浄土宗 金戒光明寺 目次
名称・寺格
紫雲山 金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)と称する浄土宗寺院です。寺格は大本山です。また浄土宗の京都四箇本山のひとつでもあります。
創建
承安5年(1175年)に、法然によって創建されました。
本尊
みどころ
歴史の長さを感じる境内です。紅葉の時期には色づいた木々との調和が見事です。浄土宗の七大本山のひとつに数えられる大寺院で、ゆっくりと流れる時間を過ごせます。秋に特別拝観の期間が設けられ、紅く色づく境内と、御影堂や大方丈や山門の楼上などで貴重な仏像や庭園などを楽しめます。
アクセス
探訪レポート
金戒光明寺の入口となるこちらは高麗門と呼ばれています。右の表札には「大本山金戒光明寺」、左の表札には「奥州会津藩松平肥後守様 京都守護職本陣 旧跡」と書かれています。幕末の京都は体制を覆すような動きがあちこちに見られて、非常に治安が悪かったのです。そこで幕府が京都の治安を守るために京都守護職という役職を、この金戒光明寺に設けました。なぜ金戒光明寺に置いたかと言いますと、そもそも徳川幕府は金戒光明寺を有事の際に砦として活用するつもりだったのです。御所や要所にアクセスが良く、京都が見渡せる小高い丘にある金戒光明寺を、最初から要塞のように造営していたのです。
ド迫力の山門はかなりの大きさです。11月半ばからの秋の特別拝観期には、楼上に上がって拝観することができます。楼上には釈迦三尊像などがご安置されています。また、楼上から眺める景色は広く京の街を見渡せ、なぜ金戒光明寺が京都守護職の本陣に選ばれたのかがわかります。
山門は万延元年(1960年)の建立です。大江健三郎の小説に「万延元年のフットボール」というものがありますが、大政奉還が1867年、明治元年が1868年ですから、もう江戸の最晩期にあたります。この年は実は桜田門外の変が江戸で起こり、徳川幕府が終焉に向かい新時代がやってくる象徴的な年なのです。そんなときに、この巨大な門が京の治安を守る京都守護職本陣に建てられたのですね。山門の扁額には「浄土真宗最初門」と書かれています。これは真の浄土宗の最初の寺院を意味しているそうです。比叡山の黒谷で修行をしていた法然が、比叡山を下りて最初に庵を結んだ地がここなのだそうです。
山門を抜けて左手に、勢至丸像がありました。勢至丸は法然の幼名で、勢至菩薩にあやかって名付けられたのだそうです。法然は岡山県の美作の出身で、押領使の家に生まれたそうです。押領使は治安維持のための警察のような職で、地方の土地の武士(豪族)が任命される職です。とにかく頭の良い子で、父親が亡くなったことがきっかけで、比叡山に移ることになったそうです。
山門を抜けて階段を上がると鐘楼堂がありました。屋根がたくさん見えますが、それぞれが金戒光明寺の塔頭寺院です。境内には18の塔頭寺院があるそうです。
境内は広々としていて、これも金戒光明寺が京都守護職本陣に選ばれた理由です。正面に見えるのが御影堂です。御影堂の右側に大きな石碑があって、「元祖法然上人 八百年大遠忌法要記念」と刻まれています。元祖法然上人という意味は分からなくもないが、言葉のチョイスが少し変です。元祖というと、たい焼きとかラーメンのお店を想像してしまいます。おそらくは、法然上人ゆかりの寺院の中でも金戒光明寺が最初なんですよという意味なのだと思います。
鐘楼堂の反対側にあるのは納骨堂です。こちらは旧経蔵なのだそうですが、納骨堂が収容限界となり、経蔵を納骨堂に改装したのだそうです。この納骨堂の本尊は、骨仏なのだそうです。旧納骨堂に納められた一万人分のお骨を使用して阿弥陀如来座像を造ったのだそうです。
そしてこちらが新経蔵です。デザインが全く違いますね。
その前に阿弥陀堂がありました。阿弥陀堂は境内の中で最も古い建築物で、慶長10年(1605年)に豊臣秀頼の命で再建されています。天台宗の恵心僧都源信はあの慈恵大師良源(元三大師)の弟子で、日本の浄土教の祖とされる高僧ですが、その恵心僧都作の阿弥陀如来像がご安置されています。恵心僧都最後の彫刻とされており、阿弥陀如来の体内に恵心僧都のノミが納められています。「おとめの如来」「ノミ納め如来」と呼ばれているそうです。天台僧である恵心僧都の1000年遠忌は浄土宗の総本山知恩院と、浄土真宗本願寺派の総本山西本願寺で行われたのですが、その導師を務めたのが比叡山延暦寺の天台座主なのだそうです。恵心僧都がどれだけ後世に影響を及ぼしたのかがわかりますね。
