太宗寺
江戸六地蔵巡拝には、札所の番号と巡拝の順番があります。今回訪問する浄土宗太宗寺は3番札所で、巡拝順は2番です。
境内の奥に建っている山型の建物が本堂です。江戸幕府によって甲州街道が整備される少し前ですが、慶長元年(1596年)に太宗という名の僧侶が建てた太宗庵が寺院の歴史の始まりです。この地を治めていたのは譜代大名の内藤家で、現在の新宿御苑一帯が内藤家の下屋敷でした。内藤家から寺領を寄進されて寛文8年(1668年)に建立されたのが太宗寺です。そもそもは旧甲州街道である新宿通りに面していましたが、戦後の区画整理で現在の地になりました。
太宗寺には閻魔堂(閻王殿)があって、都内最大の閻魔像がご安置されています。「内藤新宿のおえんま様」として信仰を受け、隣には奪衣婆の像もあります。機会があれば実物を見に行ってほしいものですが、かなり恐ろしい形相をしています。
境内には他に塩かけ地蔵があります。石像に塩をかける信仰はそこまで珍しくもないですが、ここまで塩まみれなのは珍しいです。
太宗寺の地蔵菩薩像
太宗寺の地蔵菩薩坐像は、銅造で座高は267cmです。正徳2年(1712年)に六地蔵の3番目として甲州街道沿いに造立されました。像内に小型の銅造の地蔵菩薩坐像6体と、寄進者名簿が納められていたそうです。1番札所の品川寺のお地蔵様に比べるとふっくらして育ちが良さそうな印象を受けます。すごい福耳なのですが、傘の紐が耳たぶの穴に結びつけてあり、先進的ファッションにも感じられます。
甲州街道 内藤新宿
刻々と移ろいゆく新宿の町に、数百年前の痕跡を探すのは難しいです。10年前の痕跡も時と共に惜しげもなく更新されてしまいます。こちらは新宿御苑の大木戸門付近にある「内藤新宿開設300年記念碑」です。徳川家康は江戸に幕府を開いてすぐに五街道の整備を行いました。甲州街道は慶長9年(1604年)頃に整備されましたが、最初の宿場が日本橋より4里8丁(16.6km)の高井戸宿だったため、遠過ぎで人馬共に不便を強いられました。そこで浅草阿部川町の名主の高松喜兵衛が同志4名と共に、運上金5600両を納める条件で太宗寺周辺に宿場を設置するように願い出ました。
こちらは「水道碑記(すいどうのいしぶみのき)」という石碑です。玉川上水の開削の由来を記した石碑です。玉川上水は江戸市中の生活用水不足を解消するために、承応2年(1653年)に開通した水路です。当ブログの多摩川左岸百所巡礼企画で、玉川上水の始点である羽村取水堰を訪れましたが、そこからここ四谷大木戸までは開渠で、ここから江戸市中へは石樋・木樋といった水道管を地下に埋設して通水したそうです。水量や水質を管理する玉川上水水番所という施設もここにあったそうです。
四谷大木戸跡の石碑です。この石碑に使われている石は、昭和34年(1959年)に地下鉄丸ノ内線の工事の際に出土したもので、玉川上水の石樋に使用されていたのだそうです。現在の甲州街道と新宿通りの分岐点である四谷4丁目の交差点に、四谷大木戸があったそうです。そこが内藤新宿の入口で、新宿三丁目の伊勢丹前の交差点あたりまで宿場町となっていたそうです。
ここは四谷区民センターで、水道局や図書館がある新宿区の施設ですが、ここにも玉川上水の水番所跡地として説明板が掲げられています。江戸時代に多摩川から水を引くと考えたとき、その起点を羽村にするという発想は壮大すぎて驚きます。羽村から多摩川の水を引いて、途中に30ヶ所以上に分水し、新田開発を行いつつ江戸市中に水を送るという計画もダイナミックです。大きなことを現実的に考えられる脳を持った優秀な人がいたのですね。
こちらは新宿3丁目の伊勢丹前の交差点の道路に描かれた内藤新宿の様子です。言うまでもなく、この交差点は常に人で溢れかえっています。絶妙のタイミングで写真撮影できました。「ここが追分」と書かれています。追分というのは、ここから西に向かって、甲州街道と青梅街道に道が分かれていたということです。
甲州街道 府中宿
甲州街道の4番目の宿場町、府中宿にやってきました。内藤新宿、高井戸、調布、府中という順です。府中は宿場町である以前に、律令時代からの武蔵国府でしたので、そもそもある程度栄えていて、交通の要所でもあった場所です。府中宿の中心部であった場所が、現在でも府中市の中心部となっています。
