寺社探訪

寺社探訪とコラム

天台宗 円融寺

天台宗 円融寺 目次

名称・寺格

経王山 文殊院 円融寺と称する天台宗寺院です。天台宗法服寺→日蓮宗法華寺天台宗円融寺と改宗した歴史があります。寺格は特にありません。

創建

仁寿3年(853年)に、慈覚大師円仁によって創建されたと伝えられています。

本尊

阿弥陀如来

みどころ

旧本堂の釈迦堂は室町時代初期の建築で、東京23区で最も古い木造建築物です。長く激動の歴史を持つ寺院なので、そこにある物語も堪能できます。

アクセス

東京都目黒区碑文谷1-22-22

東急目黒線「西小山」徒歩15分

 

探訪レポート

平安時代に創建された円融寺に参りました。円融寺は天台宗としての歴史と日蓮宗としての歴史がちょうど半分ずつある寺院です。寺院が改宗することはあまり頻繁にはありませんが、長い歴史の中では珍しいことではありません。山門は立派過ぎず、慎ましやかな佇まいです。天保4年(1833年)に播磨国美養の寺院の門として作られ、明治33年(1900年)に品川御殿山の原邸に移され、昭和26年(1951年)に円融寺に移築されたそうです。境内に入ると、竹の柵が良い味を出している参道を通ります。ここを抜ける頃には、心が落ち着いてしまいますね。

天明年間末〜寛政年間末にかけて、円融寺の仁王尊が爆発的に信仰を集めた時期があり、参道に店が並び、多くの参拝者が訪れたそうです。当時は江戸庶民の小旅行が流行していて、距離的に丁度良い場所だったのかもしれません。東海道品川宿から碑文谷道と呼ばれた道があったそうです。都内各所に大山道という大山詣のための道が残っていますが、円融寺にお参りするための碑文谷道があったのです。現在でも辻(分岐)に置かれた「右不動尊 左仁王尊」と刻まれた石碑が残っています。不動尊目黒不動尊のことですね。

わらじがたくさん掛けられています。筋骨隆々の仁王尊は当然足もゴツいので、健脚祈願のために掛けられているそうです。江戸時代にも、背負うほどの大きなわらじを奉納したり、そのまま夜を通して断食修行をしたりしたそうです。

黒仁王と呼ばれていますが、作者は不詳で、円融寺開基の慈覚大師円仁の作だとか、運慶・快慶の作だとか伝えられていたそうです。仁王像改修の際に全てが判明するのですが、日蓮宗時代の日厳上人が願主となり、永禄2年(1559年)に鎌倉扇谷の大蔵法眼によって作られたそうです。大蔵とか法眼とかは仏師がよく名乗る名前というか、位を表す名前なのかと思います。慈覚大師や運慶・快慶に比べると「誰それ?」なのですが、はっきりとした歴史が判明したことで、その価値が認められて東京都の文化財として指定されました。2007年まで茅葺屋根を維持してきたそうです。

仁王門を通ると、右手に鐘楼堂がありました。梵鐘は寛政20年(1643年)に作られたもので、国の重要美術品に指定されています。鐘楼堂は平成元年に再建されたものとのこと。再建の際に旧鐘楼堂の屋根から木札が出てきて、旧鐘楼堂が寛延4年(1751年)に再建されたものと判明しました。200年以上前のことでも、誰が願主で誰が棟梁かまでわかるのは寺社建築の面白さの1つですね。

左手に中門があります。墓地エリアに向かう区切りのように置かれています。元々は違う場所にあったものが移築されているように見えます。

石碑や石塔が築山のようになっていて、その上に観音像が建っています。寺院では古い石碑や石板などをこのように積み上げることがよくありますが、きれいな円を描いた山になっています。

この石塔は日蓮宗としての開基である日源上人の供養塔です。この石塔は傘の部分と軸の部分が別の石で作られていて、軸の部分に高さがあって全体で4.4mもあるというのが特徴です。日蓮宗から天台宗に変わると、この供養塔は荒廃してしまいます。十方庵敬順という放浪の寺社探訪者みたいな名前の人が書いた文化11年7月の訪問記によると、草ボーボーの中に苔まみれで、上部3段は崩れて横に転がっていたそうです。再建されたのが文化11年の8月とのことで、訪問記と再建の因果関係が気になりますね。

円融碑と呼ばれるもので、天台僧で書家の豊道春海による書です。僧としても天台宗の大僧正だった方ですが、書道での功績が多い方です。融という字を円で囲み、横に「無礙天真」と書かれています。公式サイトに戒名の説明みたいな解説文があります。円は丸く、あまねく、尽きないという意味。融はとけこむ、和らぐという意味。無礙は妨げがないこと。天真は天から与えられた人間の純粋な本性とのことだそうです。

旧本堂である釈迦堂は室町時代初期の建築で、東京都23区内最古の木造建築物として国の重要文化財に指定されています。昭和27年(1952年)に茅葺屋根から銅葺に変えたそうですが、茅葺ならもっと凄い雰囲気でしょうね。円融寺は慈覚大師円仁によって天台宗寺院として創建された当初、法服寺と名付けられました。弘安6年(1283年)に日源上人によって法華寺という日蓮宗寺院に改宗されます。日蓮宗時代は江戸中期まで400年続きますが、法華寺不受不施派だったので、江戸幕府の弾圧を受けて取り潰しにされてしまいます。不受不施派は権力に従わないので、キリスト教と同じく禁教とされていました。

そして元禄11年(1698年)に再び天台宗に改宗され、円融寺となります。その後、前述の黒仁王尊参りが流行して隆盛を迎えます。戦後まもなくの改修事業の際に、屋根裏の一番奥の柱に書かれている文字が見つかったそうです。通常は創建や改修の年代や内容や棟梁の名が書かれているので、歴史的な詳細が判明するかと人々が期待しました。しかしそこには、ただ「我が手よし 人見よ」と書かれていたそうです。素晴らしい。室町時代に、そんな粋な棟梁がいたんですね。そして、改修工事の現場監督が、改修から30年後に住職さんに告白します。私も書いてしまいましたと。そこには改修工事の年代や内容や人の名前ではなく、「その手よし 我は見たり」と書いたのだそうです。

釈迦堂の裏側に、現在の本堂である阿弥陀堂があります。昭和50年(1975年)の建立だそうです。本尊は阿弥陀如来で、こちらも新しく創ったものです。実は日蓮宗から天台宗に改宗されるとき、寺内の仏像などが近隣の日蓮宗寺院によって引き取られています。当ブログでも訪問した杉並区の妙法寺にも祖師像が引き取られています。そう思って訪れるとまた違った趣がありますね。

境内の一番奥に稲荷神社と毘沙門天と幼稚園がありました。ちょうどお迎え時間のようで、子どもたちの声が賑々しく響き渡っていました。日本仏教の原点のような天台宗と、日蓮という僧の存在が生んだ日蓮宗が、歴史の中でどんな風に存在してきたのか、そのひとつの形が円融寺に現れているように感じました。

 

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