名称・寺格
摩尼珠山 宝光院 真福寺と称する真言宗智山派の寺院です。総本山である京都の智積院の別院となっています。
創建
慶長10年(1605年)、中興照海によって鉄砲洲(現在の中央区明石町)にあった小庵を現在地に移して寺院化しました。
本尊
みどころ
本尊は愛宕薬師と称される薬師如来です。真言宗智山派の総本山別院として、宗派の中枢的な役割の他、写経会や阿字観会や護摩供などの一般向けの行事も開催しています。
アクセス
東京都港区愛宕1-3-2
探訪レポート
右が愛宕東洋ビルで、左が真福寺です。どちらも真福寺の所有ビルですが、虎ノ門ヒルズが建ち並ぶ中にあるので、囲まれている感が否めません。真福寺は千葉県の北東部の匝瑳郡谷部村にあった真福寺の住職だった照海が創建した寺院です。当時の谷部村の真福寺は、西光寺という寺院の末寺でした。照海は西光寺の第14代住職を務め、西光寺も真福寺も地方寺院でありながら幕府から朱印地を賜っているので、照海自身が将軍家に近いところに何かしらの関係を持っていたと思われます。青山常陸介忠成の薦めで、天正19年(1591年)に江戸の鉄砲洲(現在の中央区明石町)に草庵を結びます。慶長10年(1605年)に徳川家康から愛宕下に寺領を拝し、移転して伽藍を整え、自身が住職をしていた真福寺の名を付けました。慶長15年(1610年)には幕府から新義真言宗の触頭役に命じられます。
触頭というのは、現在の宗務局のような機能を持つ寺院のことで、各宗派ごとに認定されます。宗派や僧侶をまとめる機能があって、幕府や本山からの連絡事項を全国の寺院へ伝達する役目や、全国の寺院から幕府や本山への要望を伝達する役目もあります。江戸時代は宗門人別改帳を作ったり、寺社奉行を設けたりと、寺院を利用した政治を運営していました。そんな中で、創建間もなく触頭になった真福寺は、触頭寺院として新義真言宗の行政機関的に発展していきます。
浅野幸長が寄贈した薬師如来を本尊とし、浅野家からの支援を受けてはいたものの、檀家からの布施を頼りに運営していた訳ではありません。現在の真福寺に墓地がないのも、その名残りです。真福寺は触頭寺院として将軍家から賜った寺領からの年貢や借地代によって運営されていました。
現在でも、総本山別院としての立場が大きいと思います。真言宗智山派の教化活動の推進をする智山教化センターや、仏教や密教などの教学研究を行う智山伝法院などが、内部組織に含まれています。大正大学とも縁が深いので、大学から講師を招いて研究会なども積極的に行われています。
こちらはビルの周囲にある勝軍地蔵です。徳川家康が本能寺の変の混乱から逃れて三河に帰還する際に、信楽の多羅尾氏から行基の作とされる勝軍地蔵が贈られました。家康は無事に三河に帰還し、慶長8年(1603年)天下人となる際に愛宕神社を創建し、その本地仏として勝軍地蔵を別当寺の円福寺に安置しました。円福寺は廃仏毀釈で廃寺となり、勝軍地蔵は真福寺に移されました。結局は関東大震災で焼失してしまいましたが、昭和9年に再建されました。日頃は墓地の入口で赤い前掛けをして立っているお地蔵さんですが、勝軍地蔵は馬に跨っているこの姿がスタンダードです。普段おとなしい人のはっちゃけている姿を見てしまったような、妙な罪悪感を感じました。
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