意味です。〇〇地蔵というのは数え切れないほどありますが、出現地蔵というのは珍しいです。これはおそらく、地蔵菩薩が釈迦と弥勒菩薩の間を繋ぐ存在だからかなと思います。釈迦が入滅して、次に人類を導く仏として弥勒菩薩が出現するとされています。釈迦が亡くなったのは紀元前500年前後という説が多いのですが、それから2500年ほど経っています。弥勒菩薩が出現するのは釈迦の入滅後5億7600万年後か56億7000万年後となっていますので、その間が無仏時代となっていまいます。そこで釈迦が無仏時代に衆生を救済する役目を地蔵菩薩に託したとされています。出現菩薩とはそういう意味なのかなと思います。

こちらの楼門は火災を免れたそうです。とは言え、数百年もここに存在している訳ではなく、昭和45年(1970年)に建立されたものです。禅宗らしく精巧でありながら華美でない、侘を感じる楼門です。楼上の扉がいています。この扉の中には聖徳太子像がご安置されています。聖徳太子といえば「和をもって貴しと成し・・・」で有名な十七条の憲法の制定や、仏教を取り入れた政治を行った人です。

笏を中央に立てて持っていると、聖徳太子に見えるという説です。明治時代に境内に皇族の別邸が建てられたことが縁で、普濟寺は皇室との繋がりもあるそうです。この楼門の落慶式には三笠宮崇仁殿下。妃殿下が参加されたそうです。三笠宮崇仁殿下は、ヒゲの殿下の父親と言っても、若い方はわかりませんよね。現在の皇室の三笠宮妃信子様(麻生太郎大臣の妹)や高円宮妃久子様(東京五輪誘致でスピーチした方)の義理の父親、つまり大正天皇の子、つまり昭和天皇の弟です。

太鼓橋が川に架かっています。やはり真新しく取って付けた感が否めません。100年後には周囲の風景と馴染んで良い味が出ていることでしょう。

この土塁が立川氏の館跡だそうです。立川氏の敷地内に寺院が建立され、多数の僧侶が修行に励む大寺院として隆盛します。永享年間(1430年頃)に戦乱のために立川市は没落し、普済寺も衰退します。その後永正年間(1504ー1521年)は高幡城主平重能がこの地を治めます。平氏は普済寺の七堂伽藍を整え、寺域を広げ復活させます。その後平氏が衰退し、次に天文時代末頃(1550年代)小田原北条氏(後北条氏)がこの地を支配すると、立川氏が勢力を挽回します。そして天正18年(1590年)有名な豊臣秀吉小田原征伐によって北条氏と共に立川氏も滅亡し、普済寺も兵火に焼失して伽藍を失います。江戸時代に入ると、徳川将軍家の庇護を受けて、普濟寺はまたも復活します。

禅宗らしい本堂で、非常に大きいですね。本堂内の仏像も放火による火災で焼失しました。国の重要文化財に指定されていた仏像もありましたが、残念なことです。本尊は聖観音像です。

普済寺には国宝の六面石幢がありますが、現在は保管施設建設のために拝観できません。仁王像と四天王を刻んだ6枚の板石を六角形の柱状に組み上げたもので、延文6年(1361年)に建てられました。京都や奈良と違って、東京では寺社に国宝が保管されることは珍しいです。普済寺の他には、調布市深大寺も国宝仏の保管施設を建設中で、武蔵御嶽神社にも国宝の鎧があります。

普済寺は入り口から墓地があって、境内の半分はあるのではないかという広い区画を墓地に当てています。今後も拡大させていくようで、墓地のための土地や墓石屋さんの詰所などかありました。境内の奥の方の墓地に大きな松の木が立っていました。松ノ木のある場所には立川氏の首塚があります。江戸時代を前に滅んでしまった立川氏ですが、立川氏と一心同体だった普済寺は今も多くの檀家さんに支えられて存在し続けています。運命というか、人の力なのに人の力が及ばない時間の流れを感じました。

 

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