東山の観光名所エリアを離れて、松原橋を渡りました。東山区から下京区に入ります。全行程のどのあたりを歩いているのかもわかりませんが、私なりの京都大廻りなので気楽に進んでいきたいと思います。
松原通は四条と五条の間を東西に通っています。京都の中心地は四条烏丸~四条河原町あたりだと思いますので、中心地から少しだけ離れた通りを歩いている感じです。この辺りを歩いていて、建物の高さは違いますが、東京浅草の稲荷町や田原町付近に雰囲気が似ていると思いました。
真言宗智山派 因幡薬師(平等寺)
因幡国は鳥取県ですが、この寺院の縁起は結構面白いです。平安時代に橘行平という貴族が、天皇の命で因幡国一宮の宇倍神社を参拝した帰り道に病気にかかりました。その時に夢に僧が登場し、仏の国から流れてきた海に漂う木を引き上げろというお告げがありました。引き上げてみるとそれは薬師像で、行平の病気は快癒し、行平は因幡氏の氏寺である座光寺に薬師像を安置して京に戻ります。すると、行平を訪ねてその薬師像が京までやってきたので、薬師堂を建ててご安置した。というお話です。家人にお客様が来たと言われて西門を開けたら薬師如来が立っていたなんて、行平も心臓が飛び出るほど驚いたでしょうね。
創建は長保5年(1003年)です。寺院の成り立ちに、そもそも仏像を安置するためにお堂を建てて、それが信仰を集め、寺院に発展していくパターンが結構あるのですが、こちらも因幡薬師堂から平等寺に発展しました。本堂の前で近所のおばさん的な方々が授与品などを販売していて、活気があって元気をいただけます。
狭い境内ですが境内社も多く、閻魔大王もいらっしゃいました。きちんと花が供えられています。
四条通までやってきました。ちょっと立ち寄りたいところがあり、また寄り道です。高い建物が少ない京都の町ですが、さすがに四条通は都会で京都らしさはありません。
それでもひとつ角を曲がればこの雰囲気です。目指す寄り道先はすぐそこです。
京都神田神社
当ブログで「将門の魔方陣巡礼」という企画をしたのですが、日本の神社には天皇の系譜をお祀りするところが多くあります。天照大御神を祀る神明宮や応神天皇を祀る八幡宮、明治神宮もそうですね。そんな中、朝廷の敵として討伐された平将門を祀る神田神社が京都にもあると知って、ぜひ訪れたいと思っていたのです。将門は獄門という刑に処され、鴨川の河原に晒し首になりました。
五條天神宮
寄り道終了で、また松原通まで戻ってきました。こちらは五條天神宮です。天神と言っても、お祀りしているのは菅原道真ではなく、医薬の神として知られている少彦名命(すくなひこなのみこと)の方です。地の神である大国主命と共に国造りをしたエピソードが有名ですが、少彦名命は地の神(国津神)ではなく天の神(天津神)なので、天神と呼ばれています。
東京の上野公園に五條天神社がありますが、御祭神は同じく少彦名命と大己貴命です。平安京の建設と同時に、桓武天皇の命で建立された洛中最古の神社とのことです。五條というのは、昔は松葉通が五条だった箇所があるとのことです。やはり医薬の神として信仰を集めたそうです。
こちらは碁盤の目の縦の道、堀川通です。歩道も広い大通りです。松原通から右折して、今度は堀川通を北上します。
四条を越えて、三条を左折します。京都三条会商店街ですが、アーケードの商店街を見ることが無い生活を送っているので、なんだか懐かしい感じがします。
八坂神社又旅社
商店街の中に八坂神社の又旅社がありました。又旅社は、御旅所のようなものと思われます。寛政元年(1789年)の建立とのことですが、そもそもは貞観11年(869年)に、疫病退散を祈願して平安京の神泉苑に祇園社(八坂神社)の神輿を迎えて、祇園御霊会が行われたことに始まります。現代の祇園祭でも又旅社に3基の神輿を迎えて神饌を奉安しています。
そのために、祇園祭発祥の地とされているようです。八坂神社の境外末社ということで、重要文化財に指定されています。商店街の中の小さな御旅所なので、祇園祭のような大きなお祭りだと、この付近には近づけないでしょうね。
商店街を右折して、北へ向かいます。この通りには二条陣屋という個人宅を一般公開している家があります。予約が必要ですが、からくり屋敷のようになっているそうで、一度は訪れてみたいです。
東寺真言宗 神泉苑
真言宗の寺院とのことですが、入口には鳥居が建っていて、実際に苑内を拝観しても、寺院だか神社だかよくわかりません。神泉苑は平安京の内裏の南側に広大な敷地(二条から三条まで)を有する天皇や貴族のための庭園でした。先ほどの八坂神社又旅社のある場所も、神泉苑の敷地内だった訳です。
