寺社探訪

寺社探訪とコラム

「荒川 百所巡礼 30」

秩父市の賑やかなエリアは過ぎ去り、ほぼ観光客のいないエリアを進みます。南に向かって進んでいましたが、荒川が西に向かって折れ、道路や集落も荒川に沿って西に向かいます。

 

枝垂れ桜とお犬様

荒川 百所巡礼 第240番 清雲寺

裏口からお邪魔しました。岩松山清雲禅寺と書かれていますので、禅寺なんだとわかりますね。清雲寺は、臨済宗建長寺派の寺院で、幕末の慶応4年(1868年)に起こった清雲寺事件の舞台となっています。この事件は当時の日本のどこにでも起こるようなお話で、攘夷派と幕府派の争いがあり、交刃乱闘の末、右大臣藤原家信の嫡子、大炊御門尊正が殺害されました。尊正の墓が、本堂の裏手にあるそうです。

やはり横に長くて大きな本堂です。臨済宗の寺院の本堂の特徴ですが、その理由がわからないので今度どなたかに聞いてみたいと思います。本尊は恵心僧都源信作の地蔵菩薩坐像とのこと。

裏口から入ったので、本来の正面に向かって逆行していきます。小さいですが歴史のありそうな門に、相田みつをさんのような言葉が書かれた額が掲げられていました。なんと書いてあったかまで覚えていませんが、相田みつを的なことが書かれてあったと思います。

清雲寺は兎にも角にも枝垂れ桜というのが、世の中全般的な評価です。広角で撮影していますが、すごい数の枝垂れ桜で、これ満開の頃に訪れたら凄いでしょうね。30本ほどあるそうです。

 

荒川 百所巡礼 第241番 若御子神

清雲寺と若御子神社は境界が曖昧ですが、この庚申塔などの石碑は若御子神社の境内のようです。清雲寺の創建が応永30年(1423年)で、若御子神社は奈良時代天平年間(730年代)とのことですから、若御子神社は倍以上の歴史があります。

そもそもは神社の裏側の若御子山の山頂に祠を建てたことから始まるそうですが、この若御子山という名称は若御子神社から命名されていて、若御子神社の名称は、お祀りしている主祭神である若御毛沼命(わかみけぬのみこと=神日本磐余彦尊神武天皇)から命名されています。

秩父らしく、眷属はお犬様(狼)です。若御子神社の例大祭では、お犬様(狼)信仰の神様である大口真神を貸し出ししているのだそうです。1年間自宅の神棚にお祀りすると、災難除けになるとのことです。玄関に大口真神のお札が貼られているのは見かけることがありますが、貸し出すとはどういうことなんでしょうか。

階段を登って奥へ奥へと上がっていく感じです。

階段を上がった上に社殿がありました。主祭神神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)こと神武天皇です。他に菅原道真少彦名命がお祀りされているそうです。ほぼ共通点のない御祭神ですが、それだけに幅広いジャンルを網羅できます。

境内から若御子山の方へ登ると若御子断層洞や奥宮などがあります。何やら不穏な看板があり、最初から登る気がなかったことの言い訳にすることにしました。仕方ありません。

参道を歩いていると、清雲寺の枝垂れ桜のポスターがありました。夜のライトアップもしているようです。アクセスが大変ですが、元が取れるというか、大変さを上回る価値があるでしょうね。

一之鳥居も眷属はお犬様です。

正面から入るとこんな感じです。裏口から入って正面から出るというのが続きましたが、清雲寺も若御子神社も、広い境内の寺社でした。周辺地域の皆さんでこの寺社を支えて行くのは大変だろうなと、余計な心配をしてしまいました。

 

どすこい

荒川 百所巡礼 第242番 千手観音堂

このブルーシートを掛けている場所は、見るからに土俵ですよね。しかしなぜ観音堂の前に土俵が? この観音堂は天文2年(1533年)の棟札があるそうで、そのあたりの創建と見られます。現在のお堂は明治8年に再建されたものです、千手観音像は立像が多いのですが、こちらの千手観音は坐像です。

相撲ですが、ここで辻相撲(素人相撲)が行われていたそうです。江戸時代の相撲は喧嘩や風紀の乱れを抑えるために、国や責任者(年寄り)が厳しく管理していました。この観音堂の辻相撲は、花籠部屋の許可を得た辻相撲だったそうで、関東三大辻相撲のひとつだったそうです。現在でも毎年8月16日に相撲が奉納されています。天井絵を見ていて、「どすこいってどういう意味だろうか?」と疑問が湧き、その場で検索して調べてしまいました。

 

荒川 百所巡礼 第243番 地蔵菩薩

武州中川駅近くのJAちちぶ荒川支店の隣に、お地蔵様がいらっしゃいました。

 

