寺社探訪

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真言宗智山派 智積院

真言宗智山派 智積院 目次

名称・寺格

五百佛山(いおぶさん) 根来寺 智積院と称します。真言宗智山派の総本山です。

創建

慶長6年(1601年)に、和歌山根来の真義真言宗の大伝法院の塔頭であった智積院を、関ケ原の合戦後に玄宥が京都に復興しました。

本尊

金剛界大日如来

みどころ

真言宗智山派の総本山です。整備された境内は視界が良く、観光客でごった返すということもなく、落ち着いてゆっくり散歩のような拝観ができます。国の名勝に指定されている庭園や、桃山時代の絵師長谷川等伯の襖絵(国宝)を見ることができます。

アクセス

京都市東山区東瓦町964

京阪本線「七条」徒歩7分

 

探訪レポート

冒頭の写真は智積院の総門です。観光で訪問する際にはこちら( ↑ )の広い入口から境内に入るのが良いです。写真右の大きな石碑に刻まれた文字は、智積院の第59世化主である秋山祐雅猊下の筆によるものです。この方は書家としても活躍された方で、当ブログでもレポートした東京日野市の高幡不動尊から晋山しています。当ブログのコラム「晩年の住職たち」でご紹介した当時95歳のご住職の師僧で、ご住職の法話にもたびたび名前が登場していました。

左側が宝物館、奥が宿坊の「智積院会館」です。智積院会館は一般の方でも宿泊できます。宿泊した翌朝は僧侶たちと一緒に朝のお勤めに参加したり、僧侶の案内で境内を拝観したりすることができます。お勤めと境内の案内の後には、智積院ならではの「根来汁」の朝食もいただくことができます。

境内は石畳で整備されているのですが、こちらは砂地の広場です。広場の中央に六角形の枠が敷かれています。こちらは柴灯大護摩を行うための広場です。当ブログでは、真言宗智山派大本山高尾山薬王院川崎大師平間寺の柴灯大護摩供をレポートしています。総本山智積院では6月に「青葉まつり」が開かれ、様々な行事と共に柴灯大護摩供と火渡り修行が行われています。

鐘楼堂です。平成10年(1998年)に建立されてもので、まだまだ新しいです。智山専門学校の同窓生の寄進なのだそうです。智山専門学校は智山派の僧侶育成機関ですが、現在は存在しておらず、大正大学に集約されていると思われます。

境内はこんな風に整備されています。お堂も比較的新しいものが多くて、東山の周囲の寺院に比べると歴史を感じることはありません。ただよく整備されていて視界が開けて気分爽快です。

こちらは明王殿です。この建物は「ねねの道」沿いにある大雲寺の本堂を譲渡されたものだそうです。そもそも智積院の本堂が明治15年に焼失します。方丈殿を仮本堂としていましたが、昭和22年(1947年)に火災で焼失してしまいます。その時に譲渡された大雲寺の本堂ですが、平成4年(1992年)に別の場所から現在の場所に移設され、不動明王を本尊とする明王殿(不動堂)として護摩行などを行っています。

周囲が綺麗に整備され過ぎていて、古い建築物が逆に浮いてしまう感じです。ただ、境内のすべてがこの風景の感じではなく、入り口から本堂までがこんな感じで整備されています。背後に比叡山から続く東山三十六峰の阿弥陀ヶ峰がありますので、森のような場所もあります。

本堂にあたる金堂です。昭和50年の建築です。明治15年の火災で焼失する前の金堂は、桂昌院(徳川5代綱吉の生母)の寄進を元に元禄14年(1701年)に建立されたものでした。桂昌院は非常に信仰心が篤くて、現在も日本に残る多くの寺院の歴史に名を残しています。金堂の本尊は大日如来です。

中央の扁額「智積院」も秋山祐雅猊下の筆です。真言宗の分派について少し解説いたしますと、空海が存命の頃は高野山金剛峯寺と東寺が本山級の寺院でした。空海嵯峨天皇から与えられた寺院で、空海の死後に金剛峯寺と東寺は分派しますが、どちらも古義真言宗と呼ばれています。比叡山でも高野山でも長く権力が集中する環境にあると腐敗したり対立したりしてしまうのが世の常です。

金堂前に仏足石がありました。平安時代後期に興教大師覚鑁(こうぎょうだいしかくばん)という僧侶が現れます。金剛峰寺の座主になった覚鑁高野山を改革しようとしますが、権力的対立のみならず、教義的な対立もあり、覚鑁派VS既存勢力の争いが勃発します。高野山内の勢力争いと言っても、覚鑁の命を狙って奇襲するレベルです。結局覚鑁派は辛くも逃れて根来に逃れ、そこで根来寺を成立させます。覚鑁の没後も覚鑁の弟子たち一派と金剛峰寺との確執は深く、根来寺を中心とした新義真言宗が成立しました。

