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北区→板橋区・川口市は都会
岩淵水門を過ぎ、荒川放水路から正式な荒川になりました。JR東北本線・京浜東北線・高崎線・宇都宮線・湘南新宿ライン・上野東京ラインなどが荒川を渡っています。駅でいうと赤羽〜川口に当たります。対岸に川口市のビル群が見えます。まさに東京都と埼玉県を結ぶ大動脈ですね。
河川敷の道はあまり変化がありません。左に見えるのが新河岸川で、右にあるはずの荒川は木々がもっさもさで見えません。
ここで海から23kmの青いキロ杭が見えました。北区浮間と書かれています。このあたりの河川敷はゴルフ場になっています。クラブハウスは土手の外側にあって、土手を越えてコースに出て行く感じですね。対岸に川口市の街が都会っぷりを主張しています。此岸より全然栄えています。
荒川 百所巡礼 第24番:北向地蔵堂
ここで土手を降りました。とある会社の駐車場の一角に北向地蔵堂というお堂がありました。この付近にあったとされる石像や板碑を、河川工事や地域の区画整理の際に移設してここにまとめたものです。中央の地蔵菩薩立像は亨保6年(1721年)に建立されたものです。疣取地蔵・身代わり地蔵と呼ばれ、浮間村の北側の入口に北向きに設置されていたそうです。村の入口や村に通じる辻に地蔵などの石仏を配するのは、道祖神信仰と仏教が習合した結果です。左右の像は庚申塔で、青面金剛が刻まれています。宝永2年(1705年)と安永6年(1777年)に造立されたものです。
浮間船戸・それぞれの氷川神社
荒川 百所巡礼 第25番:浮間氷川神社
由緒を調べると、1600~1700年、浮間村の形成と共に創建されたようです。人が住み着いて村が出来上がると心の拠り所が必要で、そのために建立された神社はたくさんあります。御祭神は大宮氷川神社から勧請された記録があるそうです。洪水から社殿を守るために盛土をした水塚(みづか)の上に社殿が建っているのが特徴なのだそうです。かなり立派な社殿ですが、宮司が常駐で管理されているような神社には見えません。氷川神社が中心となっている地域の行事があります。「オシシサマ」という獅子頭が各家をまわって、家人が獅子頭の下をくぐって無病息災を祈る行事や、「マンゴリ」と呼ばれる梵天を担いで荒川に入って「サンゲサンゲ、ロッコンショウジョウ」と唱えながら水垢離をする行事だそうです。マンゴリは明らかに真言宗や修験道系の行事ですね。
荒川 百所巡礼 第26番:浮間不動尊
氷川神社の土地の一角に建っていますが、元来は氷川神社と関係ありません。浮間村は江戸時代は将軍家の御料地で、亨保4年(1804年)の記録によると、人口は55戸・271人だったそうです。村には真言宗智山派の観音寺があって、村人全員真言宗の門徒でした。浮間村には観音寺の他に、天台系の修験道本山派の大教院という寺院があって、その大教院の本尊こそが、この浮間不動尊にご安置されている不動尊とのこと。「マンゴリ」の行事があったのも頷けますね。
海から24kmに達しました。まだゴルフ場の風景が続いています。荒川之下流三十景も其の二十五になりました。反対側は浮間公園に差し掛かる辺りです。ここを過ぎると、北区から板橋区に入ります。
「中山道・戸田の渡し」の石碑が立っていました。当ブログの「江戸六地蔵+中山道」では板橋宿を訪れました。次の宿場町は埼玉県蕨市の蕨宿ですが、この周辺は江戸時代も各方面に向かう道が交差していて、日光御成道の川口宿など、宿場町も様々にあったようです。また戸田河岸と呼ばれる荷揚げ場があって、人だけでなくモノでも、地方⇔江戸へと送られる中継点になっていたようです。
荒川 百所巡礼 第27番:舟渡氷川神社
さすがに氷川神社が多いですね。氷川神社は全国に点在するというより、関東地方の、特にこの荒川流域エリアに集中しているので、これからも多く出くわすと思います。こちらの氷川神社も大宮氷川神社から勧請したものです。浮間公園を挟んで、浮間氷川神社と舟渡氷川神社が似たような感じで存在しているのも不思議です。ただ、こちらの舟渡氷川神社は昭和41年(1966年)の創建とかなり新しい神社です。板橋区舟渡町自体が、区画整理によってできた新しい町だからですね。
境内には十度の宮と称する石祠があります。洪水のために十度流されても、その度に戻って来たというのでこの名がつけられたとのこと。万治2年(1659年)と刻まれているので、江戸時代には存在していたお宮だそうです。
