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権八地蔵ふたたび
17シリーズに突入した荒川巡礼企画ですが、現在は熊谷市に入り、久下宿を過ぎて旧中山道を荒川土手方面に進んでいます。土手の手前に久下権八公園がありました。この公園に熊谷堤碑という荒川の決壊や修復の歴史を刻んだ石碑があります。篆額を伊藤博文が書いたとのこと。篆額というのは、篆書体という書体で書かれた石碑の題字のことです。典型的な児童公園ですが、片隅に地域の歴史がひっそりと刻まれています。
荒川 百所巡礼 第134番 久下権八地蔵
公園の前、道路を1本挟んで権八地蔵のお堂がありました。こちらは鴻巣市の大日堂近くで見た権八地蔵と同じ由緒に基づいているようです。ただ、この付近に他にも権八地蔵があるそうで、それぞれ自分の地域の権八地蔵が本物であると主張しているとのこと。物を言う地蔵とのことなので、ぜひお地蔵様自身から正解の発表をお願いしたいところです。
荒川 百所巡礼 第135番 九頭竜神社
権八地蔵から土手に上がる道の途中に九頭龍神社があります。と言っても、石の小さな祠が道端に置かれているだけです。それでもお花が供えられていて、お世話をしている方の信仰心が伺えます。
久下橋記念碑、通称「思いやりの碑」です。江戸時代は久下の渡しがあったそうです。昭和33年(1955年)に久下橋が架けられたのですが、冠水橋で橋上で自動車がすれ違えないために、対岸の様子を見てから渡るという、思いやり無くしては渡れない橋だったそうです。世知辛い世の中、平成15年まで使用されていたとのことですから、まだまだ世の中は思いやりで動くんですね。今は無くなってしまったのですが、説明板を読みながら感動してしまいました。
海から75km GET!
さて、荒川土手に上りました。すると、今までになかったことが。なんと、土手の道から荒川が見えます。日本一広かった河川敷も、このように幅が狭くなって、いずれは土手道が無くなって、渓谷のようになっていくのでしょう。まだまだ土手から見えただけですが、変わりつつある川辺の景色を見ることができました。
旧中山道は、ここですぐ土手を降りて、熊谷の市街地へ向かいます。私も旧中山道の方へ行ってみます。
坂を降りてすぐ、「みかりや跡」の説明板があります。民家の庭に建ってますので、あまりジロジロ見るのも憚られますが、ここには中山道を旅する人々が休む茶屋がありました。説明書きによりますと、柚餅子(ゆべし)というお菓子が有名だったそうです。柚餅子は柚を刻んだものともち米粉、上新粉、味噌、醤油、砂糖などを混ぜて蒸したものだそうです。保存食、携帯食として旅人に重宝され、全国で独自のレシピがあり、各地の名産となったそうです。
荒川 百所巡礼 第136番 曹洞宗 東竹院
旧中山道と荒川の間に東竹院がありました。門構えから非常に立派です。鎌倉時代に当地を治めた久下重光によって開基されました。庭がきれいに手入れされていて、禅宗らしい佇まいです。
本堂には丸に一という家紋が施されていますが、これが久下家の家紋なのだそうです。戦からわずか7騎で敗走する頼朝を救うために、数百騎で駆けつけた功のため、頼朝から賜った家紋なのだそうです。
入口の門を入ると六地蔵がいらっしゃいました。訪問時は、ちょうど墓地で檀家さんの埋葬が行われているようでした。印金を打ち鳴らす音と僧侶の読経の声が境内まで聞こえていました。かつて1度だけ、熊谷に葬儀の仕事で来たことがあります。真夏だったので凄い気温の中で葬儀をした思い出があります。
七福神の真新しい石像がありました。熊谷七福神というものがありまして、ここ東竹院は寿老人だそうです。檀家さんの納骨法要が営まれている最中でしたので、そそくさとお参りだけさせていただいて、境内を後にしました。
お寺の正面の道路脇に相当な年代を重ねたような石仏が並んでいました。