こちらは御影堂です。とにかく大きいです。御影(みえい)堂と呼ばれるお堂には如来や菩薩ではなく、僧が中心にご安置されています。金戒光明寺ですと宗祖法然です。鏡の御影と称される法然の肖像画で、年に一度だけ、4月の遠忌法要の日に御開帳されています。左側には日本一と称される獅子に乗った文殊菩薩がご安置されています。この文殊菩薩は日本三文殊の中の随一とされていて、通称中山文殊と呼ばれています。
手前から新清和殿、清和殿、寺務所という並びです。お勤めの僧侶の方々のスペースです。裏側に浄土宗教師修練道場、食堂、紫雲文庫と並び、奥に紫雲の庭という日本庭園があります。
こちらは大方丈です。金戒光明寺は京都守護職本陣ですから、その任を受けた会津藩主松平容保へ謁見するための部屋があります。幕末の志士として有名な新撰組も最初は京都守護職預かりの身分でしたから、近藤勇や芹沢鴨も松平容保に謁見するためにここに通いました。特別公開の時期に訪れると、中を拝観することができます。
さて、時代が変わって平安時代のお話です。「平家物語」に描かれる源平合戦の終段で、熊谷直実が17歳の少年であった平敦盛を討つ場面があります。その後熊谷直実は出家を希望し、ここに法然を訪れて帰依します。その際に鎧を洗いこの松に掛けたことから、「鎧かけの松」と呼ばれています。現在の松は三代目になるそうです。
この白壁の通りは、北門からの通路です。両側に塔頭寺院が並んでいます。境内のはずれに当たる場所ですが、ここだけでも味がありますね。
こちらが熊谷直実が鎧を洗った蓮池です。鎧の池、兜の池と呼ばれているそうです。池のすぐ近くに塔頭寺院の蓮池院がありますが、蓮池院熊谷堂と呼ばれており、熊谷直実が開基した寺院となっています。
その池にかかる極楽橋という橋です。石造りの橋が架けられる前には、春日局によって木造の橋が架けられていたそうです。会津墓地参道とあります。松平容保率いる会津藩は、京都守護職の要請を何度も断ったそうです。既に時代の流れは抗いようもない状態で、それでも徳川本家と共に死ぬ道を選んだ会津藩士たちの墓地が境内の奥にあります。ちなみに松平容保は、幽閉されたりあちこちに遷されたりしながら幕末を生き延びて、日光東照宮の宮司にもなって明治時代を生き抜きました。ちなみに現在も徳川宗家の方がたまにマスコミに取り上げられていますが、現在の徳川宗家は会津松平家、つまり松平容保の末裔です。
実はこの階段でそこそこ大きな蛇に遭遇して、慌ててしまい撮り忘れたのか消してしまったのか写真が見当たらないのですが、この( ↑ )写真の中央の石仏の右後ろに、体半分だけ写っているのが有名な五劫思惟阿弥陀仏です。アフロヘアで有名になりました。実物を初めて見ましたが、やはり異様な感じです。五劫というのは時間の長さを表しています。簡単に言うと無限に近い長時間です。思惟は思い浮かべながら深く考えることです。阿弥陀如来がまだ宝蔵菩薩だった頃、衆生救済のための極楽浄土を思い浮かべながら、五劫も考えていたら、螺髪が伸び伸びになってしまったという姿です。ぜひ実物をご覧ください。
墓地が一ヶ所ではなく、所々にあります。そこに様々な石仏や石碑があるのですが、どれも経年劣化していて、良い味が出ています。
こちらは境内の少し高い場所にある法然上人の御廟です。御廟というのは、御霊廟とも言って、御霊(みたま)を祀っている場所とか、お墓とかを表します。法然のような宗祖となった人の御廟は複数存在するのが世の常なので、そのうちのひとつということになります。左側手前の石塔は平敦盛の供養塔です。法然上人御廟を正面にして、対になる形で右側手前には熊谷直実の供養塔が建てられています。
更に高い場所に上がっていくと、三重塔がありました。こちらは徳川二代将軍秀忠を供養するために、寛永10年(1633年)に建てられたものです。応仁の乱で廃寺になった中山法幢寺の本尊だった中山文殊(文殊菩薩像)をご安置していましたが、現在は御影堂に遷されています。扁額には「日本三文殊随一」と書かれています。
墓地の中には徳川家の方々の供養塔が建立されています。春日局(徳川家光の乳母)や崇源院(徳川秀忠の室・家光の生母)の供養塔がありました。
たくさんある塔頭寺院のひとつをご紹介すると、こちらが熊谷堂こと蓮池院です。このような建物が境内にたくさんあります。徳川家はそもそも浄土宗の門徒で、代々浄土宗寺院と密接な関係にあり、総本山の知恩院や江戸の増上寺など、徳川家の庇護を受けて多くの浄土宗寺院が隆盛を極めました。金戒光明寺はその象徴的な寺院で、徳川幕府の滅亡への道も、徳川家と共に歩みました。境内を歩いているだけでそんな歴史の移ろいを感じて、その大きさに心打たれます。
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