拝島大日堂 目次
名称・寺格
大日堂と呼ばれています。現在は天台宗拝島山普明寺の管理となっています。
創建
天歴6年(952年)と伝えられています。
御本尊
大日如来坐像
見どころ
天台宗の神仏習合の姿が現在も残されている場所で、東京都の史跡に指定されています。神道と仏教、神社と寺院という、現在では分離された宗教が融合していた時代の信仰に思いを馳せることができます。
アクセス
東京都昭島市拝島町1-10-14
JR五日市線「拝島」バス10分
探訪レポート
バス通りに面した大日堂の入口の数10m横に、日吉神社の鳥居があります。山王鳥居ではありませんね。大日堂と日吉神社は奥で境内が繋がっているのですが、入口はこのように少し離れて別々に設置されています。現代社会では神道と仏教は全く別物だとされています。入口が神社と寺院は別々で、奥へ行くと繋がっている、というのも、日本の宗教史を象徴しているのではないかと思います。
大日堂側から入っていきましょう。入口横に「坂下地蔵尊」がコンクリートブロックのお堂にご安置されていました。江戸時代に八王子千人同心の職にあった武士たちが、日光勤番(徳川家康の霊廟である日光東照宮を守る勤め)に行くために日光往還道が整備され、その宿場町として「拝島宿」が成立しました。この拝島宿内を守るために、天和2年(1682年)から宿場の西と東に一対で安置されたのが、このお地蔵様です。明治17年と大正6年に宿場町が火事になった際、このお地蔵様が火消しのために、空を飛び回ったという伝説が残っています。
参道をしばらく進むと、馬頭観音や庚申塔の石碑群がありました。
境内は公園のような広場になっています。その広場の入口に仁王門が建っています。この仁王門は昭島市の文化財に指定されており、扁額には「密厳浄土寺」と書かれています。この大日堂は、多摩川の中州の島(昭島市大神町)に流れ着いた大日如来像を、村人たちがお堂を建てて安置し、拝むようになったことが創建の伝承となっています。それがそのまま「拝島」という地名になったそうです。村人が建てたお堂が浄土寺になったのか、浄土寺に移されたのかわかりませんが、とにかくその大日如来像は大神付近の浄土寺に安置されていました。その後、滝山城の築城の際(1521年)に鬼門除けのためにこの地に移されたそうです。ですからここには「(密厳)浄土寺」という寺院があって、浄土寺の仁王門として建立されたということですね。
仁王門ですから、仁王像(阿・吽の金剛力士像)がいらっしゃるのですが、こちらは東京都の文化財です。鎌倉時代の作だそうです。言い伝えによると、運慶の作となっています。かなりの傷み具合で、そろそろ大改修の時期かもしれません。大日堂や仁王門を管理していた浄土寺は廃寺になっていて、現在の大日堂は普明寺が管理しています。浄土寺がいつ廃寺になって、いつから普明寺が管理していたのかわかりません。このあたりの詳しい事情を知る人は存在するのでしょうが、私なりに考察しながら境内を廻ってみました。
記録として残るのは、天正年間(1573-1592年)に北条氏照の家臣石川土佐守が堂宇を再建し、他に8寺院(大日八坊)を建立したということです。この大日八坊は普明寺、本覚院、円福寺、知満寺、蓮住院、龍泉寺、明王院、密乗坊の8カ寺で、そこに浄土寺の名がありません。しかし、天正19年(1591年)に大日堂は御朱印十石を賜っていて、その充て名が浄土寺になっています。鐘楼にも「拝島山浄土寺観音院」と刻まれているので、大日堂を浄土寺が管理していた時代が確かにあるという記録になります。その御朱印十石の配分の記録もあって、別当寺として普明寺が3石、残る7カ寺が1石ずつということだそうです。そうなると御朱印を賜った天正19年の時点で、大日堂は普明寺が管理していて、浄土寺は大日堂に名前だけ残されていて、寺院機能としての浄土寺は既に無かったのではないかと考察できます。
私がネットで調べた程度の考察なので、真実を知る方は「全然違うよ」とおっしゃるかもしれませんが、これも歴史の楽しい部分です。さて、仁王門を抜けると藤棚があるのですが、この藤は推定樹齢800年とのことで、東京都の天然記念物に指定されています。そもそもはこの地にあった明王院の境内にあったそうですが、明王院は江戸時代初期に廃寺になったそうです。冬に見るとなんとも寂し気というか、儚き老木という感じですが、花をつけた藤棚は豪華というか幽玄というか、素晴らしい姿を見せてくれます。
六地蔵が2セット並んでいます。右のお堂の中にもお地蔵様がいらっしゃいます。
こちらは「おねいの井戸」として、昭島市の文化財に指定されています。室町時代末期のお話。滝山城城主北条氏照の家臣石川土佐守の「おねい」という娘が、7歳の頃に眼病を患い失明してしまいます。そこで、大日堂の崖下から湧き出る井戸水で日夜目を洗ったところ、左目が見えるようになったという逸話があります。この功徳に対する報恩のために、石川土佐守が大日堂を再建し、周囲に8カ寺を築いたとのことです。
手水舎があります。ここから少し長めの階段があり、大日堂は段上の境内に建っています。享保17年(1732年)享保の大再興があり、大日堂を現在の段上へと移設したそうです。現存する大日堂は当時再興したもので、平成16年(2004年)に平成の大修理が行われました。
