寺社探訪

寺社探訪とコラム

「神田祭 神幸祭に行く 2025(神田神社)」

昨年は日枝神社の本祭だったので、今年は神田明神の本祭が行われます。江戸を代表する「山王祭」と「神田祭」のふたつのお祭りは、年ごとに交互に本祭を行うようになりました。「江戸三大祭り」「日本三大祭り」に数えられる神田祭は大規模すぎて、いつどこへ何を見に行けば良いのやら、余所者の私には把握できません。とりあえず、有名な日本橋三越本店前に行けば良いかと、5月10日の午後3時半頃に日本橋に到着しました。

既にお祭りの雰囲気満載で、少し路地を進んだところで、室町一丁目のお祭りに遭遇しました。江戸総鎮守の神田明神神田神社)は氏子町会の範囲が広く、また日本橋は江戸の経済と文化の中心地でもありました。神田明神のお祭りですが、各町会規模でも同時にお祭りを行っているんですね。

神幸祭の巡行コースのガイドを見ながら更に路地を進んでいると、行列に遭遇しました。ここには堀留児童公園があって、行列に参加している人々や馬が休憩をしているところでした。神田明神を出発する際に行われる発輦祭は7:20からなので、当然その前から準備している訳で、現在夕方4時頃ですから、既に9時間近く装束を着て練り歩いていることになります。交代とかないんでしょうかね。

こちらは附け祭の坂東武者行列です。「付け祭」というのは、神田祭の本祭とは別に、趣向を凝らした仮装や出し物の行列で、江戸時代から人気があったそうです。

さて、日本橋三越前に戻ってきたら、ご覧の様子でした。神幸祭の行列は中央通りを日本橋から秋葉原に向けて進みますが、まさにここが見どころということで、人々が殺到しています。確かに、日本橋三越前の重厚なコンクリートのビル群は、いかにもビルヂングという感じで歴史の重みを感じさせます。伝統のお祭りの行列との組み合わせは抜群で、映える映像が撮れるのではないでしょうか。

とにかく人が多すぎて、見物ポジションを探しまわっていると、この福徳神社の献饌の祭壇の横に良き場所を得ました。祭壇がある場所だけ人が途切れているので、その隙間から見物しようと思います。ちなみに福徳神社はこのすぐ近くにある、いわゆるお稲荷様です。再開発されたお洒落でスタイリッシュな街並みに共存している、アヴァンギャルドな神社です。献饌というのは、神様に食べ物を捧げることです。神幸祭の巡行路の各所で、各町会や企業や団体などから献饌が行われています。三越の前にも祭壇が用意されていました。

秋葉原方面を見るとご覧の通り。行列が通過する頃にはこの3倍くらいの人々が集まっていました。やってくるのは先ほど堀留児童公園で見かけた行列と同じなのですが、見物客の数が数百倍違うので、まるで違う行列がやってくるような雰囲気を感じます。

錦の御旗を先頭に行列がやってきました。神幸旗というのだそうです。

天狗の面のようですが、こちらは猿田彦神です。日本神話の有名な「天孫降臨」で、天照大御神の孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)が天から地に遣わされました。その際に地の神として邇邇芸命の道案内をしたのが猿田彦神なのです。

続いて神田囃子の方々です。お囃子にも日本三大囃子というのがあって、神田囃子もそのひとつに数えられています。そもそも神田祭は各町の山車が練り行列を行うお祭りで、各町会が葛西囃子に依頼して、葛西囃子が各町の山車や屋台に乗り込んで演奏していたのだそうです。つまり神田祭でお囃子を奉仕するためには、町会の審査を通過しなければならなかったのだそうです。

昨年レポートした山王祭でも登場していました諫鼓鶏(かんこどり)です。中国の神話時代のお話で、君主に対して諫言しようとする民衆に打たせるために設けた太鼓のことです。しかし、善政が続き太鼓を打つ必要もなく、鶏が逃げずに止まっているという伝承です。神田明神の祭神である大己貴命(おおなむちのみこと=大黒天)と、少彦名命(すくなひこなのみこと=恵比寿天)が同乗していますね。こちらは牛車ですが、作り物の可愛らしい牛です

こちらが諫鼓です。山王祭では太鼓の上に鶏が停まっていましたが、神田祭では鶏の後ろから太鼓がやってきました。

獅子頭山車です。邪気を払い浄める役目を担っていて、行列を守護しています。

神道儀礼で欠かせない真榊です。真榊の後ろに錦旗が続きます。錦旗の後ろには、仏教の宝珠のようなものを載せた御神馬が歩いていました。

この写真( ↑ )の右に棒だけちらっと見えているのが辛櫃(からひつ)です。神事に用いる重要なものを運ぶ漆塗りの四角のお櫃ですが、ここでは神饌を運んでいます。神道儀礼で5色旗が用いられることがありますが、こちらは7色旗です。青色の後ろから橙色がやってきます。

