寺社探訪

寺社探訪とコラム

「荒川 百所巡礼 15」

目次

中だるみは禁物

荒川右岸土手の上の道を進んでおります。ここは海から66.4km地点。比企郡吉見町上砂でございます。土手の内側は吉見ゴルフ場です。

ちなみに、多摩川百所巡礼企画では、JR青梅線日向和田」駅付近の神代橋が海から65km地点でした。神代橋が架かるあたりの多摩川は、谷底深い渓谷のような景色だったので、未だにきれいな土手道を歩ける荒川の長さがわかりますね。

気の向くままに歩いているように見えますが、基本的に一応地図で下調べしてから伺っています。すると、事前にリサーチできていなかった神社を土手の上から見つけたりします。土手の斜面は草ボーボーで、どこからでも下りられるわけではありません。「あそこまで行くの大変そうだな」と悪の心が囁き始めます。「もう百所過ぎたし、先を急ごうよ」という誘いに乗ってしまい、心ならずも(あるだろ)素通りしてしまいます。

 

荒川 百所巡礼 第119番 馬頭観音

いや、そんなことではいけない。長い道中で中だるみしてしまってはいけません。私は軽貨物車ドライバーの仕事もしているのですが、私自身の経験から感じた「配達十訓」というのを書き出していて、仕事前に見返したりしています。その十訓のひとつに、「中だるみをしない」というものがあります。配達は3〜4時間すると、ペースが落ちてくることがあります。たくさん配るためには、中だるみしないでペースを守って配達することが重要なのです。と、いう訳で、土手を下りて馬頭観音にお参りをしました。

むむっ。これは難関です。こんな土手の坂の真ん中に板碑が。しかも裏側のようで、何の板碑かわかりません。「きっと馬頭観世音って書いてあるだけだよ。行くまでもないよ」と囁く声が聞こえます。

修堤記念碑でした。大正2年(1913)の洪水で荒川右岸の堤防が203mに渡って決壊したという記録があります。埼玉県の直営で地元民を動員して修堤工事を行い、翌年に竣工の記念碑を建立したそうです。このあたりの時代は数年に1度という頻度で荒川が決壊しているような印象です。

海から67..2kmに到達しました。まだ右側はゴルフ場です。天気も良くて気持ちいいですね。

 

比企郡吉見町→熊谷市鴻巣市

荒川 百所巡礼 第120番 馬頭観音

土手道を外側に下りると馬頭観音の石碑がありました。他に力石のような大きな石がふたつほど置かれていて、意味あり気な感じでした。

 

荒川 百所巡礼 第121番 おさる堂

おさる堂と呼ばれていますが、お堂はありません。荒川の土手を背に並んでいます。このタイプの石像群に鳥居が備えられているのは珍しいです。付近の人の信仰を集めているのですね。

左側に新し目のお地蔵様がご安置されています。その隣は明治30年(1897年)建立の文字のみの庚申塔です。傘が付いていますね。その隣も庚申塔で、延宝2年(1674年)の建立だそうです。三猿かメインになっている珍しい庚申塔で、下には鶏が2羽描かれています。これがおさる堂の名の由来でしょうね。一番右は明王だそうです。

海から68.0kmに到達です。このあたりから比企郡吉見町→熊谷市に入っています。対岸は鴻巣市になります。荒川水管橋が見えています。赤いアーチが多すぎて数える気力がありません。またまだ河川敷の幅はすごいです。この水管橋の向こうに途中までの短い橋があります。熊谷市ですが吉見橋という名前です。

長い橋ですが、こちらは日本の長い橋ランキング43位の大芦橋です。川幅日本一のところで話題にしましたが、日本一長い橋は東京湾のアクアブリッジで4384mです。2位が明石海峡大橋で3911mです。明石海峡大橋が開通した頃、私は明石市に住んでいて(橋が架かっているのは明石市ではなく神戸市です)、開通記念10kmマラソンに参加しました。当時は世界一の吊り橋としてギネス認定されていましたが、現在は2位になっています。

さあ、日本43位の大芦橋を渡ります。このドブのような水路は、和田吉野川という荒川水系の川です。一級河川の支流は一級河川なので、こんな感じですが和田吉野川も一級河川です。さて、今回の荒川巡礼企画で見た橋の中で一番長い橋はどれでしょう? これは簡単で、スタート地点の東京ゲートブリッジです。2618mで日本ランク6位です。

熊谷市から鴻巣市に入ります。しかし、こんなに広い河川敷が本当に必要で、かつては数年に1度堤防が決壊していたのですから、信じられないですよね。荒川巡礼企画で訪れた橋の中で、長い橋ランキング20位に入っている橋が他に2つあります。荒川と入間川の合流点に架かる上江橋が1604mで13位です。そして、朝霞水門手前にあった幸魂大橋が1485mで16位となっています。