大日堂です。本尊は大日如来坐像で、脇に釈迦如来像と阿弥陀如来像がご安置されています。3体とも東京都の文化財に指定されています。本堂の正面に説明書きなどがありますが、そこにお参りの仕方が書いてありました。私が境内を散策していると、日課としてお参りしていると思われる老女が現れ、すーっと本堂正面に向かい鰐口を鳴らして、柏手をパンパンと打ち鳴らしてお参りしていました。また「お寺でパンパン問題」勃発かと思った直後、これが神仏習合なのだと思い至りました。お参りの仕方が書かれた張り紙など、老女が先祖代々受け継いできたDNAの前では問題にならないのです。「仏像に向かい柏手を打つ姿は、間違いであって正すべきものであるはず」という疑問を日々抱えて寺社探訪する私に、千年の時を脈々と流れてこの老女に組み込まれたDNAが呼びかけます。柏手を打ち、合掌して祈る老女の姿は、全ての宗教の教義を押し流し、そこに現れた日本人の魂を見せてくれました。
こちらが大日堂にご安置されている大日如来坐像です。1年に1日だけ「東京都文化財ウィーク」のキャンペーンで、大日堂の門戸が開かれ、堂内を拝見することができます。
この大日堂の右に隣接する明王院というのは、大日八坊のひとつであった明王院だと思いますが、単独で寺院として機能しているようには見えず、明王院は江戸初期廃寺となって藤だけが残ったという記録があり、ただ名前だけ掲げているのかと思われます。
更に右側に薬師堂があります。薬師如来像と十二神将をお祀りしています。十二神将は仏教の天部の仏尊で、薬師如来の信仰者を守護をすると言われています。仏教の天部はインドの古い神々を仏教に取り込むために六道の最上位に置かれたような場所で、仏教の守護神として多様な神々が属しています。
鐘楼堂です。この大日堂を訪問した数日後、葬儀の仕事で天台宗の僧侶の法話を聞いていると、タイムリーなことに神仏習合のお話でした。その僧侶がおっしゃるには、天台宗ではそもそも神様と仏様と区別なく一緒に、尊いものとしてきたとのことです。昔は神主など存在せず、僧侶が神社の行事を行っていたのだと。明治維新の神仏分離は政治的な意図によるもので、天台宗としては不本意な出来事なのです。というお話でした。
大日堂の境内にある諸堂は、普明寺の境外仏堂として管理されていますが、そもそもは拝島山という山の中心に大日堂があり、普明寺、本覚院、円福寺、などの8カ寺と日吉神社で構成される寺域としてひとつの信仰の場となっていました。これは、天台宗の総本山である比叡山延暦寺と同様の構成となっています。比叡山はそもそも日枝山(ひえのやま)と呼ばれていて、そこに日吉(ひえ)社という神社がありました。最澄が延暦寺を建立し、日吉社は山の守護神となり、平安京の鬼門を守る存在となります。そうして比叡山全体が勢力を増すと共に、天台宗と日吉社が習合していきます。この信仰は中国の天台山にちなんで、山王信仰と呼ばれます。日吉社は山王権現と呼ばれ、日枝神社、日吉神社、山王神社という山王信仰の神社が全国に勧請されていきます。
拝島山にある日吉神社も、天正年間に比叡山の日吉大社から勧請した山王社として創建されました。寛保元年(1741年)に山王大権現の称号を許されて、明治維新の神仏分離で日吉神社と改称しています。大日八坊のうち現存しているのは、普明寺、本覚院、円福寺、の三カ寺だけですが、それらと日吉神社が大日堂を中心に拝島山という一山に展開している境域は、典型的な天台宗の姿を現しているということで、東京都の指定史跡となっています。
この獅子と獏の彫刻、大日堂と日吉神社のものですが、同じ人が彫ったのでしょうね。ということで、大日堂の左隣に建っている日吉神社へ参ります。上記で書きました通り、比叡山の日吉大社より勧請し、山王大権現の称号を延暦寺から賜ったのですが、このことを記念して、氏子ひと月一文の積み立てを26年間続け、神輿と祭礼具を整え、明和4年(1767年)に第1回の祭礼を行っています。これが現在も例祭「榊祭」として残っていて、東京都の無形文化財に指定されています。
日吉神社のご祭神は、日吉大社と同じく大山咋命ですが、他に大山咋命の兄弟神である羽山戸命(はやまどのみこと)と、香山戸命(かがやまどのみこと)をお祀りしています。日吉神社の現在の社殿は安政2年(1855年)に再建のもので、本殿はそれ以前のものだそうです。この社殿は細かい彫刻が至る所に施されていて、それぞれ日本神話の一場面を描いていたり、龍、猿、亀、鯉などたくさんの生き物が彫られていたりします。
本殿に施されている極彩色の彫刻は「香山九老」を題材にしています。香山九老は、中国、唐の大官僚であり大詩人であった白楽天が晩年は仏教を信奉し、雅な会を開き俗世を避けて風流に生きたという故事です。神仏習合の世の中で、大日堂(天台宗寺院)の管理下にあった山王社の彫刻に相応しいとのことで、この題材が選ばれたそうです。
仏教には学び尽くせないほどの教義があって、その教えを「法」と呼び、人々が拠り所とすべき1つとしています。しかし、その法を学ばずとも、私たちは仏に手を合わせ、現世利益を願い、成仏を願います。それが何宗の寺院であっても。神様に対しても区別なく同様に。であるなら、三宝の1つとして仏教の根幹を成す「法」とはいかに? ということを深く考えさせられる探訪となりました。
ーーーーーーーーーーーーーーー