また、荒川土手にやってきました。流石に熊谷市は大都市なので、カムイ伝の草むらとは景色が違います。旧中山道はこの住宅街を抜けて熊谷駅の方へ伸びていますので、ここからは荒川とは方角が違っていきます。
野球場の外野の芝生に「GET!」と刈り取られた芝生アートの作品がありました。手前の木の看板はキロ杭です。木製で味があって良いのですが、風化して読み辛くなっています。海まで75kmとのこと。水源までの距離も刻まれていましたが、目が霞んで見えませんでした。
荒川ジェネシス
水源と言いますと、このあたりに元荒川源流の地がありますので、寄り道してみましょう。元荒川という名の通り、元々は荒川の本流で、利根川に合流していたそうです。現在ではここから荒川に沿って流れつつ少しずつ離れていき、越谷市で中川に合流します。荒川の元である元荒川の源流ですから、ここはもう荒川ジェネシスとしてゴールでいいんじゃないかという閃きが……。
熊谷市ムサシトミヨ保護センターという施設があるのですが、ムサシトミヨというのは絶滅寸前の在来種の魚の名前です。同系の種が絶滅していく中、ムサシトミヨの唯一の生息地が、この元荒川源流なのだそうです。センターを建てて自然環境を守りつつ、繁殖を手助けして種の保存を行っているのですが、そこまでしないと絶滅してしまうということです。つくづく人の存在は自然に有害なのだと思い知らされます。
荒川 百所巡礼 第137番 大雷神社
元荒川源流の近くに神社がありました。集合住宅裏の駐車場のど真ん中を突っ切るように鳥居と参道があります。大雷神社とのことなので、元々は雷の神様を祀った神社かと思われます。雷のための災除けでしょうか。もう少し荒川から離れると、電気と神経の神様として雷電神社があります。大きな神社なので、そちらと関係があるのかもしれませんね。
荒川 百所巡礼 第138番 地蔵尊
大雷神社のすぐそばに、地蔵尊・二十二夜待塔・馬頭観音が祀られているお堂がありました。夜待は月待とも言って、特定の月齢の日の夜に集まって、飲食を共にし経を唱えて、災を除ける民間信仰です。庚申塔も似た感じですが、日本人は供養をしたらその記念に何か建てる民族性があるんですね。
さて、荒川土手に戻ってきました。やはり荒川が見えます。下流域を抜けて、特に埼玉県に入ってからはほぼ見えなかった荒川ですが、土手の上から眺められるようになりました。熊谷は荒川にとって大きなターニングポイントですね。
土手沿いの公園にSLが展示してあるのですが、そもそもそんなに鉄っぽい趣向が無く、しかも業者さんが一生懸命掃除をされていたので、素通りいたしました。このD51は昭和13年から45年まで活躍したのだそうです。
荒川 百所巡礼 第139番 川守地蔵
土手沿いに川守地蔵と名付けられたお地蔵様がいらっしゃいました。お供えの花の他に花壇があって素敵ですね。このあたりの河川敷は熊谷荒川緑地公園となっていて、様々なスポーツのグラウンドや広場があり、市民の憩いの場として活用されています。また、桜の季節にはすごい景観になるそうですから、ぜひ訪れてみてください。
荒川大橋が架かっています。せっかく土手から荒川が見えているので、近くまで行ってみましょう。
川底にコンクリートブロックが見えます。こんな風に川の流れを制御して土手を守っているのです。荒川の様子ですが、やはり少し上流の雰囲気が出てきましたね。これまでに比べると水深が浅くて、何となくゴツゴツした感じがします。
土手はまだまだ続きます。菜の花が群生していてきれいですね。荒川はしばらく並走してきたJRの路線とこのあたりでお別れし、秩父方面へ伸びていきます。いつ、どこにゴールするのか、まったくわからないで歩いている自分を少しおかしく思うと同時に、その時にはちゃんとしたオチが付くのかと心配でもあります。
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