浄土宗 乗蓮寺 目次
名称・寺格
赤塚山 浄蓮寺と称します。山号院号をいくつか改称した歴史があり、孤雲山慶学院→慶学山花岳院としていた時代もあります。寺格は別格本山という位置づけでしたが、現在の浄土宗では別格本山は表記されていません。
創建
室町時代、応永年間(1394-1428年)に了賢無的上人が山中村(現在の板橋区仲町)に浄土宗の布教のために創設しました。
本尊
みどころ
有名な東京大仏が鎮座されています。境内はよく整備されていて、丁寧な説明書きもあり、きちんと理解しながら拝観できます。
アクセス
東京都板橋区赤塚5-28-3
都営地下鉄三田線「高島平」よりバス15分
探訪レポート
高島平駅からバスに乗って美術館前で降り、徒歩すぐです。「東京大仏通り」という名称の通りがありますので、迷わず到着できると思います。寺院の入口の門には注意事項がこれでもかと貼り付けられていて景観を損なっています。こういう寺院に入るのは気が進まないのだが、それでも伝えなければならない事情があるのだと思います。鉄の門に葵の御紋がドンドンドンと付いていますが、乗蓮寺は徳川将軍家の休息「御膳所」として指定されていました。江戸から見て北西にあたる武蔵野の台地は当時は将軍の鷹狩り場であったようで、多くの寺社で将軍が鷹狩りの休憩に立ち寄ったという逸話が残っています。乗蓮寺は徳川家の公式休憩所のような場所に認定されていたということで、葵の御紋を掲示しているのですね。
鉄の門を入る前に、いくつかお堂があります。こちらは獅子吼堂となっています。獅子吼は当ブログで訪問した港区の泉岳寺の本堂の扁額に書かれていて、その時に少し説明をしたと思います。ししくと読みます。師子吼とも書き、獅子の吼える声に動物たちがおののく様子から、釈迦の堂々とした説法の様子や、それを聞いておののく邪なる者のことを表しています。では、この獅子吼堂とは、いわゆるお説教部屋ということなのでしょうか。シャッターに隠されて秘密のヴェールに包まれております。
隣に閻魔堂があります。江戸時代の境内にも閻魔堂があって、「板橋の閻魔様」として知られていたそうです。お乳丸出しの脱衣婆も隣りにいます。閻魔大王も脱衣婆も鬼のような裂けた口をしているのが特徴のようです。ちなみに、亡くなって閻魔大王の裁きを受ける人の生前の所業が映し出される鏡も置かれています。
門を入り階段を登ると非常に立派な山門があります。表側に阿形吽形の仁王像が、裏側には広目天と多聞天の二天がご安置されています。
階段を上がり切ると授与所があり、その横に手水舎があります。まだ使用不可になっていました。このあたりの感覚は個々のお寺によってバラつきがありますね。手水舎の裏側は墓地になっていて、国民栄誉賞を受けた冒険家の植村直己さんのお墓があります。
正面に立派な本堂が見えます。扉の一枚一枚にも葵の御紋が貼り付けられています。そもそも板橋区仲町に開創されて、江戸初期までには中山道の宿場町である板橋中宿に移転しており、昭和になり戦後の都市開発の影響で寺領が削られていき、昭和46年から7年かけて現在の地に移って来たとのことです。
移転してきた現在の地は、小田原北条氏の有力御家人だった千葉氏の赤塚城の二の丸があった場所です。だから小高い丘の上にあるのですね。跡地を表す石碑が立っています。
本堂の右側に弁天池があり、金ピカの屋根の弁天堂が建っています。中には弁天像が安置されていて、よーく目を凝らすと見えます。
境内にはきちんと整備された植木の庭園の中に、このような石像が点々と安置されています。多くは「津藩主 藤堂家旧蔵」と書かれています。藤堂高虎を祖とする江戸の名門の藤堂家です。何かの縁でごっそり乗蓮寺に移されたのですね。
こちらにも奪衣婆がいらっしゃいました。
何でも耐える我慢の鬼だそうです。
修験道の開祖、役小角です。役行者も様々な場所で祀られていますね。
こちらは、藤堂家旧蔵と書かれてません。「医薬の神様鉄拐仙人」と書かれています。仙人のイメージ的には役行者のような山伏がそれに近いですが、実は仙人は中国の道教の神様に対する呼称です。中国の仙人の中の代表格の「八仙」という方々がいて、その中のひとりが鉄拐仙人とのこと。道教の神様である老子に会うために、鉄拐仙人は魂を浮遊させて向かい、抜け殻となった自分の体を見守るように弟子に告げました。7日経って戻らなければ体を焼くように伝えたのですが、6日目で弟子の母が危篤になり、弟子は鉄拐仙人の体を焼いて母の元へ向かってしまいました。鉄拐仙人が戻ると自分の体がありません。すると近くに足の悪い乞食の死体があったので、その体を借りて蘇ったという逸話があります。鉄拐仙人の右にあるのは、平安末期から武蔵国豊島郡を治めていた板橋氏の板橋忠康の墓と石塔です。
こちらは天保の大飢饉の供養塔です。江戸時代では天候による農作物の不作が原因で、度々飢饉が起こっています。天保の大飢饉の50年前には、近世最大とされる天明の大飢饉が発生しました。度々起こることだから、それなりの対策はしていました。それでも飢饉に陥ると、救護できる以上の被害がもたらされて、次々と人が亡くなってしまいます。天保4年(1833年)に発生してから5年間で125万2000人日本の人口が減少しました。この当時、乗蓮寺は板橋宿の中宿にあり、宿内の死者を寺内に埋葬し、その菩提を弔うために供養塔が建立されました。正面と左右には、当ブログでも訪れた祐天寺の祐天上人筆の「南無阿弥陀仏」の名号が刻まれ、天保8年3月から11月までの8ヶ月間に亡くなられた423名の戒名が台座に刻まれています。
そして、想像よりもかなり大きかった東京大仏です。昭和49年に発願し、昭和52年に完成したものです。関東大震災や東京大空襲で亡くなられた方々の供養と、災害や戦争のない世の中を祈願して建てられたのだそうです。大仏は仏様ですが、仏様にも色々いらっしゃいます。奈良の東大寺の大仏は毘盧遮那仏で、鎌倉の大仏は阿弥陀如来です。乗蓮寺の大仏は、浄土宗らしく阿弥陀如来となっています。
鐘楼堂が見えます。板橋区はとにかく住宅地がどこまでも続いているイメージです。マンモス団地もあって、乗蓮寺の初詣はすごい人出で賑わうのではないでしょうか。さて、手前の朱塗りのお堂は、福寿観音と書かれていました。北村西望作の観音菩薩像ということで興味深く拝見させていただきました。北村西望さんは長崎の平和祈念像の作者として知られていますが、当ブログの第1回目の記事となった「武蔵御嶽神社」の本殿前の狛犬を制作した方でもあります。
七福神が並んでいます。私が訪問したのは平日の夕方だったのですが、それでもお参りする方が結構多かった印象です。乗蓮寺の東京大仏は、板橋10景や新東京百景に選ばれています。近隣には超巨大な赤塚公園がありますので、散歩がてらお参りすると良いかもですね。
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