大宮八幡宮 目次
名称・旧社格
創建
康平6年(1063年)、源頼義によって石清水八幡宮の分霊を祀って創建されました。
御祭神
みどころ
都内で3番目の広大な境内を持ちます。善福寺川と周辺の森に隣接していて、緑に囲まれた神域となっています。
アクセス
東京都杉並区大宮2-3-1
京王井の頭線「西永福」徒歩7分
探訪レポート
電車で来ると南参道が近いのですが、正参道から訪問します。一之鳥居と二之鳥居が並んでます。一之鳥居は昭和29年に再建された高さ8mの鳥居です。参道の両側から木々が迫る感じは神社っぽくて良いです。250mあるという石畳の参道ですが、春には桜が咲くそうです。駐車場を兼ねているようで、参道の両側に車が並んでいるのが残念ですが、木々の中を歩くと自然と心が落ち着いていきます。急がずに努めてゆっくり歩きます。
竹林が現れました。竹林も心を鎮める効果がありますね。この竹は七夕や十五夜などの神社の様々な行事に利用されているそうです。
こちらにも境内の竹を利用したものがありました。茅の輪くぐりは夏越の大祓につきものですが、大宮八幡宮では笹の輪くぐりの神事を行っているそうです。神事の意味や内容は茅の輪と同じだそうです。どういう使い分けをしているのか、使い分けてないのかわかりませんが、訪問時は6月初旬でしたが、笹の輪が設置されていました。
手水舎です。あやめの鉢植えが夏らしくていいですね。柱が立派で洒落ています。この大宮八幡宮は千年に近い歴史があるのですが、そもそも弥生時代から祭祀が行われていた聖地として遺跡が発掘されています。源頼義がこの地を選んだのは、たまたまこの地で空を見たら白雲がたなびいてピンときたからなので、弥生の信仰とは関係ありません。立地的に東京都の真ん中辺りにあるので、「東京のへそ」と称しています。武蔵国三大宮の1つとなっています。何にでも「三大〇〇」が存在するものです。ちなみに他の2つは大宮氷川神社と秩父神社です。
こちらのお社は多摩清水社といいます。その昔は御神水が湧き出していたそうですが、現在ではポンプで汲み上げているそうです。延命祈祷水として「多摩の大宮水」を授与所で購入できます。お社の下は張り紙がたくさんです。どうしてもこのような場所はこうなってしまいますね。
多摩清水社の横に通仙庵という茶室の入り口があります。大宮八幡宮には他に神泉亭という茶室があるそうです。
手水舎で清めて、水神様にお参りしたら、神門を通って境内の神域に入っていきます。門の両側に天皇の御製と皇后の御歌が掲げられています。大宮八幡宮の御祭神は応神天皇なので、天皇の系譜なのですね。
塀で囲まれた神門の横にお百度参りの石塔が建っていました。毎回門の外に出て入り直す必要があるのですね。お百度参りは鎌倉時代初期には行われていたそうで、人に見られてはいけないとか、裸足で行うと効果が上がるとか、様々な言い伝えとともに受け継がれています。受け継がれています……と言っても、お百度参りをしている人を見かけたことはありませんし、誰かがお百度参りをしたという話も聞いたことがありません。テレビドラマの中だけしか知りませんが、実際には誰にも知られずに密かに受け継がれているのでしょう。
左手に社務所、授与所、受付的な建物があります。子育て八幡様として知られていて、応神天皇の両親(仲哀天皇・神功皇后)をお祀りしています。八幡三神という言葉があって、八幡神社では応神天皇(誉田別命)・神功皇后(気長足姫命)・比売神(宗像三女神)を八幡三神として祀っている八幡神社が多いのですが、三柱目に比売神ではなく仲哀天皇や武内宿禰や玉依姫命(神功皇后の母)を祀る八幡神社もあり、大宮八幡神社は仲哀天皇を祀っています。
拝殿の前に鉄パイプで組まれた延長部分があって、大人数の参拝に対応できるようになっています。これは一定期間だけの特別仕様なのでしょうか。あまり常態化させてほしくないですね。それはさておき、以前武蔵八幡神社を訪れたときに、応神天皇より母親の神功皇后の方が強烈なのでいつかお話しますねと書きました。神功皇后が仲哀天皇の皇后になったその年に、九州で熊襲の反乱が起こります。仲哀天皇はこれを制圧するために神功皇后とともに九州へ向かいます。そして筑紫国の香椎宮で神功皇后は神懸って、「痩せた熊襲の土地を攻めても仕方ない。海を渡れば豊かな新羅を得ることができる」と託宣したそうです。仲哀天皇が託宣を無視しているとまた神懸って、「お前には無理。お前の后の子が国を手に入れるだろう」と託宣したのです。7年がかりで熊襲を攻めた仲哀天皇でしたが、結局は神の怒りに触れたとも、熊襲の矢に当たっとも言われて、香椎宮で亡くなってしまいます。
