眞性寺
JR巣鴨駅を降りて地蔵通り商店街の方へ向かうと、商店街の入口に辿り着く前に真言宗豊山派眞性寺があります。眞性寺の創建は不明となっていますが、寺伝によると聖武天皇(724-749年在位)の勅願によって行基が開いた寺院とのことです。元和元年(1615年)に祐遍法印によって中興開基という記録が残っています。
真言宗なので、弘法大師がいらっしゃいます。眞性寺の本尊は薬師如来ですが、秘仏として一切開扉されていないとのことです。縦に細長い境内で、立地上多くの方がお参りに訪れています。
やはり江戸六地蔵が有名なので、他に見どころを探すのも難しいですが、中山道の入口に位置する古刹で、旅人の安全を何百年も見守ってきた寺院です。
眞性寺の地蔵菩薩坐像
眞性寺の江戸六地蔵は4番目の地蔵菩薩坐像で、拝順は3番目です。像高は268cm。正徳4年(1714年)に建立されました。毎年6月24日に、全長16m、541個の桜材の珠がある数珠を500〜600名で回して地蔵菩薩を供養する「百万遍大数珠供養」が行われます。
中山道 板橋宿
眞性寺を後にして、これから旧中山道の最初の宿場町である板橋宿に向かって歩いていきたいと思います。また、さくさく散歩感覚で進みますので、お付き合いいただけたら有り難いです。
巣鴨地蔵通り商店街がそのまま旧中山道ですので、賑やかな通りに向かいます。私だけの印象かも知れませんが、この辺りでTVのインタビューをよく見かけます。ニュースや情報番組で街の人々が感想や意見を語っている背景って巣鴨地蔵通り商店街がしっくり来ませんか? 巣鴨は日本のスタンダードオピニオンな街なのでしょうか。行く度にそんな収録シーンを見かけます。
とげぬき地蔵として有名な曹洞宗高岩寺です。ここはいつも多くの方々がお参りに訪れる観光寺院となっていますね。そもそもは湯島に創建され、そこから下谷に移転し、この地に来たのは明治24年(1891年)なのだそうです。意外にも街道が整備されて賑わった江戸時代には無かったのですね。本尊は秘仏で公開されていませんが、御影と呼ばれる本尊の姿を写した紙をいただくことができるそうです。毛利家の女中が針を誤飲してしまったときに、この地蔵菩薩の御影を飲み込むと吐き出すことができ、吐き出した御影に針が刺さっていたそうです。それが「とげぬき地蔵」と呼ばれるようになった経緯です。
本堂の左側にある「洗い観音」と呼ばれる聖観音像が人気です。タワシで自分の悪い部分をこすると良くなるという信仰がありまして、あまりに人々がこするので聖観音像が摩耗してしまい、現在は二代目の聖観音像を布で洗うようになっているそうです。いつも行列ができるので、柵が設けられて行列に並ぶためのレーンが作られています。
高岩寺を出て、商店街を進みます。高岩寺を過ぎると観光地から地元の商店街に様相が変わります。どんどん歩いていきましょう。
都電荒川線の「庚申塚」駅の手前に、立派な庚申塚があります。猿田彦大神をお祀りしています。天照皇大神が「国譲り」によって大国主命から地上の支配を譲り受けた際に、天照皇大神の孫である邇邇芸命が天から地に降り立ちます。いわゆる「天孫降臨」の神話です。そのときに地の神である猿田彦大神が邇邇芸命の道案内をしたということで、猿田彦大神は道案内の神様として信仰されています。それが庚申信仰や道祖神と結びついていったのですね。
庚申塔は道端にぽつんと置かれていることが多いのですが、ここまでしっかりお社を設けてお祀りされているのは珍しいです。板橋までの旅と言えるほどでもない散歩ですが、実りある散歩になるよう祈念しました。
