寺社探訪

寺社探訪とコラム

「天台宗 圓教寺」 山+仏「書写山+圓教寺」②

兵庫県姫路市にある書写山圓教寺のレポートの後編です。天台宗総本山の比叡山のように、書写山圓教寺も3つのエリアに分けることができます。それぞれ東谷、中谷、西谷と名付けられていて、仁王門があったのが東谷エリア、懸造で有名な摩尼殿があったのが中谷エリア。今回はさらに奥地の西谷エリアに参ります。

ドーン!っという感じで現れます。こちらが「三つの堂」と称されている場所です。大講堂、食堂、常行堂がコの字に建っていて、迫りくる迫力があります。全て国指定の重要文化財です。

こちらが圓教寺の本堂にあたる大講堂です。大講堂というのは、経典の講義や論議が行われる学問と修行の場だからです。現在の講堂は、下層は永享12年(1440年)、上層は寛正3年(1462年)に建てられたものです。そもそもの講堂は寛和2年(986年)に花山法皇の勅願により建立されました。本尊は釈迦三尊像重要文化財)で、創建当時のものです。風雪により木材の色が落ちて、一層お堂に重厚感を感じさせます。

コの字の奥の部分には食堂(重要文化財)が建っています。食堂は修行僧が寝食する建物で、後白河法皇の勅願で創建されました。現在は1階が写経道場で、2階が宝物の展示場になっています。写経道場は蔀戸(しとみど)が開け放たれ、三つの堂を目の前に見ながら行う形となり、滅多に体験できない凄いロケーションです。般若心経(1時間程度)の他、散華(花びらを象った紙)に観音経の一部を写す(10分程度)ものもあります。2階の長廊下から三つの堂を眺めていると、あまりの非現実感に妙な感覚になります。

比叡山常行堂が有名ですが、同じ天台宗なので、90日間だったり7日間だったり期間はそれぞれですが、常行堂の本尊である阿弥陀如来の周りを読経しながら廻る「常行三昧」の修行するために建てられたお堂です。現在のお堂は享徳2年(1453年)に再建されたものです。本尊は阿弥陀如来重要文化財)で、寛弘2年(1005年)に造立されました。

食堂の2階の長廊下から見た常行堂です。

こちらは食堂の裏側の廊下です。意図せず心が洗われる感覚がします。

さて、三つの堂を後にして、さらに奥へ進みます。こちらは「弁慶の鏡井戸」と呼ばれています。弁慶は少年時代を圓教寺で過ごしたと言われています。寝ている弁慶の顔に小坊主が落書きをして笑い者にしたら、この井戸に写った自分の顔を見て皆が笑う理由を知った弁慶は、激怒して寺を焼き尽くし破壊したという伝説があります。

ここからは書写山の中でも更に山道に入っていきます。私の前に、母アラ還、息子30代といった母子2人組で歩いている人たちがいました。微笑ましいですが、息子がイライラ怒っています。どうやら書写山の頂上をピンポイントで探しているようです。山道を行ったり来たりしながら、母親に当たっていました。頂上が分からないのは母親のせいではないのですが、母親は文句も言わず行ったり来たりに付き合っていました。

この山道エリアには幾つかの神社が並んでいます。圓教寺はおそらく神仏習合山岳信仰の時代が長くあったと思います。こちらは頂上付近の白山権現です。そもそも仏が神の姿となって現れたという考えで、仏教側からの視点で、神社に祀られた神々を「権現」として仏教寺院でお祀りするという信仰があったのです。

解読しにくいですが、「日天龍八王神」と刻まれています。おそらくは仏教の守護神である八大龍王のことかと思われます。

稲荷堂です。祀られているのは稲荷神で、稲荷神の場合はまた仏教側からの視点で「稲荷大明神」と呼びます。この神仏習合の呼び名は、実在した人物にも使われていて、豊臣秀吉は「豊国大明神」、徳川家康は「東照大権現」として祀られています。

こちらに神仏習合的なお堂がありましたが、よくわかりません。

井戸がありました。この水は飲めませんと書かれています。

この山道は三つの堂付近から山に入り、書写山の頂上(白山権現:371m)を通って、摩尼殿の付近に行き着きます。摩尼殿側の方が斜度が急なので、脚に自信がなければ、三つの堂側から行くと良いと思います。

ここは三つの堂の北側にある仙岳院という塔頭寺院です。そもそも長和年間(1012-1017年)に日照という僧が大日院として建立しました。120世長吏の快周が大日院を再建するにあたり、廃寺となった金山院と真乗院の本尊も併せて祀り、仙岳院と名を改めたのだそうです。もともと大日院なので、本尊は大日如来てす。天正年間(1573-1592年)以降に制作された書写塗は、大半がこの仙岳院の宝蔵から発見されたのだそうです。

進んでいくと、先の方に、またコの字に並んだ堂宇のエリアが現れました。三つの堂よりは随分小ぶりですが、護法堂、開山堂、護法堂拝殿がコの字に並んでいます。3つとも国の重要文化財で、そこが奥の院と呼ばれるエリアです。

奥の院エリアの入口には不動堂が建っています。圓教寺を開山した性空を守護し仕えたという乙天と若天の二童子がいるのですが、そのうち乙天は不動明王の化身と言われています。

