寺社探訪

寺社探訪とコラム

北野天満宮

北野天満宮 目次

名称・旧社格

北野天満宮と称します。旧社格官幣中社です。

創建

天歴元年(947年)に、朝廷の命により、朝日寺(現:東向観音寺)を神宮寺とし、菅原道真を祀る神社が建立されました。

御祭神

菅原道真

みどころ

太宰府天満宮と共に、全国の天神信仰の中心的な神社です。国宝の本殿・拝殿をはじめ、境内には多くの社殿があり、所々に様々な臥牛もありますので、見比べながらゆっくり散策することができます。

アクセス

京都市上京区御前通今出川上ル馬喰町 

嵐電北野白梅町」徒歩8分

 

探訪レポート

一之鳥居を抜けると、影向の松など松並木になっています。影向の松に初雪が降ると道真が現れて初雪の詩を詠むと伝えられています。菅原道真をご祭神とする天神信仰の神社は、全国に1万2000社あるとされています。その中でも中心となるのが、道真の左遷の地であり終焉の地でもある福岡の太宰府天満宮と、道真の生地であり天皇の側近として活躍した京都の北野天満宮の二社です。

さっそく臥牛がいらっしゃいました。道真と言えば牛です。お地蔵様のように前掛けをかけているのですね。道真は太宰府に左遷され、衣食住も困難な死罪のような扱いで、左遷の2年後に亡くなります。道真の死の2年後、藤原菅根(道真を左遷から救おうと宇多上皇醍醐天皇に会いに来たことを取り次がなかった)が病死します。その翌年には藤原時平(道真を追い遣った政敵)が39歳で病死します。その4年後には右大臣源光が狩の途中で事故死します。更にその10年後には保明親王醍醐天皇の皇子)が亡くなります。これらすべて道真の恨みと解釈され、怨霊を恐れた朝廷は従二位大宰員外帥だった道真を右大臣に戻して正二位の位を贈りました。

二之鳥居です。まだ松並木が続いています。さて、没後道真は右大臣に復されましたが、その7年後、朝議中の清涼殿に落雷があり、多くの死傷者が出ました。そのショックで3ヶ月後に醍醐天皇崩御してしまいます。「右大臣に戻しても、まだ怒ってるのか!」と、朝廷は菅原道真を北野に神社を建立して神として祀ることにしました。そうして創建されたのが北野天満宮なのです。その46年後(没後90年)には正一位左大臣が贈られ、更に太政大臣の位が贈られました。現代の感覚だと恐れ過ぎなのではないかと思いますが、陰陽師(国家公務員)の占いで政治を方向づけていた時代ですから、さもありなんというところです。

太宰府天満宮は広い境内にたくさんのお社があり、みどころがあり過ぎるのでレポートが長くなってしまいます。ここからは写真多め解説少な目でご紹介していきます。境内末社の伴氏社です。伴氏というのは菅原道真の母です。

三之鳥居です。

また臥牛です。夫婦(家族?)対で置かれています。こちらは雌牛と子牛です。子牛にも前掛けがかけられています。

こちらは雄牛です。角が大きくなっています。

楼門です。この楼門は本殿の正面ではなく、北野天満宮が創建される前からこの地にあった地主社の正面に建立されています。扁額には「文道大祖 風月本主」と書かれています。

手水舎は「北野の花手水」と称して、色とりどりお花で飾られていました。よく見ると中央に臥牛がいらっしゃいます。

その先にも臥牛です。こんなに何頭も置かれているのは見ないですね。赤い目がちょっと怖いです。

こちらの臥牛は鼻輪と綱が付いていて、背中に布が被っています。

元禄12年(1699年)建立の絵馬所です。いわゆる額堂というやつです。この規模で額が掲げられているのは珍しく、京都市文化財に指定されています。

中もこの通りで、牛が描かれた額もたくさんあって、道真と言えば牛というのは昔からなのだとわかりますね。

表側に百人一首の札のような和歌と人物が描かれた額が並んでしました。こちらは「三十六歌仙画額」というものです。怨霊から転じて歌(芸能)や学問の神として祀られてきた様子が伺えます。

境内社の宗像社です。祀られているのは宗像三女神と称される田心姫神(タゴリヒメ)、湍津姫神タギツヒメ)、市杵島姫神イチキシマヒメ)です。

提灯に囲まれた空間を進みます。

境内社の福部社です。十川能福(せごうのうふく)をお祀りしています。十川能福は菅原道真に仕えた舎人で、牛車を引く牛の世話役でした。開運招福の神として祀られています。

同形のお社の白太夫社ですが、着色が少し違っていますね。お祀りされているのは渡会春彦翁です。道真の父である菅原是善が世継ぎの誕生を伊勢神宮の青年神官の渡会春彦に託して、豊受大神宮(外宮)に祈願しました。渡会春彦は誕生した道真の守役として数十年に渡って忠誠を尽くしました。若い頃から頭髪が白く、白太夫と呼ばれていたそうです。