池には善女龍王が棲んでいるとされていて、東寺の弘法大師空海が雨乞いの祈祷をしたそうで、それ以来日照りが続くと、東寺による雨乞いが行われたそうです。ここは寺院ですが、善女龍王に対する信仰が中心のように思われます。
室町時代中期以降は荒廃して、江戸時代に徳川家康が二条城を築城し、敷地を大きく失います。それでも東寺直轄の寺院として復興されました。境内を歩いていて、東京江東区の亀戸天神社に似ていると感じました。まぁ、亀戸天神社は太宰府天満宮を模倣したものですが。
こちらは世界遺産の二条城です。チケット売場では外国人観光客が行列を成していました。日本の伝統的な城郭建築を見るのに、二条城は良いですね。
堀川通を北上して、上京区に入っていきます。このルートは京都大廻りのコースではなく、また寄り道をしようと思っています。
晴明神社
寄り道してやってきたのはここです。わかりますか? 鳥居があるので神社です。ヒントは扁額の☆マーク。ご存じの方も多いと思います。陰陽師として知られた安倍晴明を祀る晴明神社です。陰陽師というのは陰陽五行説に基づく陰陽道によって吉兆を占うことで、朝廷の方針決定に関与した技術職の官僚のような存在でした。
陰陽道は朝廷の中核に関わることなので、機密化していき、陰陽師が神格化されていきます。そうなると祈祷や呪術的な要素が増していき、安倍晴明はその中でもカリスマ陰陽師として活躍しました。創建は寛弘4年(1007年)ですから、1000年を超える歴史ある神社です。
こちらは式神だそうです。急に鳥山明監修みたいになっていますね。境内には晴明が起こした様々な伝説が説明されていました。式神の隣にある橋は、一条戻橋のミニチュア版の複製だそうです。昔から奇妙な伝説や残酷な話が多く伝わる橋です。安倍晴明が一条戻橋の下に式神や十二神将を隠していたという伝説があります。
晴明神社を後にして、西に向かって歩きます。もう京都の中心部からは離れてきました。それでも通りには京都らしい風景が見られますね。
今出川通に出ました。中央分離帯があり、4車線の大通りになっています。私の中では今出川と言えば同志社大学のイメージです。学生時代に友人が数名同志社大学にいて、彼らの部屋によく泊まりに行っていました。当時は寺社や伝統的な建物に興味は無かったのですが、御所の隣が大学ってすげぇと思った記憶があります。どこを気に入ったのか、あの頃から京都の街が好きで、夏休みに友人宅に連泊して京都でアルバイトもしていました。
北野天満宮
はい、北野天満宮に到着しました。神社には「他の神社に分霊を遷しても、元の神社のご祭神のご神徳は半減せずそのまま」というルールがあります。ですから、京都の神社には全国の神社に分霊している総本社になるような神社が結構あります。伏見稲荷神社や愛宕神社や松尾大社など。総本社ではないけれども、多くの神社に分霊を遷しているのがこちらの北野天満宮や石清水八幡宮など。北野天満宮は菅原道真を祀る神社です。
菅原道真は現代では学問の神として知られていますが、平安時代は怨霊の代名詞で、天変地異や不穏な出来事が起こると、菅原道真の怨霊が原因にされてしまっていました。朝廷は何とか怨霊を鎮めて平穏な日々を送ろうと、左遷したのを取り消して右大臣に復したり、神として神社に祀ったりしました。その神社が北野天満宮です。その後も左大臣→正一位太政大臣と二階級特進し、もしも道真が恨んでなかったとしても、「だったらなんで左遷した?」と聞きたくなるレベルの怖がり様です。
ちなみに、それでも明治維新の際には「北野神社」に改名を余儀なくされました。「宮」と名の付く神社は、天皇の祖先を主祭神としてお祀りしていなければならないというルールになったからです。昭和の戦後になって神社が宗教法人となって国の管理から外れると、そのような縛りは無くなったので、「北野天満宮」に戻りました。現在の社殿は慶長12年(1607年)に造立されたものです。本殿と拝殿が連結した権現造の社殿は、国宝に指定されています。広い境内にはたくさんの牛がいらっしゃいました。
さて、京都の街を左京区から南へ進み、東山区から西へ進み、下京区から北に進んできました。そしてここ北野天満宮(上京区)から東に向かい、左京区に戻ります。「京都大廻り」までもう少し。西に傾く太陽に焦りを感じつつ、頑張って歩きましょう。
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