寺社探訪

寺社探訪とコラム

「浄土真宗 西と東:後編」

布教の過程で各地に門徒勢力が生まれ、分派独立していった浄土真宗ですが、本願寺派の成立から石山合戦までを前編で解説いたしました。後半はいよいよ東西分派についてのお話です。

 

京都へ戻る

天下人となった豊臣秀吉は、信長が本願寺に手をこまねいて天下統一を逃したことから、本願寺を敵に回さず支援することで味方にしようという方針を取ります。一方顕如から義絶された教如も、信長没後すぐに義絶を取り消されます。しかし、本寺を明け渡すという究極の選択で袂を分かつ経験は、両陣営に深く遺恨として残ってしまいました。本願寺派天正11年(1583年)に和泉貝塚へ移り(貝塚本願寺)、天正13年(1585年)には豊臣秀吉の寄進により、大坂天満へ移ります(大坂天満本願寺)。

 

西本願寺 御影堂 )

 

顕如派 VS 教如

大坂天満に移って間もない天正19年(1591年)、またまた秀吉から寄進を受け、ついに京都(現在の西本願寺の地)へ戻って来ます。文禄元年(1592年)顕如が入滅し、教如本願寺12世となりました。しかし、顕如派VS教如派の確執は続いており、教如教如派のみを側近に置いて寺院を運営しようとします。

西本願寺 阿弥陀堂

すると、華麗なる一族の相続ドラマに出てきそうな展開なのですが、なんと顕如の遺言状が登場します。遺言状では長男の教如ではなく、三男の准如本願寺12世にすると書かれていました。顕如派たちはこの遺言状をもって豊臣秀吉に訴えます。一族の継承問題まで解決しなくてはならないのですから、天下人も大変です。文禄2年(1593年)、秀吉はとりあえず教如本願寺を継いで、10年経ったら准如に譲ることを命じます。お互いの立場を尊重した、これぞ折衷案というものでした。

しかし今度は教如派たちが「その遺言書は本物なんですか?」と秀吉に申し立てをします。さすがの秀吉も担任の先生じゃないので付き合いきれません。秀吉は激怒して教如を即時引退させ、准如本願寺12世を継ぐことになりました。こうなっては顕如派 VS 教如派の遺恨は修復しようもなくなります。

 

東西分派

本願寺と敵対した信長が没したように、本願寺を庇護した秀吉もまた没します。慶長3年(1598年)秀吉が亡くなると、顕如派 VS 教如派の様相も変化します。天下分け目の関ヶ原合戦顕如派は西軍(石田三成)に付き、教如派は東軍(徳川家康)に付きました。

東本願寺 御影堂門)

そして天下人となった徳川家康は、本願寺の宗主を准如から教如へ変えようとしました。そこへ家臣の本多正信が家康に助言をします。対立する二派を無理に一つにするよりも、分けてしまえば本願寺の勢力が二分されて削がれるので、今後の家康にとっても良い策ですよと。そして慶長7年(1602年)家康は教如本願寺のすぐ東にある土地を寺領として寄進します。翌年には東の本願寺が開かれ、ついに本願寺は西(12世准如本願寺派)と東(12世教如大谷派)に分かれました。

 

西本願寺興正寺

現在、西本願寺の南側には興正寺という寺院がありますが、興正寺も御影堂と阿弥陀堂が横並びになって渡り廊下で繋がっているという、西本願寺東本願寺と同じ構造になっています。興正寺親鸞が開基し、親鸞の弟子の真仏に託された寺院ですが、真仏親鸞の関東での教化に同行し、専修寺真宗高田派の本寺)を任されました。興正寺7世の了源が、寺領を洛東渋谷へ移し、後醍醐天皇より授かった佛光寺という名称に変えました。

真宗興正派 興正寺 御影堂・阿弥陀堂

14世経豪の頃、本願寺8世蓮如に帰依し、本願寺派の傘下になります。そして佛光寺を弟に継がせて、京都山科に興正寺を再建しました。それ以来興正寺本願寺と共にあり、永禄12年(1569年)興正寺17世顕尊の頃、脇門跡寺院に任じられました。しかし江戸時代を通じて、興正寺にも独立の機運が高まり、明治9年(1876年)27世本寂の頃に、真宗興正派として独立しました。

 

お東騒動

一方の東本願寺も、近代になって分派することとなります。1960年代、東本願寺24世闡如の頃に、本願寺門徒組織が法主に権力が集中することを懸念して、宗派内改革を行おうとします。例えるなら、専制君主制の国で民主化運動が起こったようなものです。そこで闡如は東本願寺真宗大谷派から離脱させて独立しようとします。

東本願寺 御影堂 )

更に門徒組織の改革が進み、戦後の日本国憲法の象徴天皇のような仕組みを作ります。宗派の運営は門徒組織によって合議的に決定され、門主という象徴的存在を定義して、門主は宗務に関与しない規則にしました。更に真宗大谷派東本願寺とするために、東本願寺の宗教法人格が解散登記され、包括宗教法人真宗大谷派と一体化されました。

 

東本願寺 阿弥陀堂
この改革に反対したのは、24世闡如の跡を継ぐ息子たちです。長男の興如を支持する勢力は、1981年、興如が住職をしていた浅草の東京本願寺真宗大谷派から分離独立させます。そして1988年に浄土真宗東本願寺派を結成し、興如が東本願寺25世法主となりました。

闡如の次男経如は、新たに京都伏見に本願寺を登記し、浄土真宗大谷本願寺派という宗派を立ち上げています。そして本山本願寺25世法主に就任します。経如は本願寺文化興隆財団の理事長という立場で、納骨堂の運営などを行う財団の実権を握っています。

真宗東本願寺派 東本願寺:浅草 )

闡如の四男の秀如は、闡如の遺言によって東本願寺を継承し、京都嵯峨に本願寺を移したとして、嵯峨本願寺を建立し宗教法人本願寺として認可を受けます。そして真宗東派という宗派を立ち上げ25世法主となります。

さて、子どもが皆独立分派して法主を名乗っていますが、父の闡如は真宗大谷派東本願寺(京都)の24世なのです。真宗大谷派は後継者候補がことごとく分派独立するので、後継者の指名に右往左往します。結局は三男の淨如が真宗大谷派東本願寺(京都)の25世門主となりました。兄弟4人が4人とも25世となる騒動となりました。

 

親鸞はいかに

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築地本願寺

真宗大谷派東本願寺東京別院だった浅草の東本願寺が分派独立してしまうことは、宗門内でかなり衝撃的だったのではないでしょうか。浄土真宗本願寺派西本願寺東京別院として建立された築地本願寺も、もしや分派独立などということがあるでしょうか。お東騒動を横目に見ながら、我が事のように感じていたのかも知れません、すると2012年に築地本願寺東京別院では無くなり、本山の西本願寺直轄の寺院となりました。つまり、築地本願寺には住職(管主)はおらず、宗務長が責任者です。築地本願寺のトップは、西本願寺門主ということになります。

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親鸞上人像 築地本願寺

ここまでの分派を見てきて、教義や信仰の中身の違いというよりも、権力争いの中で分派していったように思われます。特にお東騒動では、兄弟4人がそれぞれ似たような名前の宗派に、それぞれの本願寺を持つというややこしいことになりました。

親鸞自身には立教開宗の意志はなく、法然の弟子になれたことを生き甲斐とし、浄土信仰を教え広めました。現在の数十派に分派した現状を、親鸞はどのように感じるでしょうか。分派した数十派も、元を辿れば親鸞に行き着くので、案外どの分派にも理解を示せるのかもしれませんね。

 

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