その後に続くのが盾と鉾、そして弓を持っているのが随神です。神社の入口などに建っている隋神門にいる方々です。

その後からやってきたのは、ご年配の方が多いので、おそらく神田明神の氏子団体の中でも役職に就かれているような方々だと思われます。皆さんこちら側にお辞儀をしていますが、私の26年間の葬儀業界への貢献に感謝と敬意を示しているのではなく、福徳神社の関係者さんに挨拶をしていました。地元の名士のような方々ですから、世知辛いと言われて久しい世の中でも、様々に繋がっているのでしょう。

町会の高張提灯を持って歩く方々もいらっしゃいます。お祭りに半纏を着て参加するような人々は、代々その土地に住んでいる方が多いと思うのですが、土地が高騰したり、物価が高騰したりする中で、こんな都心に住み続けるのも難しいと思うのですが、それにしても大勢いらっしゃるのだなと感心します。

錦蓋は神霊を覆う垂下式の蓋で、神輿と同様の役割でしたが、現在は神輿に随伴する威儀具となっています。その後ろに大祓を持った女性の神職が続き、沓持がいます。その後ろの柄の長い団扇のようなものは、紫翳(むらさきさしは)と言います。高貴な人の顔を隠したり、日差しをさえぎるために使用されていました。

巫女と乙女が続きます。

神名旗が続きます。本来は一の宮である大己貴命が先なのですが、二の宮の少彦名命の神名旗が来ました。おそらくはこの前の各所で献饌の儀を受けている間に順番が入れ替わっているのでしょう。

すると二の宮の鳳輦(ほうれん)が福徳神社の献饌の祭壇前に止まりました。神職さんが現れて、献饌の儀式が行われるようです。初めに祓詞を奏上し、神饌と参加している福徳神社関係者を、大祓の榊を振ってお祓いします。

次に献饌の儀です。儀式的にはお供えしているお酒の入った瓶子と水の入った水玉の蓋を取って、神饌物を少彦名命に捧げましたとします。

そして、福徳神社の関係者さんたちが少彦名命に二礼二拍手一礼で拝礼します。お祭りの中ですが、この儀礼の間は静謐で神聖な空気がこの場を支配します。誰も何も乱さない力が、この場に働いているように感じました。二の宮の鳳輦の前に立って、2枚前の写真あたりから微動だにしない年配者がいらっしゃいますが、この方は御防講(おふせぎこう)という神田明神独自の組織で、かつて近隣の職人の親方衆を中心に組織されていた講の方です。神田祭の行列の警固にあたって、巡行が無事に行えるように見守る役目を担っているそうです。微動だにしていなくともお役目遂行中なのです。

そして儀礼の後には木遣りです。さすが下町。神田祭では各所で木遣りが聞こえてきます。葬儀業界にいると、鳶職の方々の葬儀では出棺時に組の方々が木遣りで先導するということがよく行われます。木遣りを聞き慣れている私ですが、祭りの中の儀礼で謳われる木遣りには格別なものがあります。

日本家庭薬協会なる団体の圧倒的自己主張です。救心、龍角散正露丸、太田胃散と、ビッグネームが揃い踏みで、プロ野球のオールスターを彷彿とさせます。まさかイチジク浣腸にゆるキャラがいたとは驚きでした。

一の宮が登場しました。神田明神一の宮大己貴命です。大己貴命大国主命と同一神で、大国主命の若き日の名前と言われています。大国主と大黒天が漢字の読みが一緒にできるという理由(諸説あり)で同一視され、神田明神でも大己貴命=大黒天としています。

馬車には手綱を握る方を含めると5人も乗っていて、ちょっと馬が気の毒になりました。堀留児童公園でも見かけたのですが、手綱を握っている方が凄い訛っていたので、飼い主さんなのかも知れません。にしても、馬のためにもう少しダイエットしてほしいです。それとも、馬にとっては造作もない重さなのでしょうか。

裃を着ていたり、紋付き袴だったり、半纏だったりと、神田明神の役員さんっぽい方々でも、いろんな格好をしています。

榊の後ろに平将門の神名旗が見えますね。平将門は関東を独立国家にして、自らが新しい天皇として君臨するクーデターを起こした朝廷(天皇家)の敵です。そのため、明治維新で主権が徳川家から天皇に移った際に、神田明神は祭神から平将門を外さざるを得ませんでした。戦後三の宮として復帰しますが、将門を祀るという困難を、江戸総鎮守の立場で成し遂げている神田明神は凄いです。