こちらは神輿庫なのですが、それにしても大きいです。32基の御神輿が納められているとのことです。手前に御神木がありますが、源義家御手植の松ではなく,御手植の松の跡地です。流石に千年前の松が存命だとしても、こんな感じではありませんね。さて、仲哀天皇が崩御したのは、仲哀天皇9年の2月とされています。神功皇后は夫の意志を継いで、夫が7年かかってできなかった熊襲征伐を翌月には達成してしまうのですが、このときお腹の中に応神天皇がいたとされています。そして、10月になると夫が従わなかった神託に従って新羅征伐へ向かうのです。このときは、神託通りに田を耕し神に奉じて、髪を切り落として男装し「成功したらお前たちの功績、失敗したら私ひとりの罪になる」と英雄的な檄を飛ばします。奮い立ったのは家臣たちだけでなく、道中は小魚までも皇后に味方して、櫓も櫂も必要なく船を朝鮮半島に運び、船ごと陸を駆け上がるほどの勢いだったそうです。
こちらはおそらく参集殿というか、待合スペースですね。ここもテントで増築したビニールハウス的な感じです。さてさて、神功皇后のすごい勢いを前にして、戦わずして新羅のみならず、百済も高句麗も白旗を挙げ降参します。これが神功皇后の「三韓征伐」伝説です。そして三韓征伐を成し遂げて筑紫に戻った神功皇后は、12月に応神天皇を出産します。その翌年には仲哀天皇の殯(葬儀的なこと)を行って、自ら摂政として国を治め始めます。生まれたばかりの応神天皇が一人前になるまで、と思いきや、ここから69年間、100歳まで摂政としてヤマト王権を引っ張り、応神天皇に国を譲って亡くなります。この猛烈な人物を皇后と呼んでいいのか? という話です。事実明治時代までは仲哀天皇と応神天皇の間に、神功天皇として列せられていたそうです。
本殿の左側に境内社が並んでいます。若宮八幡神社の提灯が下がっていて、鳥居の扁額には御嶽榛名神社と書かれています。若宮八幡神社には御祭神の若宮、つまり応神天皇の子、仁徳天皇が祀られているそうです。また、応神天皇の荒御魂をお祀りしているという説もあります。御嶽榛名神社は御嶽神社と榛名神社から分霊しているそうで、講中も組織されているそうです。他に白幢宮が合祀されていて、こちらは大宮八幡神社を創建した源頼義とその子の八幡太郎源義家を祀っています。
その奥に大宮稲荷神社と三宝荒神社があります。稲荷神ですから衣食住の神様として祀られています。三宝荒神社は竈の神ですので、生活に直結した神様が合祀されているのですね。
この木は「共生の木」と称している御神木です。かやの木に犬桜が寄生しているそうです。寺や神社の境内では、生命力が強いとされる竹がいろんな木の幹を突き破っている様子をよく見かけます。このように異なる種の木が共に生きている姿が、国際協調や相互扶助、夫婦和合などを示唆しているとされています。
本殿の右側に宝物庫があります。明和3年に造られ、杉並区の文化財に指定されている随神像が保存されています。
こちらは大宮天満宮です。天満宮ですから菅原道真をお祀りする神社です。毎月25日に月次祭を執り行い。7月24と25日には大宮天神納涼子ども祭が行われます。
こちらは振武殿と称する弓道場です。都内有数の広さだそうで、平日の昼間でしたが、利用者が中にいらっしゃいました。
神楽殿です。今更ですが扉の閉じた神楽殿に御神酒をお供えする神社が結構多いのだなと気づきました。馴染んでいるので気にしませんでしたが、あちこちで見かけます。
こちらが南参道の鳥居です。大通りに面しているので、大宮八幡宮のイメージとしてはこの南参道の鳥居が印象的ですね。武蔵国三大宮のひとつということで大きな神社でした。境内が東京で3番目の大きさとのことで、1番2番を考えてみました。1番はすぐに分かりました。2番は調べてみたら靖国神社でした。神輿庫を見ておわかりだと思いますが、大宮八幡宮の氏子地域の人口は相当多いと思うので、ひとつひとつの祭事が大規模で盛り上がると思われます。9月に行われる秋の大祭が最大規模のようですので、機会を作って一度訪れてみたいですね。
ーーーーーーーーーーーーーーー