運動会の入場門のような入り口を発見しました。こちらは延命地蔵尊他、いくつかの石像が安置されています。そもそも先ほど訪れた庚申塚付近に、中山道を旅する中で亡くなられた人馬の墓があり、その墓標として延命地蔵菩薩が建立されました。その後様々な供養塔が集まったのですが、都電荒川線の駅が設置されることになり、延命地蔵尊は現在地に移転し、大正期には参道と地蔵堂が整備されました。第2次世界大戦で被害を受けましたが、地域の人々が奉賛会を結成して今日まで守り続けてきました。現在では「延命地蔵堂の石造物群」として豊島区の文化財になっています。
古さもあり、空襲被害もあり、かなり傷んでいますが、本格的な調査がされているので、立ち止まって右から順番に見ていきましょう。1番右は「徳本名号塔」と言います。文政11年(1828年)徳本というのは、諸国行脚して各地に徳本念仏と呼ばれる念仏講を創った僧侶です。2番目が「題目塔」です。髭字体の南無妙法蓮華経の左右に、大摩利支尊天と北辰妙見大菩薩を配した三尊形式となっています。「加越能住人」「為道中安全」とあるので、北陸と江戸を結ぶ街道として中山道を利用していた人が建立したと思われます。中央が延命地蔵塔です。角柱型の安山岩に、右手に錫杖左手に宝珠を持った半跏坐像の地蔵の姿が彫られています。痛みが激しく詳細は不明ですが、江戸初期のものと推察されています。その左が地蔵像庚申塔です。上部に日月、下部に三猿があったという記録があります。中央の地蔵菩薩の右側に「是より小石川おたんす町之ミち」左側に「元禄拾一年戌寅四月十六日 諸願成就」と書かれていたそうです。1番左にあるのが馬頭観音像です。側面には巣鴨の住人が願主となって建立されたことが書かれています。
大正大学です。都心の大学はこんな風にビルの集合体のようになっていることが多いですね。大正大学はそもそも仏教連合大学を目指して作られたそうですが、天台宗、真言宗豊山派・智山派、浄土宗、時宗の4宗5派が運営に参画する仏教連合大学になっています。先日花まつりで訪れた増上寺の小澤台下は大正大学出身で、名誉教授に就任されています。
さて、中山道のこの辺りは、種子産業が盛んな土地だったとのこと。都市化すると様々なものが流入して何でも揃う街になる一方で、その街ならではの特色を失ってしまいます。昔はこうだったと懐かしむことはあっても、なかなか逆戻りにならず、都会化されていくのは世の常ですね。
こちらは有名な亀の子だわしの本店だそうです。古い建物のようですが、古さが一周して新しさを感じます。お洒落な店構えですね。
観光地要素はすっかり無くなって、地元の商店街になりました。それでも何となく旧街道の雰囲気は感じます。
歩いていると、このようなお知らせが貼り出されていました。時代の流れとひと言で終わらせてしまうのも虚しいことです。栄枯盛衰、諸行無常の理なのでしょうが、ここにこのお店があったことで救われてきた人々が、何世代にも渡って存在していたことはたしかな事実です。152年間、ありがとうございました。
板橋宿と呼ばれるエリアに入っていきます。このあたりは平尾追分と言いまして、中山道と川越街道の分岐点でした。川越街道の起点ということです。平尾宿・仲宿・上宿を合わせて板橋宿が構成されていました。
通りの装いがぐっと街道らしくなりましたね。雰囲気を出すには、アスファルトでなくブロックなのですね。
「板橋宿平尾町脇本陣跡」と書かれています。ここは天正18年(1590年)に徳川家康の江戸入国と共に三河国から移住していた豊田家の居館跡です。板橋宿において問屋、脇本陣、平尾の名主を務めた家系です。記録によると、江戸での興行に向かっていたペルシャ産のラクダがこの脇本陣に引き入れられ、江戸周辺の多くの人々がその姿を見ようと当家に押し寄せたそうです。