火之御子社です。お祀りされているのは火雷神です。北野天満宮が創建される以前からこの地に祀られていた神様です。五穀豊穣・疫病退散・災難除を祈願するために元慶年間(880年頃)に太政大臣藤原基経によって建立されました。

老松社です。島田忠臣翁をお祀りしています。島田忠臣も菅原道真の家臣です。道真は忠臣に松の種を持たせてこの地に撒くように託し、そして道真の御神霊が降臨した際に一斉に生じたという伝説になっています。

こちらの伏牛は堆積岩を彫刻して造られています。なんとなくお洒落です。

こちらは金属製の伏牛です。角が短いです。本当に一頭ずつ違っていますね。きっと造立された年代も様々に違うのでしょうね。

中門は勅額御門・三光門など称する国の重要文化財です。勅額は天皇から贈られる額のことで、後西天皇の筆となっています。三光はこの門が日月星の3つの光に関係することから呼ばれているそうです。門には太陽と月の彫刻が刻まれています。星の彫刻はありませんが、この門のちょうど真上に北極星が位置しているそうです。

寺社建築でいつも思いますが、絶対に土台より屋根の方が重いですよね。それでも数百年間崩れないのは、素晴らしい叡智だなと思います。

中門を入ると社殿のある神域に入ります。神前に梅の木と松の木があります。飛梅と書かれていましたが、飛梅は左遷された道真を追って太宰府へ飛んで行ったから飛梅なのではないかと勘繰るのは無粋でしょうか。それでもこの飛梅の系統を絶やさないように守り続ける江戸時代の文献もあり、大切に受け継がれてきたことがわかります。

社殿は拝殿と本殿の間が石の間という石畳の廊下で繋がっている、権現造の原型のような構造で、国宝に指定されています。現在の本殿は慶長12年(1607年)豊臣秀頼が造営したものです。

こちらにも臥牛です。土台に寄進した方の名前が刻まれていますが、清兵衛さんや徳右衛門さんや半助さんなど、皆さん時代劇に登場しそうなお名前です。

重要文化財の東門に向かう通りです。東門を抜けると上七軒の花街になります。

社殿の右側から裏に向かって歩いていると、境内社がたくさんあるエリアに着きます。北野天満宮の創建以前からこの地に祀られていた地主神社です。遣唐使のために承和3年(836年)に天神地祇をお祀りし建立されました。いわゆる天の神地の神の総称のようなもので、現社殿は豊臣秀頼によって造営されたものです。

こちらは老松社です。先ほどもありましたが、島田忠臣が祀られています。二つ目ですが、まだ他にも老松社があるのです。臥牛が何頭もいるのと同じ理屈でしょうか。

こちらは本殿の背面になります。こちらにも御后三柱(こうのみはしら)と称する御神座が設置されていて、天穂日命(あめのほひのみこと:菅原氏の先祖)、菅原清公卿(道真の祖父)、菅原是善卿(道真の父)をお祀りしています。

集合住宅タイプの境内社です。元々はひとつひとつのお社があったそうですが、長い歴史の中で纏められました。12柱の神々を祀っています。老松社や白太夫社も含まれていて、道真と縁のある人物を祀ったものが多いようです。

こちらは別の集合住宅型の摂末社です。こちらには道真と縁のある人の他、日本神話の神々などもお祀りされています。

こちらが斜め後ろから見た社殿です。拝殿と本殿が繋がっています。

左が神明社で右が文子社です。神明社天照大御神を祀った神社です。文子は道真の乳母を務めた多治比文子のことです。道真の没後、文子に当地に社殿を建てて祀れと宣託があったそうです。

集合住宅式の三号棟です。

社殿をぐるっと一周廻って戻ってきました。こちらは西回廊です。秀頼が造営したもので、国の重要文化財です。

こちらは風月殿という建物です。明治初期に半官半民の教育・布教・研究機関である小教院として建立されたものです。学問や文化芸能の神として崇拝された道真を祀る神社ですから、皇典研究所として発展しました。現在は社務所として使用されています。

楽殿です。神楽舞や狂言や日本舞踊が奉納されています。この北野天満宮京都五花街のひとつ上七軒の隣ですから、舞妓さんや芸妓さんもこの神楽殿で舞を披露することがあります。

こちらは宝物殿です。平安京と共にあったような神社ですから、国宝級の書物や文化財がたくさん保存されている訳で、展示されている品物だけでなく、展示用のケースまでもが歴史的な価値のあるものだそうです。

ぐるっと境内をご紹介しましたが、これが全てではなく、まだまだみどころがたくさんある神社ですし、もっと深く探るとどこまでも面白い発見があると思います。

 

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