5月にレポートした九品仏浄真寺の「おめんかぶり」という行事は、西方極楽浄土から阿弥陀様がお迎えに来て、極楽浄土に導かれていくというストーリーを具現化したき゚ものです。
浄土信仰
仏教がインド→中国→日本と伝わる過程で、その土地や時代の影響を受けて、新たな解釈や教義が付け加えられていきました。インドでは紀元100年頃に「無量寿経」「阿弥陀経」という浄土信仰の基となる経典が成立しています。簡単に言うと「阿弥陀如来が西方極楽浄土に導いてくれる」という信仰です。浄土信仰はインドよりも中国、日本で大いに受け入れられ、大乗仏教のひとつとして発展します。日本には仏教伝来まもなくの6世紀後半~7世紀前半には浄土信仰が入ってきています。「浄土」というのは「仏国土」を意味し、6つの世界(天・人間・修羅・地獄・餓鬼・畜生)を輪廻転生することから解脱した仏の住まう世界です。浄土にもいくつかあるのですが、現代の解釈では、阿弥陀如来が住まう西方浄土に往生(往きて生まれる)するという信仰が、阿弥陀信仰=浄土信仰とされています。
日本での浄土信仰の広がり
日本に入ってきた浄土信仰は、奈良時代から徐々に広がりを見せます。平安時代には東大寺(華厳宗)や比叡山(天台宗)など、奈良仏教や平安仏教の僧たちによってに浄土信仰が受け入れられ、深め広められていきました。日本の仏教史に最頻出の慈覚大師円仁(第3代天台座主)は、天台宗と浄土信仰を融合した念仏行を実践しています。元三大師良源(第18代天台座主)の弟子の恵心僧都(源信)が記した「往生要集」は、阿弥陀如来の導きによって極楽浄土に往生するための具体的な方法を記した書で、庶民まで浄土信仰が広まるきっかけとなるものでした。恵心僧都自身も臨終の際に、阿弥陀如来像の手に結び付けた糸を手にして、合掌しながら亡くなったそうです。
「南無阿弥陀仏」と唱えることを「念仏」と呼びます。「南無」とは帰依すること、つまり心から自分自身をお任せするということです。天台宗だけでなく、同じ平安仏教の真言宗でも阿弥陀如来が信仰されていますが、真言宗では「南無阿弥陀仏」ではなく、「オン アミリタ テイセイ カラウン」と真言で唱えるのが基本となっています。
浄土宗
鎌倉時代になると、浄土信仰こそ仏教の最重要部分だという考えのもと、浄土宗が誕生します。比叡山で学んだ法然が、南無阿弥陀仏念仏と唱えれば、極楽浄土に往生できると説きました。阿弥陀如来が悟りを開く前の宝蔵菩薩だった時に、衆生を救うためにに四十八の誓願を発願します。叶わなければ成仏しないと修行し、それらを成就して如来になったという説があります。四十八願のうち十八番目が本願とされていて、阿弥陀様を信じて極楽浄土へ往生するために「南無阿弥陀仏」と10回唱える人は誰であろうと救うという誓願です。宝蔵菩薩が成仏(菩薩→如来)して阿弥陀如来になっているということは、この18番目の誓願も叶えたということです。「できなきゃ如来にならないって言ったよね?」と、論破王みたいな手口ですが、そういう訳で南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土に往生できると法然は解きました。阿弥陀如来の立像が前方に傾けて造られているのも、阿弥陀様が衆生を救いたいあまり、前のめりになっている様子を表現しているとのこと。
阿弥陀堂(目黒区 浄土宗 祐天寺)
浄土真宗