リサイクルエリア
左が国道17号線が通る戸田橋です。いわゆる中山道ですね。右はJRの埼京線と東北新幹線が走っています。現代は新幹線がたくさんあって、他に上越新幹線、山形新幹線、秋田新幹線、北陸新幹線が走っています。戸田橋を走る国道17号線は新潟まで続いています。中山道は群馬県の高崎までで、そこからは三国街道を継承しています。と言っても、道路は新しくなる度に少しズレるので、旧街道とピタリと一致している訳ではありません。
荒川の土手道が充実しています。私が歩いているのが一番高い土手上の道で、その下の土手の中腹に赤っぽいアスファルトの道があり、土手下に舗装された道と砂利の道が並走しています。やはり自転車勢が一番多くて、次いでジョギング勢となっております。
左が板橋区指定斎場の舟渡斎場で、右が民営火葬場の戸田斎場です。先日のコラムで解説しましたが、東京には公営火葬場が無いエリアがあり、残念ながら板橋区民も民営火葬場を利用せざるを得ません。仕事柄、私にとっては見慣れた場所ですが、斎場からは高い壁のように見えていた土手に初めて上がりました。戸田斎場あるあるをひとつ挙げると、戸田斎場には3階と4階に併設式場が計3式場ありますが、搬入搬出用のエレベーターが1つしかありません。それを各式場の葬儀社、生花店、返礼品業者が利用するのですが、エレベーターの利用のルールが結構ルーズなのです。ガチガチにすると返って困ることもあるので、これで良いとは思いますが、各式場の業者間で、エレベーターを巡る小さなイザコザを良く見かけます。戸田斎場にはペット火葬場も併設されています。また、ワンルームのアパートみたいな式場もあって、新しい試みに臆せず挑戦する斎場という印象です。
海まで26kmのキロ杭です。三角点のようなものが突如登場しました。板橋区はこの三角点で行くのでしょうか。河川敷の開発は各自治体が担っているので、国の施設は統一感があり、区の施設は区によってデザインが違います。国土交通省が管轄する「荒川之下流三十景」も27番目になりました。このあたりの町側は住宅街ではなく、大小さまざまな工場や物流倉庫が並んでいます。特にリサイクル関係の会社がたくさんあって、回収業者や金属類を扱う〇〇製作所といった町工場が密集しています。
遠くから異様な屋根の建物が目立っていました。この感じは長野県白馬のジャンプ台のようです。この建物は戸田ボードレース場です。私の感覚ですと、ギャンブルはパチンコが1番ライトで、競馬→競輪→競艇→オートレースとディープになっていく印象です。私はギャンブルはしませんが競馬は結構詳しいです。「私をスキーに連れてって」という映画の中に「馬券買わずに競馬見ても、ただの家畜の駆けっこだからな」という名台詞があって、実に言い得て妙で好きな台詞です。今は家畜の駆けっこを見ていますが、昔は馬券も買っていて、世代的には「ウマ娘プリティーダービー」の第二期の時代に競馬にどっぷりハマっていました。自分の部屋にトウカイテイオーの写真を額入りで飾ったりしていました。
荒川百所巡礼 第28番:水神宮碑
土手を町側に下りますと、公園の一角に赤い鳥居がありました。祀られているのは水神宮の石碑です。川や海に水神様が祀られるのは不思議はないですが、荒川も歴史を紐解くと、その名の通り洪水の大きな被害が度々記録されています。だからこそ荒川放水路を造ることになったのですが、この石碑は鎌倉古道が荒川を渡る「早瀬の渡し」にあったそうです。早瀬の渡しは現在の首都高速5号池袋線のあたりで、対岸の町名が早瀬になってます。早瀬の渡しで船運事業を営んでいた人々によって建立された石碑として、板橋区の文化財に指定されています。
さらばTOKYO 新河岸川ふたたび
こちらが早瀬の渡しがあった首都高速5号池袋線です。相変わらず河川敷が広いですね。荒川がどこにあるのかわかりません。
すると、土手の左側にふたたび新河岸川が迫ってまいりました。前回訪れた岩淵水門で荒川と合流して隅田川になる川です。新河岸川は荒川水系の河川で、遡上していくと赤間川に名前を替えます。これはそもそも伊佐沼から流れていた新河岸川と赤間川をくっつけたからです。そして、ついに、このあたりで東京都板橋区から埼玉県和光市に入りました。東京ゲートブリッジから始まった荒川百所巡礼でしたが、訪れたお祈りポイントは28ヶ所でした。意外にも少なかったですね。ここまでご覧いた皆様、ありがとうございました。
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