荒川 百所巡礼 第244番 薬師堂

そこから秩父往還をさらに進んでいくと、薬師堂がありました。この薬師堂は三峰口駅近くの常明寺という寺院の管理だったようです。常明寺の三世に即道という僧侶がおり、修行と苦行で超人的な体力を養い、江戸まで即日で行けるほどの豪脚だったそうです。ある時、即道が薬師像を紛失してしまいました、気づいた村人たちが騒ぎ出し、即道は1ヶ月山に籠もって薬師如来坐像を完成させました。すると村人たちから「立像だったよな?」と声が上がり、2mを超える薬師如来立像をひと晩で彫ったのだそうです。超人ですね。

お堂の横には小さな境内社と石碑がありました。私は通りませんでしたが、この国道140号線を戻り、武州中川駅を越えたあたりの民家の敷地内に薬師堂があり、そちらには即道が間違えて造ってしまった薬師如来坐像がご安置されています。座像も立像もどちらも仲良く秩父市文化財に指定されています。

国道140号線を荒川に沿って進みます。気持ちの良いお天気で、何もなくても楽しく歩けます。この道は秩父往還だったり彩甲斐街道だったりします。区別の境界線は私にはよくわかりません。秩父市は広いですね。おそらく私の荒川百所巡礼では秩父市が最後の市区町村ですが、秩父市に入ったのはずいぶん前の記憶です。これは新発見かもと調べてみると、秩父市は全国の広い市町村ランキング110位だそうです。微妙……。

安谷橋の上を歩いていると、隣には旧安谷橋がかかっていて、その奥に秩父鉄道の橋も見えます。風光明媚ですなぁと撮影しました。これらの橋は荒川の支流の安谷川に架かっています。以前訪れた旧秩父橋と同様に、旧安谷橋は歩道専用になっています。ここから少し見上げる鉄橋を秩父鉄道のSLが通る様子が、撮り鉄さんたちの絶好の撮影ポイントなのだそうです。

 

荒川 百所巡礼 第245番 弟冨士浅間神社

昌泰3年の創建とのこと。説明板では昌泰3年(893年)となっていたり昌泰3年(898年)となっていますが昌泰3年は900年です。まぁ、そのあたりなのでしょう。筑紫の国造(くにのみやつこ)の末裔の石井大乗陸則という方が、富士山に33回登山して、富士浅間大社から分霊をいただく許可を得て、子孫の石井道次という方が村内の別の山に創建したそうです。

この日は使用できませんでしたが手水舎もあり、注連縄に紙垂が付いています。行き届いている神社の印象を受けました。弟冨士という名称は、神社を送検した道次の夢に、ご祭神である此花咲夜姫命(このはなさくやひめのみこと)が現れて、「この山ではない」と告げられたそうです。すると、とある山に季節外れの雪が降り、そのことを富士浅間大社に報告すると「そこだぁ!」となったそうです。そりゃそうですよね。

という訳でその山は「弟冨士」と命名することを許され、山頂に此花咲夜姫命が祀られたという訳です。山頂は女人禁制だったので、里宮が建立され、現在も奥宮と里宮があります。今訪問しているのは里宮です。

楽殿も手入れされている様子が伺えます。弟富士浅間神社は、Youtubeチャンネルを運営していて、境内の様子や儀礼の様子を動画で見ることができます。


www.youtube.com

少人数で簡略化した儀礼なのでしょうが、地域の人々が協力して大切な伝統を守っている様子が伺えて感動します。64回しか視聴されてなくて勿体ないです。

 

荒川 百所巡礼 第246番 風穴稲荷社

隣に秩父鉄道の線路、そして武州日野駅のホームがある凄い立地ですが、朱塗りの鳥居が並んでいますので稲荷神社があるはずです。手前の鳥居からくぐって歩いていると、最後の鳥居に天然のネット(巨大な蜘蛛の巣)が貼ってあり、トラップに引っかかる所でした。嚙まれても死にはしないでしょうが、体調崩しそうな巨大な蜘蛛が待ち構えていました。

右の案内板は何が書かれているのかわかりませんでした。名称から察するに、この付近に風穴があるのかあったのか、またはどこかの風穴付近の稲荷神社のご祭神を分霊したのか、だと思います。考察するに、弟冨士浅間神社の近くにあるので、富士山の富岳風穴のことなのではないかと思います。

狭い歩道を進みます。国道なので大型の車が通ってちょっと怖いです。運転されているドライバーさんも怖いなぁと思いながら運転していると思われます。今回も荒川の渓谷美がありませんでした。荒川に沿って歩いてはいるのですけど……。

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