今回も神幸祭の行列は大手町の将門塚(将門の首塚)にも巡行して、奉幣の儀を執り行っています。

神田祭の花の山車を最後に、神幸祭の行列は終わりとなります。とにかく朝から夜まで、神社の神輿が氏子地域を巡行するという日本の祭りのシステムは、参加する人にも見物する人にも過酷すぎると感じます。三社祭もそうですが、早朝から夜更けまでですからね。

ここからは附け祭になります。様々な出し物や仮装をして行列を歩く附け祭は、毎回趣向を凝らしたものが登場するので、江戸時代には人気だったそうです。附け祭の先頭は太神楽曲芸協会の方々が傘の上でボールを転がす芸やジャグリングをして行列していました。

続いては鎧兜を身に纏い、平氏太祖高望王尊霊位というのぼり旗を掲げた武者がやってきました。こちらは平成6年以来と言いますから、31年ぶりの参加となりました坂東武者行列です。

朝敵の将門も、北関東の方々には英雄として語り継がれ、将門終焉の地である茨城県坂東市では、将門を讃えるお祭りなども行われています。

将門をお祀りする神田明神神田祭に相馬野馬追騎馬武者の参加です。人はともかく、馬は状況を理解しているんでしょうかね? 着飾って大勢の人の中に連れて来られて、興奮もせずに悠々としています。

神田一橋中学の方々の行列です。若々しい掛け声が響いていました。大黒天と恵比寿天の曳き物です。

江戸時代に歌川貞重によって描かれた「神田大明神御祭図」という作品があるのですが、そこに浦島太郎の山車が描かれていたことから、復刻版として作られたのだそうです。

こちらは花咲か爺さんやら桃太郎やら浦島太郎やらで、「枯れ木に花を咲かせましょう」とリピートしていました。

大江戸和髪学会なる団体の皆様が、自分結いの和髪で行列しています。何でも団体があるもんですね。それは良いのですが、なぜかBGMは東京音頭で、皆さん盆踊りのように踊りながら行列していました。

銭湯山車という一団がやってきました。数十年ぶりにパーマ機を見ました。今でもカーラーでクルクル巻きにしてパーマ機被る人いるんでしょうか? 銭湯経営者もしくは銭湯愛好家の団体でしょうか。BGMはドリフターズの「いい湯だな」でした。

至って真面目にふざけて造ったであろう銭湯山車がこちら。高い天井や番台、着替えを入れるロッカーから洗い場のカランまで、情熱に突き動かされて制作したことが伺えます。そして銭湯の背景と言えば富士山ですよね。若い頃、数カ月間だけ風呂無しアパートに住んだことがあります。その頃は銭湯通いをしていましたが、慣れると家の風呂では満足できないほど銭湯は気持ちがいいものです。さて、この銭湯山車で附け祭の行列も終わりとなります。

昨年は山王祭神幸祭の行列を見た後、日枝神社に行ってみたら、境内はほとんど普段と変わらない様子でした。そこで神田明神に行ってみたら、大混雑のお祭りが展開されていました。

神田囃子の演奏がほぼ祭り期間を通じて観ることができます。明治神宮靖国神社と比べると、神田明神は狭い神社です。この後、神幸祭の行列が宮入りしますので、見物しようと続々と人が押し寄せています。なんとなく境内に向かってみたものの、逆方向に帰るのは難しそうです。

現在の中央卸売市場は豊洲にありますが、少し前は築地で、江戸時代は日本橋にありました。神田明神の境内に日本橋魚市場の守護のために魚河岸水神社が建立されました。この巨大な山車は7m以上あり、「賀茂能人形山車」と呼ばれています。大きいですが、実際に動きます。日本橋魚河岸のある地域の山車で、江戸城の門をくぐるために、人形部分と人形の台座部分は上下可変式なのだそうです。日本橋魚河岸のシンボルとして、天下祭(山王祭神田祭)や水神社の祭礼で曳き回されていました。今回の神田祭でも境内を移動していました。

千代田区岩本町二丁目岩井会の桃太郎の人形山車です。かつての神田祭は神輿ではなく各町が山車を曳き回していました。その頃の資料を元に、人形山車を復活させている団体がいくつかあります。

こちらは本殿の裏側の狭い通路ですが、人で溢れています。

東武者行列が境内に入ってきました。見ていると、附け祭の行列が先にやってきています。武者行列の後は、神田一橋中学校の方々が続いています。神幸祭の行列が、見物人と同時に境内に続々と雪崩れ込んできたら、おそらく帰るに帰れない状況になるでしょう。帰るなら今です。

 

押し合い揉み合いわずかな隙を縫うように進み、ようやく神田明神から出ることができました。この翌日には200基あると言われる各氏子町会の神輿が、朝から夜まで次々と神田明神に宮入りします。私が体験した神田祭は、全体のほんの一部に過ぎません。それでも氏子地域の皆さんの「ハレ」の気持ちが伝わって、こちらまで高揚する感覚でした。

 

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