名称・寺格
補陀洛山 普門院 六波羅蜜寺と称する真言宗智山派の寺院です。寺格は特にありません。
創建
天暦5年(951年)に、空也上人が造立した十一面観音を安置する道場(西光寺)が、六波羅蜜寺の創建とされています。
本尊
十一面観音像
みどころ
仏像ファンに大人気の、口から仏様を吐く空也上人像がある寺院です。
アクセス
探訪レポート
六波羅蜜寺に入って最初にあるのは、福寿弁財天堂です。七福神巡りは全国にたくさんありますが、六波羅蜜寺が弁財天を担当する「都七福神」が日本最古なのだそうです。六波羅蜜寺と言えば空也です。2022年に東京国立博物館で「空也上人と六波羅蜜寺」という特別展が開催されていました。空也は市聖と呼ばれ、僧侶を説いて一派を築くというよりも、称名念仏(声に出して念仏を唱えること)を貴賎を問わず広く民衆に説きました。念仏(浄土信仰)というと浄土宗の法然や浄土真宗の親鸞が有名ですが、法然も親鸞も鎌倉時代の僧なので、空也の時代(903-972年)には存在していません。空也は特定の宗派に拠ることもなく、幅広く様々な宗派と交流しました。
十一面観音像があり、その横に願石という摩尼車がありました。空也の時代には都に疫病が蔓延していて、空也は十一面観音像を車に乗せて、念仏を唱えて引きながら病人に茶を振舞っていたのだそうです。このお茶は「皇服茶」と呼ばれ、現在でも授与されています。
現在の本堂は貞治2年(1363年)に再建されたものです。向拝は豊臣秀吉が付設したのだそうです。この頃に天台宗から真言宗智山派になったとのことですが、秀吉は根来寺を焼き討ちして、真言宗智山派と対立していたはずです。そのため真言宗智山派の総本山の智積院が東山に建立されるのは秀吉の没後だったはず。まだ天台宗の頃に秀吉の寄進を受け、没後に真言宗智山派になったということでしょうか。
本尊は空也作の十一面観音像で、国宝に指定されています。秘仏ですが、12年に一度御開帳されていて、それが今年の11月3日から12月5日まで、つまり今日までなのです。踊念仏というと時宗を開いた一遍が有名ですが、一遍の300年以上前に空也が踊念仏を行っています。現代でも空也の踊念仏は受け継がれていて国の重要無形文化財に指定されています。
本堂の右側に授与所など様々なものがひとつになった建物があります。正面に見えているのは「迎鐘」です。これはお盆に死者の霊を迎えるために突く鐘です。その奥にも銭新井弁天などがあります。
境内には六波羅探題があった石碑がありました。六波羅探題は鎌倉時代に朝廷の監視と京都の秩序を守るために設置された幕府の機関です。そして、なぜか撫で牛が置かれていました。撫で牛と言えば天満宮ですが、どういう訳でここにあるのでしょうか。牛のお腹には法輪が刻まれています。
左が平清盛塚で右が阿古屋塚です。この周辺には平氏一門のお屋敷が並んでいたとのことで、平清盛の供養塔です。阿古屋は市川團十郎の「景清」という歌舞伎演目にも登場する、平景清の妻とも遊女とも想い人とも呼ばれている人です。石塔は鎌倉時代のもので、台座は古墳時代の石棺の蓋なのだそうです。周囲の柵など新しく造営されていますが、これは平成23年に歌舞伎役者の五代目坂東玉三郎さんの寄進によるものです。
この奥は六波羅浄心苑という樹木葬墓地になっています。六地蔵ならぬ、多くのお地蔵様がいらっしゃいます。この辺りはそもそも「六道の辻」と呼ばれるエリアで、平安時代に葬送地だった「鳥野辺」の入口にあたります。
この奥は立入禁止エリアになっていました。大聖歓喜天と書かれています。歓喜天は象頭人身で、二体で抱き合っているという不思議な像です。見るからにインドの神様っぽいのですが、仏教と習合して天部の一尊となっています。密教系の寺院に多く祀られていますが、大抵はこのように秘仏扱いが多いです。
宗派の区別に厳密な葬儀業界の感覚に慣れてしまうと、様々な寺院を訪問することが背徳のように感じることがあります。そんなときは宗派の区別に囚われず、自分の信じる道を歩んだ空也のことを思います。
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