寺社探訪

寺社探訪とコラム

「江戸六地蔵+東海道」

江戸六地蔵品川寺東海道品川宿

品川寺

江戸六地蔵巡りの札所には札所の順番と巡拝する順番が設定されています。1番目は品川区にあります真言宗醍醐派品川寺です。

品川寺の由緒は品川の歴史そのもので、かなり興味深い内容です。品川寺の開山は大同年間(806−810年)に、弘法大師空海によるものとされています。空海は当地の領主であった品河氏に水月観音像を授け、像は品河氏によって代々受け継がれていきました。応永2年(1395年)に上杉禅秀の乱という合戦で品河氏が滅亡し、水月観音は草堂(観音堂)に安置されて人々の信仰を集めました。その後、太田道灌がこの地を治めた際に伽藍を整えて、観音堂金華山普門院大円寺としました。

戦国時代、品川を治めたのは北条氏政です。永禄9年(1566年)、武田信玄が品川を焼き払い、観音堂も焼失し、水月観音甲州へ持ち去られてしまいます。しかし、持ち去った武士が発狂し、信玄は山伏に頼んで品川の元あった場所に戻し、観音堂を建てて祀りました。そして江戸時代に入り、中興弘尊上人のもと徳川家の庇護を受け、品川寺として伽藍が整えられ、品川の街と共に大きく栄えました。

品川寺地蔵菩薩

東海道の守護のために安置された地蔵菩薩像です。江戸六地蔵のうち、品川寺地蔵菩薩像は最も古く、宝永5年(1708年)に造立されました。座高も一番大きくて275cmあります。かつては鍍金(メッキ)が施されていました。江戸六地蔵は同じ鋳物師によって造られたのでいずれも姿がよく似ていますが、品川寺地蔵菩薩は傘を被っていないのが特徴です。山門よりも街道沿いにドンと構えていて、まさに道を守っているという感じです。

東海道 品川宿

東海道は現在でも日本の東西を結ぶ主要道路ですので、時代に関係なく、日本の地形から必然的に主要街道となるべくしてなっているのだと思います。律令国家の時代から五畿七道のひとつとして整備された東海道ですが、当時は近畿から東北の方まで東海道を通って向かえました。しかし、太平洋沿いを通る東海道は大河川の下流東京湾香取海を船で渡らなければ通行できず、その困難さから内陸を通る東山道の方がメジャーであったと言われています。10世紀頃から渡河の仕組や技術が整備されるに伴って、徐々に東海道が主要道路となっていったそうです。江戸時代の江戸ー京都の移動ではどうであったかというと、日数的には東海道の方が所要日数は短いのですが、大河川の渡河は天候に左右されて足止めを受けたりと、予定通りに進まない上、中山道の方が宿代も安かったそうです。とはいえ、内陸の積雪や峠越えなどは非常に厳しかったと思われます。まぁ、東京ー西日本を移動するのに、東名を使うか中央道を使うかという選択は、現在でもどちらとも言えない部分がありますよね。

東海道五十三次」という言葉は聞いたことのある方が多いと思います。歴史の授業でも習う歌川広重の浮世絵で有名ですね。これは東海道には宿場町が53か所あるということです。宿場町は自然発生的にできるものではなく、東海道を管理する幕府が許可を出して作られています。宿場町の条件が各項目ごとにきっちり定められていて、条件を維持するように管理されていたのです。さてさて、それでは東海道最初の宿場であります「品川宿」を訪れてみましょう。散歩気分で着いてきてください。

京急北品川駅の少し北側、八ツ山口から旧東海道を歩くことができます。こちらはその入口に立っている「品川宿傍示杭」です。写真で見ると左側に「従是南 品川宿 地内」と書かれていて、右側に「従是南 御代官 築山茂左衛門 支配所」、その右側に「弘化二年 乙辰月」と書かれています。弘化2年は1845年です。品川宿の入口ですよという意味ですね。