金堂の横の緩やかな階段を、平安時代真言宗の動乱に思いを馳せながら上ります。結局豊臣秀吉の奇襲攻めで根来寺勢力は呆気無く破壊されてしまいます。この時京都に逃れた者たちが真言宗智山派の基となり、奈良に逃れた者たちが真言宗豊山派の基となりました。ちなみに秀吉は高野山も焼き討ちすべく10万の兵を仕向けたが、木食応其という僧が秀吉を説得して回避しています。この話は結構面白いので、いつかご紹介したいと思います。

さて、階段上には「永代 常光明真言」という石碑が立っています。供養塔があって、その向こうにお堂がひとつ。

このお堂は光明殿と称する納骨堂です。どのような方のお骨が埋蔵されているのかはわかりません。智積院の檀家さん用の墓地はもっと山側に上がったところにあります。

こちらは金堂の真裏に位置します。季節的にまったく見応えはありませんが、ここにはたくさんの紫陽花が植えられています。ちょうど柴灯大護摩供が行われる6月の「青葉まつり」に見頃を迎えるそうです。

金堂の裏側の紫陽花の庭の上には、学侶墓地があります。古そうな墓石が並んでいます。中央に階段があるので、この写真は左半分で、右側にも対照的に墓石が並んでいます。江戸時代に智積院で修行し、志半ばで亡くなられた僧侶を祀ったものです。そもそも興行大師覚鑁高野山の大伝法院を拠点にしていたからか、智山派というと教学というイメージです。江戸時代の智積院には宗派を問わず学僧が集い学ぶ環境があったそうです。

こちらは密厳堂です。寛文7年(1667年)に建立され、興行大師覚鑁の尊像をご安置しています。写真の下の方に見えていますが、この密厳堂のあるエリアは現在修行中の僧侶がいるために立ち入り禁止となって、柵で入口が封じられていました。修行のお邪魔をするつもりはありませんが、立入禁止と言われると、一気に神聖さが増した気分になります。

立入禁止の密厳堂エリアの左側。こちらの鐘楼堂は天和2年(1616年)に建立されたものです。その奥にある白い建物は延宝元年(1673年)に建立された「運敞蔵(うんしょうぐら)」と言います。運敞は智積院第7世化主で、蔵の中には運敞の坐像の他、著作物や研究書物や資料が収蔵されています。年に一度開扉されるそうです。

立入禁止の密厳堂エリアの右側。おそらくは覚鑁銅像かなと思いますが、わかりません。写真中央の奥のお堂は求聞持堂(ぐもんじどう)で、本尊に虚空蔵菩薩、他に文殊菩薩不動明王をご安置しています。その奥に鳥居が見えていますが、一番奥に三社(権現)を祀る神社があります。写真の右端にちょっと写っているのが僧房のような場所だと思います。お坊さんの草履が置かれていて、どなたか中にいらっしゃるようでした。修行の邪魔にならぬうちに立ち去ります。

こちらは大師堂エリアです。寛政元年(1789年)の建立で、真言宗の開祖である弘法大師空海尊像をご安置しています。真言宗の寺院には大師堂のある寺院が多いのですが、川崎大師のように寺院の本尊として祀られることも少なくありません。それだけ弘法大師は稀代のスーパー僧侶だったということです。杖や法具を突いたら泉が沸くという伝説は全国で千数百か所あるそうです。

杖に編み笠姿の弘法大師像を修行大師と呼びます。四国八十八か所巡礼のお遍路には、皆さんこの姿を真似て、編み笠に「同行二人」と書いて挑戦しています。

こちらは稚児大師です。空海讃岐国(現:香川県)の生まれで、父は郡司ですから御家柄の良いお坊ちゃまでした。律令時代の僧はほぼ国家公務員のようなものなので、誰でもなれる訳ではありませんでした。

大師堂の扁額には「遍照金剛殿」と掲げられています。遍照金剛とはこの世の一切を遍く照らすという意味で、空海遣唐使として中国で仏教を学んでいる時に送られた名前です。

真言宗智山派は、弘法大師空海を始祖、興行大師覚鑁を開祖とする新義真言宗の一派です。新義真言宗から真言宗智山派への分かれ目には、こちらの玄宥僧正がいらっしゃいます。つまり、豊臣秀吉根来寺攻めから逃れ、秀吉の没後に京都東山に智積院を復興した僧侶です。

真言宗智山派には本山級の寺院として大本山が3ヶ寺、別格本山が2ヶ寺あります。大本山成田山新勝寺(千葉県成田市)と高尾山薬王院(東京都八王子市)と川崎大師平間寺(神奈川県川崎市)、別格本山は高幡不動金剛寺(東京都日野市)と大須観音宝生寺(愛知県名古屋市)なのですが、5ヶ寺のうち4ヶ寺が関東にあります。更に、東京都港区に総本山別院の真福寺もあります。関東の方も馴染みのある寺院の総本山にお参りさせていただきましたが、智山派の印象通り仏道を教え学ぶこと、教学が中心にある寺院の姿を垣間見ることができました。

 

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