寺社探訪

寺社探訪とコラム

「廣田神社」

廣田神社 目次

名称・旧社格

廣田神社と称します。旧社格官幣大社です。延喜式神名帳名神大社であり、二十二社の一社に挙げられます。

創建

神功皇后元年(201年)に、神功皇后によって天照大御神の荒魂が祀られました。

御祭神

撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)=天照大御神の荒魂。

みどころ

長い参道を抜けたところに、広い空間がきれいに整備されています。日本神話に登場する神社特有の歴史の重さを感じながら、神聖な気持ちでお参りできます。

アクセスき

兵庫県西宮市大社町7-7

阪急電鉄西宮北口」よりバス17分

 

探訪レポート

冒頭の写真が廣田神社の一之鳥居です。そこが馬場先(貴族や武将が参拝のために駒をつなぐ場所)で、現在も松並木に挟まれた参道がまっすぐに伸びています。周囲は閑静な住宅街なのですが、廣田神社の参道が一本通っているだけで神域を感じる不思議さがあります。

かなり歩いて石造りの二之鳥居に到着しました。参道の周囲を含めてかなり新しいものに見受けられます。

敷地が広いだけでなく、構造にゆとりがあると言いますか、実際よりも広さを感じます。こちらは注連柱(しめばしら)です。注連縄を張るので注連柱ですが、これが鳥居の原型とも言われています。

参集殿です。兵庫県の神社の源のようなところなので、お宮参りや七五三、その他各種祈祷を受け付けています。関西では阪神タイガース廣田神社に必勝祈願するのが有名です。これは球団結成時から続けているのだそうです。

注連柱をくぐって、境内奥に進みます。兵庫県の生田神社や長田神社大阪府住吉大社の由緒はどれも同じエピソードにまつわる話です。神功皇后三韓征伐から戻った時、難波に向かう船が進まなくなり、神功皇后が神事を行ったところ、それぞれの神が「我を◯◯に祀れ」と言って、それが生田神社や長田神社住吉大社になったというお話です。

手水舎も新しいです。廣田神社にも同様のエピソードかありますが、お祀りされているのが天照大御神なので、神功皇后三韓征伐の出発から御子の懐妊や安産、そして戦勝と凱旋帰国まで、天照大御神の守護によって導かれたとされています。

広場の奥に兵庫県の天然記念物に指定されているツツジなど、見どころのある庭があります。さて、廣田神社の創建の話でも、神功皇后三韓征伐の帰路、難波に向かう途中で船が進まなくなります。その際に天照大御神の神託があって、荒魂を皇居近くで祀るのは良くないとされ、広田の地に祀られたのが廣田神社の創建のお話です。

広々した参道を少しずつ段を上がっていく感じで進みます。廣田神社延喜式神名帳でも兵庫県で唯一官幣大社名神大社)に列せられ、神階は従一位白河天皇二十二社にも列せられていて、中世より格の高さが半端ない神社でした。全国のえびす神社の総本社である西宮神社も、元々は廣田神社の摂社でした。

神池です。大きな池ではありませんが、紅葉が綺麗ですね。

池の近くに御神水としてお祀りされていました。元を辿れば「六甲のおいしいお水」と同じ水源かも知れません。

祓所です。注連縄で結界が張られていて、神聖な場所という雰囲気があります。実際に廣田神社でご祈祷をお願いしても、一般の方がここでお祓いすることはないと思いますが、祓所が設けられていることが由緒正しき神社という印象を受けます。

末社の齋殿(ときどの)神社です。お祀りされているのは葉山媛命です。葉山媛は神功皇后の命を受けて、天照大御神の荒魂を広田の地に遷した人物です。葉山媛は山背根子の娘で、山背根子は神功皇后の時代の山城国造です。ちなみに同じく山背根子の娘の長媛は、長田神社の御祭神を遷した人です。

廣田神社社務所です。境内の建物は皆新しく見えるのですが、この社務所は少し歴史が長そうです。

拝殿も非常に美しく整えられています。本殿には天照大御神の荒御魂が祀られています。本殿の左右に脇殿があり、第一脇殿に住吉大神、第二脇殿に八幡大神、第三脇殿に建御名方大神、第四脇殿に高皇産霊神がお祀りされています。

脇殿の拝殿はこんな風になっています。廣田神社の御祭神には、パワースポットが好きなスピリチュアルな方々に大人気の瀬織津姫が祀られていると言われています。

こちらは境内社の伊和志津神社です。創建は不詳ですが、貞観元年に従五位下より従五位上の神階に進み、延喜式神名帳では官幣小社に列せられています。お祀りされているのは彦坐命(=日子坐王=開花天皇の皇子)で、神功皇后は四世孫にあたります。

集合住宅式の境内社です。左から稲荷神社(宇賀御魂命)、地神社(大土御祖神)、春日神社(天児屋根命武甕槌命)、子安神社(磐長姫命)、八坂神社(須佐之男命)です。

こちらは松尾神社です。大山咋命をお祀りするお酒の神様として有名な神社です。灘に限らず兵庫県南部エリアの酒造家の信仰を集めてきました。

「神代より この黒き闇 木下闇」という山口誓子の句碑がありました。木下闇というのは夏の季語で、夏木立が鬱蒼と茂って昼でも暗い様子を表します。

京都から見て西に鎮座していたから「西宮」ということで、地名の由来ともなっている廣田神社ですが、官幣大社名神大社)として朝廷から厚遇を受けていた時代があり、現代はまた違った趣のある神社となっています。ただここには千年を超える歴史の中で、広く人々の崇敬を得てきた神社特有の空気が漂っています。そういう空気は神域として私たちを敬虔にさせる力があると感じました。

 

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