久々に荒川の登場です。土手や河川敷からは見えないので、橋を渡る時くらいしかお目にかかれません。見た目的には、まだ前回と大きな差はありません。ここでもまだ中流域なんでしょうね。

荒川左岸の土手に到達しました。ここを進むと良いのですが、そのまま街の方へ向かいます。前回のブログの最後に予告しましたが、ここで寄り道をして、私の足(靴下)に発生した問題を解決します。実はこの日は疲れにくい5本指靴下を履いていました。この5本指靴下は3足セットで購入し、配達の仕事で使用しています。そして、洗濯した後にやってしまいました。今、私の左足には左足用の靴下が、私の右足にも左足用の靴下が。あぁ・・・。気づかす家を出てしまい、歩くたびに右足の親指がキツくて引っ張られます。歩くだけの企画ですが、皮が剥けたりしては続行不能になるので、その前にコンビニで靴下購入の事態となりました。

 

寄り道の寄り道

荒川 百所巡礼 第122番 真言宗豊山派 王寺

コンビニを目指して歩いていると、お寺の屋根を見つけたので、行ってみました。そこそこ墓地もあるので、住職さんがいる感じです。山門の周りには多くの石仏がご安置されていました。創建は不明ですが、延元年間(1336-1340年)に芦の原を開拓して大芦が開発されたという記録が寺の過去帳にあるので、当地の開発と同じ頃に建立されたと言われています。

本堂の横に、小さなお堂があり、行者姿の像が安置されています。このパターンはほぼ神変大菩薩役小角を祀っているのですが、こちらはそうではなく、御岳教の教祖である普寛行者だそうです。どちらにしても山岳信仰なのですが、普寛行者は、当ブログで秩父御嶽神社を訪れた時に、境内に祀られていました。

そして、その奥に富士塚が・・・ではなく、これは御岳山なので御岳塚とでも言うべきものです。大芦村の名主堀口勘兵衛が講元となり、在家信者組織の大芦御岳講の人々が木曽御岳山に登拝した記念に造ったのだそうです。頂上の大きな板碑が登坂記念碑で「御岳山蔵王大権現」と刻まれています。

 

荒川 百所巡礼 第123番 宝登山神社

無事にファミリーマート鴻巣大芦店で靴下を購入しました。するとまたまた近くに寺院の屋根を見かけたので、立ち寄ってみることにしました。歩いていると、寺院の手前に小さな新しい神社を発見。宝登山神社と書かれています。宝登山秩父長瀞にある山で、宝登山神社も山の中にあります。祠の中を覗いてみると、宝登山神社で頂いたと思われる御札が2枚入っていました。ひとつは「宝登山神社 盗賊除神璽」と書かれていて、もうひとつは「宝登山 御眷属」と書かれていて、犬っぽい絵が書いてありました。これは奥多摩の御岳山の大口真神様の御札の絵によく似ています。山岳信仰神道のような神社ということですね。

 

荒川 百所巡礼 第124番 曹洞宗 龍光寺

到着しました。先程の醫王寺よりも大きな寺院です。曹洞宗龍光寺は、寛永元年(1624年)となっていますが、それ以前の慶長12年(1607年)の検地水帳に既に名前が載っているということで、もっと古い寺院だと思われます。正面に見えるのは本堂ではなく、馬頭観音堂です。お堂に馬頭観音を祀るというのはなかなか見かけませんが、この荒川巡礼企画では早くも2回目です。

こちらが本堂です。本尊は地蔵菩薩で、桃山時代の作です。明治6年(1873年)に、この本堂で寺子屋教育が始まり、後に地域の小学校教育の発祥となりました。

 

荒川 百所巡礼 第125番 大芦氷川神社

龍光寺のすぐそばに鳥居が見えたので行ってみると結構大きな神社です。「大芦を歩けば寺社にあたる」という感じで、このエリアの信心深さはレベルが違うようです。氷川神社ですので、御祭神は素盞嗚尊(スサノオ)です。

氷川神社は江戸期には先程訪問した醫王寺が別当寺だったそうで、明治になると村社となり近隣の13社を合祀しました。本殿には奇稲田姫のポスターが掲げてありました。クシナダヒメはスサノオの嫁で、八岐の大蛇退治の逸話に登場します。

氷川神社所有の算額鴻巣市文化財として指定されていますが、算額とは算数の問題と回答を木版に描いて、寺社仏閣に奉納したもので、絵馬の一種だそうです。和算算額なので、変わった幾何学のようなものもあって、意味はわからなくても見ていると楽しい図柄が多いです。日本の数学者だと関孝和が有名ですが、その関流の和算家小林要吉郎勝栄一門が奉納しました。では、寄り道の寄り道もここまでにして、荒川方面に戻りましょう。

 

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