こちらは品川宿の中に設けられた石碑で、平成18年に整備されました。「1番 東海道八ノ山口」と書かれていますが、これは25番まであるそうです。ちなみに25番は「大経寺 東海道鈴ヶ森口」だそうです。南大井まで伸びていますね。

後世に作り上げられた雰囲気なのでしょうけど、そもそも街道だったから滲み出る雰囲気もあると思います。旧東海道はこんな感じで整備されています。実はこのあたりは軽貨物配送の仕事でよく来ていたので、時間に追われて焦っていた思い出が蘇ってしまいます。

「問答河岸跡」です。後ろに案内板がありますが、字が潰れていて読めません。東京都はどこからどこまでが埋め立てられてできた土地なのかよくわからないのですが、この品川宿は海沿いにあったようです。三代将軍家光と沢庵和尚がこのあたりで禅問答をしたという言い伝えがあって、それで問答河岸跡だそうです。

ここは「土蔵相模」跡地です。説明書きによると、このあたり(歩行新宿:かちしんしゅく)の食売(めしうり)旅籠屋に「相模屋」というのがあり、奥座敷が土蔵になっていたことから、通称「土蔵相模」と呼ばれていたそうです。品川宿は海沿いの町なので、案内板の浮世絵によるとオーシャンビューの素晴らしい宿のようでした。幕末期の安政7年(1860年)に起きた桜田門外の変では水戸浪士が、文久2年(1862年)の英国公使館焼き討ち事件では長州浪士が、この土蔵相模に集まって、ここから出発したそうです。昭和初期までは土蔵造りの建物が残っていたそうです。

街道には並木が植えられます。並木の木々は日差しや風雨から道を守り旅人を守るために植えられていました。また、並木は道標としても活躍していました。海沿いの道には松が植えられ、山中の道には杉が植えられました。品川宿にも多くの松があったのだと思われますが、現在はこんな風にビルやマンションの前にぽつんと植えられています。ちなみにこちらの松は、同じ東海道の27番目の宿場町である静岡県の袋井宿から寄贈されたものです。この旧東海道品川宿には、東海道の他の宿場の街道松が寄贈されて植えられています。

こちらは6番目の宿場である藤沢宿から寄贈された松です。

このあたりの江戸時代の地名を歩行新宿(かちしんしゅく)と言ったそうですが、この付近にある善福寺へ続く道周辺を歩行新宿裏町と呼んでいたそうです。

こちらが善福寺です。参道というほど距離もなく、すぐそこにありました。当ブログの企画「将門の魔方陣」で訪れた将門塚の石碑を建立したと言われる、時宗の他阿上人の建立だそうです。

こちらも袋井宿から寄贈された街道松です。

袋井宿の街道松を右に曲がると品川神社があって、その隣りにある沢庵和尚の東海寺へと向かう参道になります。東海寺の門が黒門だったので、東海道から東海寺ヘ向かう参道を黒門横丁と言ったそうです。

こちらは品海公園の入口です。街道松といくつかの案内板と石碑があります。品川宿東海道五十三次の最初の宿場であること、現在の商店街は江戸時代の東海道と同じ道幅が保たれていること、家屋1600件、人口7000名の宿場町として大いに栄え、現在でも賑わいを残していると書かれています。

そしてこの街道松は品川宿の街道松だそうです。ひと際大きいですね。

こちらもマンションの入り口に東海道品川宿と書かれています。とにかくマンションやビルの入口に松を植えて「東海道品川宿」と書けば雰囲気が出るという安易な模倣かと訝ってしまいましたが、こちらには48番目の宿場、坂下宿から寄贈された街道松がありました。失礼いたしました。

街道沿いの小さな寺院には、近隣の方々らしき人が集まっていました。寺院に人が集まる光景も、趣があるというか、古き良き雰囲気のある道です。成田山の提灯が下がっているのでお不動様ですね。真言宗智山派の一心寺という寺院だそうです。