旧街道沿いの公園の入口に、中山道の他の宿場を紹介する記事が掲げられていました。東海道の品川宿もそうでしたが、1つ目の宿場町というのは、その街道の情報が集まる場所なのでしょうね。街道全体の情報発信基地となっています。
仲宿エリアに入るようです。周囲の建物が大きくなって、繁華街に入ってきた感覚がします。ところで、江戸から中山道を利用して西へ向かう旅に出るとして、最初の宿場町である板橋に宿泊するというのは、先々の旅程を考えると、距離が短すぎますよね。東海道の品川宿も同じですが、近すぎるので、宿泊というよりはここで食事をして人々を見送ったり迎えたりする場所だったと思われます。歓迎会と送別会ですね。また、江戸に入る際に旅姿→武士姿に着替えたりする場所として利用されました。
板橋宿中宿の石碑がありました。中山道の最初の宿場として栄えたこと、伝馬制度開設400年記念で造られた石碑だということが書かれています。ちなみに板橋の次の宿場は埼玉の蕨(わらび)ですので、板橋でサラッと休憩して先へ進みたいところ。ということで板橋宿には蕎麦屋など、サッと食べれるお食事処が多かったそうです。
ここは板橋宿の本陣、飯田新左衛門家跡地です。建坪97坪という大きな本陣ですが、それでも他の本陣に比べたら、小振りなのだそうです。これはやはり宿泊する機会が少ないことから、そうなっているとのこと。
本陣から少し歩くと、脇本陣の跡地がありました。こちらは本陣の飯田新左衛門家の本家で、飯田家の総本家に当たるそうです。総本家が脇本陣で、分家が本陣を担当したのですね。説明書きによると、両飯田家で協力しながら板橋宿を管理運営していたようです。
こちらは真言宗豊山派の文殊院です。板橋宿の名主である飯田家の菩提寺です。前回の甲州街道府中宿で訪れた称名寺に遊女のお墓がありましたが、この文殊院にも遊女の墓があります。宿場町には飯盛女と称された遊女が働いていたのですが、当時の遊女は人身売買で売られ、年季奉公として売春宿で働かされていました。現在のような避妊手段も無く病気に対して無防備だったので、命を落とす遊女も少なくなかったと思われます。亡くなっても、売られた身なので帰る宛もなく、宿場の墓地に葬られ、宿場の人々によって供養されてきたのです。
板橋宿の名の由来、石神井川に架かる板橋です。もちろん現在は板ではなくコンクリートの橋です。それでもどことなく風情を感じさせる景色になっています。ここまでが仲宿、ここから川を渡って上宿になります。日本橋から二里二十五町二十三間と書かれています。
縁切榎という木がありますが、これは江戸時代からあったそうです。嫁入り前は縁が切れるのを恐れてこの木の側を通らなかったそうです。文久元年(1861年)に皇女和宮下向の際には、榎を避けるために迂回路を作ったという記録があります。男女の悪縁や禁酒、近代以降では病気との縁を切るご利益があるとの民間信仰が広まりました。
榎大六天神と書かれたのぼりが立っています。これは第六天神社のことでしょうか。第六天神は織田信長が自身を第六天魔王の化身だと称していた通り、強烈な力を持つ神仏習合の神様です。ただ、近くに第六天神社は無さそうで、絵馬の管理はお隣のお蕎麦屋さんがボランティアでされているそうです。現在絵馬は自販機で購入できます。縁切りと聞くと恐ろしさが先に立ちますが、その後に良縁を結んでくれるところまでセットのようです。
こちらは板橋宿上宿の石碑です。この建物は板橋本町交番です。これより北330mまで板橋宿と刻まれています。この先中山道はほぼ真っすぐ北上し、荒川を渡って埼玉県蕨市の蕨宿へ向かいます。板橋宿の終わりは環七通りとの交差点あたりでしょうか。今回の板橋宿散歩はそこまでということで、板橋本町駅まで歩きました。
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