不動堂の隣に2つ並んだお堂がありますが、鳥居がありますので神社です。こちらが乙天社と若天社で、性空圓教寺の守護神として祀られていおり、護法堂と呼ばれています。乙天は不動明王と化身とのことですが、若天はというと毘沙門天の化身なのだそうです。圓教寺最大の行事である「修正会」(1月18日)には、乙天を表す緑の仮面と若天を表す赤の仮面を被った信者たちが、寺院内の敷地を乱舞して松明を振って鐘を鳴らすそうです。これ、見てみたいです。

圓教寺開山の性空を祀る開山堂です。現在の開山堂は1673年に建立されたもので、屋根を支える腕木は、3体の神話上の守護神が精緻な彫刻で飾られています。面白い言い伝えがあり、元々は建物の四隅に1体ずつ守護神がいたのだそうですが、1体は重さに耐え切れず逃げ出したから3体なのだそうです。等身大の性空上人坐像(重要文化財)がご安置されていて、像内に瑠璃壺に納められた性空の遺骨が入っていることか、2008年にレントゲン撮影をして発見されたのだそうです。

護法堂拝殿です。護法堂は乙天と若天が祀られている神社なので、拝殿があります。しかしこの拝殿は護法堂に向き合うように正面に建っているという不思議な状況です。ここはそもそも武蔵坊弁慶の学問所だったそうです。弁慶は書写山圓教寺で7歳から10歳まで修行をしたとのことで、弁慶が使用した机が食堂2階に展示されています。

この道を行けばどうなるものか、危ぶんでしまったのでわかりません。

奥の院から山を緩やかに下る感じで巡っていきますと、何やら広い空間とお堂が見えてきました。

金剛堂(重要文化財)があるこの場所には、性空書写山に辿り着き修行を始めた頃に住んでいた、普賢院という塔頭寺院がありました。真言密教大日如来から血脈を継ぐ金剛薩埵が性空を訪問し、金剛界曼荼羅胎蔵界曼荼羅を表す神聖な印相を性空に伝えたのだそうです。室町時代に普賢院の仏殿がここに移され、金剛薩埵像が祀られました。(現在は食堂2階に展示されています)

ここから見える瀬戸内海(播磨灘)の眺望がプレートに表示されていますが、青々と茂る木々の葉しか見えず、本当にここから海が見えるのか疑問です。

このような壁の隙間にお地蔵様が1体ぽつんといらっしゃいました。

こちらは薬師堂で、圓教寺で最も古い建物なのだそうです。そうは見えませんが、1978年の改修では、奈良時代の遺物が発見されたそうです。ということは、性空書写山に入山する以前からここは宗教的な場所であったということになります。1000年以上に渡って改築や増築が繰り返され、元々の建築を辿ることは難しいとのことですが、屋根や柱が仏教初期の中国大陸の寺院建築様式に基づいていることがわかるそうです。

こちらは松平直基の墓所です。松平直基は徳川家康の次男結城秀康の第5子です。姫路城主を命じられましたが、姫路に向かう途中で江戸で発病し、そのまま亡くなってしまいました。直基の子の直矩が姫路城主になり、寛文10年(1670年)に分骨してここに墓所を作りました。

鐘楼堂です。摩尼殿や三つの堂に比べると目立たない場所にあって、訪れる人も少ないですが、鐘楼堂は国の重要文化財、鐘は県の文化財という貴重なものです。銘刻はされていませんが、鐘は1324年頃の鋳造とされており、兵庫県で最も古く、全国的にも最も古い鐘のひとつに挙げられます。

こちらは法華堂です。素っ気ない案内板の文をそのまま写します。法華三昧堂といい、創建は寛和3年(985年)播磨国司藤原季孝によって建立された。もとは桧皮葺であった。現在のものは、建築、本尊ともに江戸時代の造立。昔は南面していた。とのこと。

墓所がまたありました。境内に個別の墓所を造るなど特別な縁がある人のみでしょうが、それだけ歴史が長く、それぞれの時代で圓教寺を支えてきた人々がいたということです。こちらは姫路藩主・榊原政房・政祐の2基の墓碑が建立されています。

西谷をぐるっと廻って三つの堂の常行堂に戻ってきました。コの字に面しているのは、常行堂北摂する長さ十間の楽屋で、常行堂の本体はこちらになります。丈六阿弥陀如来坐像がご安置されています。

「歌塚の四季を訪はんと思ふ秋」高浜虚子の長男でホトトギス主催の高浜年尾の作品です。奥の院にある和泉式部の歌塚を詠んだ句だそうです。

「渓流のだぎちに低く迫り咲く 赤き椿は水に散るべし」姫路の歌人、初井しづ枝さんの作品です。

写真の上部にたくさんのお地蔵様が並んでいて、赤い線のように見えています。これは水子地蔵で、子どもの守護仏である地蔵菩薩が安置されています。

さて東谷エリアを下り、概ね境内をひと回り散策してきました。三十三観音もきれいに掃除してもらって、濡れたところが渇き始めている感じが風呂上がりのようで気持ちよさそうです。

この三十三観音を奉納したのはハリマ共和物産株式会社という、姫路市にある日用品卸の会社です。圓教寺の六臂観音菩薩像が年に一度しか開扉されないことから、多くの参拝者に圓教寺の素晴らしい観音様との縁を結んでいただきたいという考えから寄進されたのだそうです。近々大きな事件でニュースになっていましたが、観音様のご加護のあらんことを願います。

風でロープウェイが運休することもなく、往復チケットが無駄にならずに済んで良かったかはわかりませんが、帰りもロープウェイを利用しました。またひとつ、いつかは行ってみたかった場所に行くことができましたが、違う季節にまた訪れてみたくなりました。

 

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