こちらは聖蹟公園の入口です。「品川宿本陣跡」の石碑が建っています。この公園に大名が宿泊する本陣があったということですね。現在は何もなく公園になっていますが、大井にある品川区立品川歴史館に品川宿の模型があり、そこで本陣の様子も見ることができます。(現在は休館中)街道松は、49番目の宿場である土山宿から寄贈されたものです。

聖蹟跡という石碑というかモニュメントがあります。聖蹟というのは宿場本陣という意味ではなくて、天皇が休憩や宿泊をした場所のことを指します。明治維新の後、明治天皇は京都から江戸に向かったのですが、その際に品川宿本陣を宿舎にされたということです。

さて、どんどん進みます。東海道は目黒川を渡ります。品川橋は、かなり趣深く造られています。東屋があって座って休むこともできます。目黒川を境にして、品川宿は北と南に分けられていて、品川橋は境橋と呼ばれていたそうです。

目黒川を渡ってすぐのところに城南信用金庫があるのですが、ここに「百足屋」という脇本陣があったそうです。目黒川は大正末期までは大きく蛇行してたそうで、そこに南品川宿の河岸があったそうです。百足屋の近くにあるということで百足河岸と呼ばれていたそうです。河岸は、船から荷物の上げ下ろしをする場所のことです。品川宿周辺から集まった年貢米が、この河岸から蔵前にあった幕府米蔵まで運ばれていたそうです。

さて、南品川宿を歩いていますと、街道松の広場という公園があります。品川区が運営して、町の老人クラブが手入れしている公園とのこと。ベンチしか無い広場なのですが、結構人がいました。29番目の宿場町である静岡県の浜松宿から寄贈された街道松です。

問屋場と貫目改所の跡地があります。問屋は、宿場を円滑に運営するための役人で、宿場の代表者のような感じです。宿場は人や物が移動する場所ですから、物流関係の仕切り役のような感じだったと思います。そんな問屋やその補佐役たちが宿場の運営事業を行う場所を問屋場と言いました。積み荷の重さを測る場所を貫目改所と言って、問屋場と同じ場所に置かれることが多かったです。

南品川2丁目児童公園の入口にも、街道松があります。こちらは11番目の宿場であった静岡県の三島宿の街道松です。

ここは旧東海道より一本海側の通りなのですが、この石垣が江戸時代の護岸壁の名残だということです。本当に海沿いにあったことがわかります。

旧東海道に戻り、大田区方面へ歩き進みますと、品川区立城南小学校と城南幼稚園がありました。景観を意識した感じになっていますね。しかし、立派な幼稚園です。

こちらは46番目の宿場町である三重県の亀山宿の街道松です。シャープのAQUOSで有名な亀山市です。

「釜屋」という茶屋の跡地だそうです。オーシャンビューが素晴らしい茶屋だったそうで、大名や幕臣たちに人気が高かったそうです。見えている松は、東海道4番目の宿である保土ケ谷宿の街道松です。

釜屋跡の斜め前に品川寺があります。山門よりも東海道側に江戸六地蔵のひとつ品川寺地蔵菩薩坐像が街道の方を向いて鎮座されています。

この街並みはこの先もずーっと続き、品川区南大井の鈴ヶ森刑場跡あたりで第一京浜国道15号線)と合流します。品川駅から京急「青物横丁」駅あたりまで、旧東海道品川宿を歩きました。都心ですので、当時の面影を残すようなところはほぼ無いのですが、ここには〇〇があった、ここで▢▢をしていた、という記録を辿るだけでも、当時の様子を想像することができます。東海道を通って参勤交代する大名は、おそらくは関西や中四国、九州から長距離を旅してきた方々が多かったと思われます。品川に着くともうゴールみたいなもので、ホッとする場所だったのではないでしょうか。「釜屋」で旅の疲れを落として、品川寺地蔵菩薩に旅の無事を感謝し、旅姿から正装に着替えて、「ほな江戸城に挨拶して、日本橋にくり出すでぇ」という感じだったんでしょうかね。

 

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