浄土信仰の宗派で浄土宗よりももっと阿弥陀信仰が強いのが浄土真宗です。法然の弟子である親鸞を宗祖とする宗派です。浄土真宗では仏は阿弥陀如来のみで、阿弥陀如来の力は普遍的で他の何かの作用を受けないというような考えです。ですので、戒律もありませんし、戒名を授けることもありません。僧も衆生も(善人も悪人も)皆救うのが阿弥陀如来なので、僧が加持祈祷などを行うことはありません。衆生も自分から何かしなくても構いません。阿弥陀如来の本願によって救済されることが約束されている(他力本願)ので、南無阿弥陀仏と念ずるだけで良いのです。自分では何もしなくても誰でも救われると言うと、ゆるい感じに聞こえますが、浄土真宗は激しい歴史を辿っていて、分派も数多くあります。本願寺八世の蓮如が講を作って信仰を広めたことで、浄土真宗は広く民衆の間に伝わり、各地で一向一揆を起こしたり。戦国時代には大名級の勢力を持ったりしていました。
東京の阿弥陀如来像
おそらく関東で一番有名な阿弥陀如来像は鎌倉の大仏だと思います。東京ですと文化財クラスの阿弥陀如来像は、上野の東京国立博物館に行くと拝観することができます。
神社に国の重要文化財に指定されている阿弥陀如来像が安置されていて、珍しいので選出しました。普段は見ることができませんが、2023年に4年ぶりに一般公開されました。如来像の背中にはたくさんの文字が刻まれていて、慶長2年(1250年)に鋳造され、真慈悲寺に納めたと記されています。八幡神社付近に中世の瓦が大量に出土していることから、真慈悲寺という寺院があったことが有力視されています。真慈悲寺は「吾妻鏡」によると、源頼朝が1192年に行った後白河法皇の法要に、浅草寺と同数の僧侶を送ったと記録されていることから、かなり有力な寺院だったと思われます。ところが、室町時代には姿を消しているという幻の寺院なのだそうです。
増上寺 黒本尊(港区)
徳川家の菩提寺で、現代でも浄土宗の大本山である増上寺です。こちら( ↑ )は戦災で焼失した大殿の仮本堂として使用していたお堂を、大殿完成後に遷したもので、安国殿と称します。安国殿の本尊としてご安置されているのが、徳川家康の念持仏とされている阿弥陀如来像で、いわゆる「黒本尊」と呼ばれている仏像です。恵心僧都の作と伝えられています。戦国時代を終結させ、太平の世に導いた家康が戦地にまで持ち込んだと伝えられている阿弥陀如来像ですから、多くの方々の崇敬を集めています。秘仏ですが年に数度御開帳されています。また、安国殿には御前立ての阿弥陀如来像の他、徳川家康の肖像画と、国民的人気の皇女和宮の等身大の御像が祀られています。
浄真寺 九品の阿弥陀如来座像(世田谷区)
末法思想の時代に、阿弥陀如来の本願による救済しかないという浄土信仰が隆盛を極め、阿弥陀如来像が多く造られました。その中でも往生する者の信仰の深さや機根の高さに応じて、往生の仕方に9種類の区別をつけ、それぞれに応じた9体の阿弥陀如来像を建立するということが行われました。九品仏浄真寺の9体の阿弥陀如来は、まさにその思想を受け継いで寛文7年(1667年)に建立されたものです。高さは丈六(約2m80cm)で9体の阿弥陀如来はそれぞれ違う印相をしています。東京都の文化財に指定されており、現在は20年がかりの修繕事業の真っ只中です。
末法思想と浄土信仰
末法思想を超簡単に解説すると、仏教が正しく社会に効力を発揮して、悟りを得るものが現れる時代を正法の時代とします。それに対して、堕落して仏教が社会に効力を発揮しない時代を末法とする考え方です。「正法」の次には形だけの「像法」が来て、その後「末法」の世となるという思想です。この末法思想もインド→中国→日本と伝わってきたもので、伝わる過程で解釈が加えられ独自発展しています。
日本では末法の始まりが永承7年(1052年)とされて、人々に恐れられていました。そして鎌倉時代に入ると、末法の世でも阿弥陀如来の導きによってのみ往生できると説いた浄土宗や、阿弥陀如来の導きは正法も像法も末法も関係なく普遍であると説いた浄土真宗や、法華経によってのみ救済されると説いた日蓮宗など、新しい鎌倉仏教が登場することとなったのです。
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