名称・寺格
神泉苑と称する平安京の庭園でしたが、江戸時代に東寺が管轄する寺院となりました。
創建
延暦13年(794年)平安遷都と同時に庭園が造営されました。元長元年(824年)に雨乞いの祈祷をした空海が善女龍王を勧請し、この時を創建としています。
本尊
聖観音菩薩
みどころ
平安時代の天皇や貴族の宴遊のための庭園でした。神仏習合の時代の名残が残っており、寺院だか神社だかわからない空間です。それだけに得体の知れないパワーが漂っている感じがします。
アクセス
市営地下鉄東西線「二条城前」徒歩2分
探訪レポート
私の平安貴族の情報源は大和和紀さんの「あさきゆめみし」なのですが、確かに平安貴族が牛車に乗って景色の良い場所に出かけて、花見をしたり祭りを見学したり歌会を開いたり芸事を披露したりというシーンが多かったです。大内裏の入口に造られた神泉苑はまさに描かれていた場所なのでしょう。こちらは法成就池と呼ばれる、神泉苑の中心的な池です。
境内の中心にあるのは本堂ではなくて、善女龍王社という社殿です。平安京には東寺と西寺があったのですが、東寺VS西寺の雨乞い対決で、東寺の空海が善女龍王を勧請して勝利したという言い伝えがあり、空海の法が成就したという意味で、法成就池と呼ばれています。法成就池には善女龍王が棲み着いたとされていて、このように社殿を建立して祀っています。
法成橋と言います。心に願いを念じながら渡り、善女龍王に祈願すると、願い事が叶うと言われています。
善女龍王社側から法成橋を渡ると本堂になります。本堂は利生殿と称し、弘化4年(1847年)に東寺の大元帥堂を移設したものです。本尊は聖観音菩薩です。重要文化財の不動明王像や秘仏の毘沙門天や八臂の弁財天も本堂にご安置されています。
境内社が多く、神社なのか寺院なのかわからなくなります。東寺と縁があり、東寺が引き受けたから真言宗となっていますが、もしも八坂神社が引き受けていたら、ここは神社になっていたでしょう。きっと、どちらでも良かったのだと思われます。洛中天満宮と書かれていますが、洛中唯一だったのでしょうか。そう遠くない場所に北野天満宮があることを思うと、祠が小さすぎる気がします。隣に放生供養碑が建っています。放生供養とは、生きとし生けるものすべてに霊魂が宿ると考えて、殺生したすべての生物の供養をすることです。
こちらは弁財天です。増運弁財天と称します。安永9年(1780年)の都名所図会に所載されたそうです。
こちらは宝篋印塔で、こちらは仏教のものですね。貞亨元年(1684年)に弘法大師御入定850回忌を記念して建立されたものです。
矢剣稲荷社と称します。そもそも矢剣大明神と称する神仏習合の神を祀っていましたが当時から稲荷社として祀られていたようです。手に持った矢と剣で参拝者を守る神様です。
歳徳神を祀る恵方社です。歳徳神は恵方を司る神で、その年の恵方に向かって礼拝できるように社殿の向きを毎年変えています。12月31日の22時30分から、「恵方改め式」という法要が営まれます。神事を法要として僧侶が仏式で行うというのは、まさに神仏習合の時代そのままですね。法要の後、新年の恵方に合わせて社殿の向きが変えられるのだそうです。
広い場所に地位様大黒様のお社がありました。
空海が善女龍王を勧請して以来、神泉苑で行われる雨乞いは東寺が行ってきたのですが、室町時代になる頃にはそれも行われなくなり、荒れ果てて敷地に田畑が広がり、庶民の家も建てられました。それでも神泉苑は荒廃したり再興したりを繰り返して、最終的には東寺が管轄する寺院として再建され現在に至ります。大内裏も羅城門も無くなった京都の街に、平安京が造営された当時のものが、1200後にもまだ同じ場所にあるのは歴史のロマンですね。
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