金王八幡宮 目次
名称・旧社格
創建
寛治6年(1092年)に、河崎基家(渋谷重家)によって創建されました。
御祭神
みどころ
渋谷駅にほど近い立地で、木々に囲まれた神域を感じられる境内です。神楽殿の前にベンチがありますので、静かに時間を過ごすことができます。
アクセス
東京都渋谷区渋谷3-5-12
JR山手線「渋谷」徒歩5分
探訪レポート
渋谷駅から徒歩圏内、金王八幡宮へ行ってまいりました。国道246号線から1本入った立地で、オフィスビルに囲まれています。八幡通りの方が正面入口で、大きな一之鳥居があります。ケヤキ並木の道路を抜けたところに境内への入口があります。
階段を上がっていくと、右側に明治38年の戦没記念碑がありました。この石碑の題字は乃木希典陸軍大将で、15年、20年、25年、30年の記念碑が周囲に建っていることから、凱旋軍人の集いがあったことがわかるそうです。
朱色が目に映える神門です。神門は明和6年(1769年)に、それ以前は門が無く不用心であったことから、建設された記録があるそうです。現在の神門は享和元年(1801年)に造られたものとのことです。江戸初期の建築様式を現在に留めるものとして、渋谷区の文化財に指定されています。門と塀が一体化していて、この内側が神域であることがわかりやすいです。
境内に入ると左手に手水舎があります。読めないのですが「濯漱盤」と書かれています。手や口を洗い清めるところという意味ですね。竹の筒からちょろちょろと水が流れるパターンです。渋谷らしく、柱に英語で神道の解説が書かれた紙が貼ってありました。
このご神木はすごいですね。立っているのが不思議なくらいな幹ですが、それでも元気に葉を茂らせています。
金王八幡宮には程よい数の境内社があって、気が弛むことなくお参りできます。どれも境内社としてはかなり立派な造りです。こちらは御岳神社です。武州御岳神社を本社とすると書かれていて、ご祭神に櫛真知命(くしまちのみこと)を祀っていることから、武蔵御岳神社の分霊を祀っているのだと思います。そもそも渋谷氏の居城でもあったので、武の神様でもある日本武尊への信仰のためにここに祀られたそうです。
朱の鳥居は玉造稲荷神社です。宇賀御霊命を祀っています。江戸期の渋谷は、稲作や茶畑の農家が多く、国道246号線は大山道として町屋が並び、商売も盛んでした。そんな近隣庶民の拠り所として建立されたそうです。
神楽殿です。大正15年(1926年)の建立です。神楽殿は神門や拝殿(社殿)とは違って、朱色ではなく生成りの建物です。9月の例祭では里神楽が演奏されるそうです。金王八幡宮の氏子地域は結構広くて、青山や西麻布から神山町あたりまであります。この例祭では渋谷109の前を中心に渋谷の街を通行止めにして、各町会神輿の連合渡御が盛大に行われるので、知らずに出くわすとびっくりすると思います。
こちらは金王丸御影堂といいまして、他の境内社とは一線を画す感じで奥まったところに鎮座しています。こちらはこの金王八幡宮のオリジナルのもので、渋谷金王丸常光をご祭神として祀っています。平安末期、当社を創建した渋谷重家に子が無く、夫婦で八幡宮に祈願したところ、金剛夜叉明王が妻の胎内に宿る霊夢を見て、男子を授かりました。そこで金剛夜叉明王の最初と最後の字を取って金王丸と名付けられました。金王丸は源義朝に仕えて、保元の乱・平治の乱で活躍しました。その後出家して土佐坊昌俊と称して、義朝の御霊を弔いました。義朝の子である頼朝とも親交が深く鎌倉幕府に尽力し、義経討伐の命を受け、義経の館に討ち入りました。
5月だったので、境内に鯉のぼりが飾られていました。金王丸=昌俊は頼朝の命で、義経討伐に出発したものの、義朝の子である義経を討つ気は全くなかったそうです。そして捕らえられて最期を遂げます。勇猛だった金王丸=昌俊の名は平治物語、吾妻鏡、平家物語などの作品に登場します。その名声により、金王八幡宮と称するようになりました。
それでは拝殿に向かいます。八幡宮なので、応神天皇を祀っています。金王八幡宮の歴史は、当サイトの企画で巡礼しました「平将門」一族の祖(将門の祖父)である平高望の末裔の平武基から始まります。平武基が長元の乱(1028-1031年:源頼信の反乱)を平定した功により賜った八流の旗のうち、「日」と「月」のふたつを秩父の妙見山(武甲山)に納めて、八幡宮として崇め奉りました。武基の子武綱と、武綱の子重家は後三年の役(1083-1087年)で源義家の軍として活躍します。その功により重家は河崎基家の名を賜り、源義家は基家を加護する八幡神を乞い求め、日月の旗のうち月旗をご神体として、当地に石清水八幡宮から勧請した八幡神を祀りました。これが創建の由緒となっています。ジャイアンがのび太に「いい八幡神持ってるじゃねえか、よこせっ」と旗を取りあげたのですね。
伝説上の動物などの彫刻が極彩色であしらわれていて、拝殿は荘厳な風格を感じます。この社殿は権現造で、江戸時代の様相を現在に残しています。徳川3代家光がまだ子供の頃は家光の弟の国松の方が3代将軍に相応しいと囁かれていたそうです。そこで、家光の母春日局が、当社に祈願したところ、家光の三代目が確定したのでその報恩に春日局と世話役だった青山忠俊が社殿を寄贈したそうです。
ジャイアンに旗を取りあげられ、創建の主となった渋谷重家はここを居城とし、渋谷の地名の由縁ともなります。境内には渋谷城の石垣の一部が安置されています。重家の子が、金王丸=渋谷昌俊なのですが、社殿によりますと、昌俊の死後、昌俊の子高重が父の遺品を受け取りに京都の鞍馬寺に行くと、甲冑馬上の八幡像があったそうです。由来を尋ねると、弘法大師が宇佐八幡宮を訪れた際に、「この像を東国に安置し、国家泰平を守るべきであるが、良い縁がないので、鞍馬寺に安置しておけ」というご神託を受けたそうです。そんな訳で鞍馬寺にあった八幡像を、高重が「その良いご縁って、ウチのことです」と渋谷に持ち帰ったそうです。日月旗を取られて八幡像を取る渋谷家親子三代に渡る物々交換が歴史に刻まれています。
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