寺社探訪

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「浄土真宗 西と東:前編」

西本願寺東本願寺をレポートしたので、浄土真宗の西と東の分派の歴史とその背景などを解説したいと思います。

本願寺派の成立

浄土真宗は多数の分派がありますが、宗祖は一様に親鸞となっています。親鸞は浄土宗の宗祖法然の弟子で、浄土信仰の教化に生涯を捧げました。公的な浄土真宗の開宗は親鸞が「教行信証」の草稿を著した元仁元年(1224年)としていますが、実際には親鸞自身に宗派を開く意思はなく、親鸞の没後に弟子たちが立教開宗しました。

親鸞の存命中から、親鸞やその弟子たちによって、親鸞の浄土信仰(真宗)は京都だけでなく地方へ広がります。特に庶民に多く広まったので、その土地で布教活動した僧が活動拠点とした寺院を中心に、門徒(信者)の集団が形成されました。特に大きな勢力だったのが、荒木門徒と阿佐布門徒(後の佛光寺派)と高田門徒(高田派)でした。

大谷本願寺故地 )

一方京都では、弘張2年(1262年)に親鸞が入滅し、文永9年(1272年)に親鸞の娘の覚信尼親鸞墓所に大谷廟所を建立し、廟所の管理責任者である留守職に就任します。留守職は親鸞の子孫に血縁で受け継がれました。孫の代では早くも跡継ぎを巡って諍いが起こり、大谷廟堂は破壊されてしまいます。そして元亨元年(1321年)にひ孫の覚如が大谷廟堂を寺院化して、本願寺大谷本願寺)を建立します。いわゆる本願寺派が誕生することとなりました。

 

中興の祖 蓮如

3世覚如から7世の存如までは、本願寺は大きな勢力ではなく、当時絶大な勢力であった天台宗門跡寺院の青蓮院の末寺になることで、京都に存続を許可されている状況でした。しかし、各地方で親鸞の弟子たちが布教によって築いた各勢力は、関東・北陸・近畿に展開し発展していました。

蓮如上人御誕生之地 )

長禄元年(1457年)に蓮如本願寺8世を継ぎます。寛政6年(1465年)に大谷本願寺天台宗延暦寺の衆徒によって破壊されてしまいます。蓮如は難を逃れて近江・越前・小浜・摂津・丹波と移りつつ、諸国で布教活動を行い勢力を拡大しました。各地の真宗門徒勢力からも蓮如本願寺派に移る僧や門徒が多数現れました。そして蓮如は文明15年(1483年)に京都山科に本願寺を建立します(山科本願寺)。明応6年(1497年)蓮如は引退後の自身の隠居所として、大坂石山に大坂御坊を建立しました。

 

石山合戦本願寺 VS 織田信長

時代は大名同士が合戦で覇を競う戦国の世となりました。寺院を中心に巨大な寺内町を形成し、要塞都市化している浄土真宗勢力は、戦国大名にとって見過ごせない存在でした。一向一揆と呼ばれた真宗門徒による一揆は合戦さながらの規模で、実際に大名家のひとつであるかのように、本願寺を抑え込もうとする大名勢力と合戦を繰り返しました。このために浄土真宗の戦力を頼る大名や、逆に浄土真宗を禁教とする大名もありました。そして享禄5年(1532年)、京都日蓮宗徒+六角氏の連合軍に、山科本願寺を焼き討ちにされてしまいます。そこで天文元年(1532年)本願寺10世証如の頃、大坂御坊に本拠地を移して大坂本願寺石山本願寺)としました。

( 岐阜駅前の織田信長像 イメージのためのフリー素材です)

石山本願寺は三方を河川に囲まれ、要塞化した巨大な寺内町を持ち、その上交通と経済の要所という立地もあり、織田信長に狙われてしまいます。信長は本願寺に対して様々な要求を繰り返し、元亀元年(1570年)本願寺11世顕如の頃、ついに信長は石山本願寺を明け渡すように要求しました。そこから本願寺VS信長の10年に渡る石山合戦が始まりました。激しい戦闘が長期化すると、講和を結んで合戦を終わらせたい穏健派(顕如)と徹底抗戦したい強硬派(教如顕如の長男)が対立します。

石山本願寺推定値 イメージのためのフリー素材です)

天正8年(1580年)に顕如は講和を受け入れて、信長に明け渡すために石山本願寺を出て、紀伊鷺森へ移ります(鷺森本願寺)。しかし教如は徹底抗戦の構えで石山本願寺に籠城したので、顕如によって義絶されてしまいます。結局教如石山本願寺を去りますが、顕如派と教如派の間には深い確執が生じてしまいます。信長はすぐに石山本願寺を焼き払ってしまいますが、2年後の天正10年(1582年)に、本能寺の変が起こり自害してしまいます。歴史のロマンですが、本願寺派があと2年持ちこたえていれば、石山本願寺はどうなったでしょう? 跡地の現在は大阪城となっているので、信長が亡くなっても、秀吉に取られていたでしょうか。(後編へ続く)

大阪城 イメージのためのフリー素材です)

 

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