宿場町の中心部には六所宮(現在の大國魂神社)があり、旧甲州街道に面しています。こちら( ↑ )は大國魂神社の境内にある鼓楼というもので、太鼓の音によって周囲に時刻を知らせるためのものでした。慶長年間(1596-1615年)に建てられましたが、正保3年(1646年)の火災で焼失し、嘉永7年(1854年)に再建されました。空白の時間が200年以上ありますね。その間はどうして時刻を伝えていたのでしょうか。
こちらは府中の繁華街のど真ん中にある時宗称名寺です。境内にある地蔵堂の子育地蔵尊が有名なのですが、ここには飯盛女と呼ばれた遊女の墓があります。府中宿は、本陣1件、脇本陣2件の大名旗本クラスの宿泊施設の他に、旅籠29件、銃帯人馬が25人25頭、商店142件という大規模な宿場でした。飯盛女(遊女)を置くには幕府の許可が必要ですが、府中宿も許されて富裕層の社交場となっていたそうです。江戸時代は吉原遊郭が代表的ですが、幕府公認のもとに売春宿が営業をしていました。人身売買のような方法で集められ、年季奉公的な制度の中働いていた訳ですが、当時の医療状況では病気に罹患する遊女が多く、命を落としてしまう例も少なくなかったとされています。
こちらは高札場です。おそらく東京都でもここだけに現存するのではないかと思います。江戸時代に禁制、法令を伝えるために板を掲げていました。結構高い場所に掲げられるのですね。ここは大國魂神社の神輿のお旅所として現在でも使用されている場所です。旧甲州街道と旧川越街道および相州街道(現・府中街道)の交差点となる場所で、府中宿の中心地だったようです。
高札場の真正面に古い蔵の酒屋さんがありますが、こちらは府中宿の問屋場と本陣の跡地となっています。問屋場には宿場を利用する人々が集まりますから、この付近は宿場町でも人で溢れる場所だったようで、大道芸人などもいて非常に賑やかだったそうです。
ここは、宿場町とは全く関係ないのですが、武蔵国府国司居館跡地です。広場の中に1/10スケールで再現されています。この広場内に資料館的な事務所がありますが、そこでVRゴーグルを借りると、家康の鷹狩の様子などが投影されて見ることができるそうです。
甲州街道 日野宿
甲州街道を更に西に移動し、5番目の宿場である日野宿にやってきました。府中宿から日野宿へ向かう間に多摩川がありますので。渡し船で多摩川を越える必要があります。江戸時代初期は万願寺の渡し(現・中央道あたり)が甲州街道のルートでしたが、多摩川の氾濫でコースが変わり、日野の渡し(現・立日橋あたり)を利用するのが甲州街道の正ルートとなったそうです。立日橋を渡って現在の甲州街道にあたるT字路に日野宿東口の杭が建っています。
こちらは旧日野銀行(有山家)です。日野宿には蔵造りの建物が並んでいたそうで、現在でもその名残を見ることができます。中でもこの洋館風のエントランスを持つ建物は非常に趣深く、建築マニアや廃墟マニアが放っておけないオーラがあります。こちらの建物は明治期に建てられたそうですが、江戸時代にも似たような蔵が並ぶ街道だったと想像できます。
日野バイパスがあるのでそれほど交通量も多くなく、時間帯によりますが駅前が少々混む程度です。街道という雰囲気はあまりないです。
かなりひび割れがある石碑ですが、「高幡山不動尊道」と書かれています。日野宿から高幡不動尊へ行くにはここを曲がって南に進みます。徒歩であることを想定すると、ちょっと寄り道というレベルでは迎えませんが、遠方から高幡不動尊へお参りをするのに、日野宿を利用した人々もいるでしょうね。
日野宿には本陣が残っています。長野県や岐阜県などの山中の宿場には、本陣というか宿場ごとごっそり残っているような場所もありますが、東京都で本陣が現存するのはこの日野宿だけです。こちらは斜め前にある観光協会の建物でチケットを買い、中を見学することができます。地元のガイドさんによる説明も受けることができるそうです。
日野宿本陣の正面に問屋場と高札場の跡地の石碑があります。本陣と問屋場と高札があるというので、ここが日野宿の中心地だったのでしょうね。江戸を朝出発して日野まで来るには、当日では厳しい感じがします。日野の次の宿場町は八王子です。そして高尾山の北側を通り、小仏峠を超えて相模原市→山梨県と甲州街道は続いていきます。逆側から江戸を目指してきた人々は、険しい山道を終えて、日野宿に辿り着いてほっとひと息だったことでしょう。
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