前回は山陽電鉄須磨寺駅からまっすぐ参道を通って本堂までをお伝えしました。今回は本堂エリアからスタートして、他の堂宇を見ていきます。本堂の右側には護摩堂があります。明治36年(1903年)の再建です。護摩祈祷はこちらで行われます。本尊は不動明王です。
こちらは写経輪堂と称するお堂です。一切経が納められています。
このお堂には車輪とレールが付いていて、回転させることができます。一周回すと、一切経をひと通り写経したことになるそうです。経蔵の中央にこのような仕組みのものを見かけることはありますが、屋外で「ご自由にどうぞ」的なものは珍しいですね。魔尼車の上位版と思えばよいでしょうか。
大本山須磨寺の鐘楼としては小さ過ぎる気もしますが、「弁慶の鐘」と称する由緒ある鐘です。現在は廃寺になっている神戸市北区山田町の安養寺にあった鐘で、一ノ谷の合戦の際に、武蔵坊弁慶が長刀の先にこの鐘を吊るし、もう一方の端に提灯を吊るして陣鐘の代用としたと伝えられています。釣り合わないものの例えとして使われる「提灯に釣り鐘」という諺は、この伝説が元になっています。
神戸は海→街→山が狭いのが特徴です。須磨寺の背後には山があって、そこも須磨寺の境内となっています。山の中に奥の院があり、奥の院への参道には十三仏と七福神の巡礼路となっています。
こちらは本堂の左にある大師堂です。本尊は弘法大師像で、真言八祖を祀っています。真言八祖は大日如来から弘法大師に至るまで、真言密教を繋いできた高僧(?)たちのことですが、伝説上の話で、人だか仏だかわかりません。真言宗のお葬式では大日如来から故人まで、真言密教の教えが受け継がれた証として血脈を授ける儀礼があります。その儀礼で大日如来→金剛薩埵→……と、真言密教の受け継がれた系譜を読み上げるのですが、それが真言八祖と呼ばれています。最後は弘法大師なのですが、お葬式ではその後に菩提寺の開祖や現在の住職がいて、そして故人まで受け継がれましたと故人の戒名を読み上げます。
こちらは義経腰掛けの松です。義経腰掛けの松は須磨寺だけでなく様々な場所にあるのですが、この松に腰掛けて、義経が平敦盛の首を実検したと言われています。
ここからは書院・本坊・庫裏と、須磨寺の内務的なエリアになります。基本的には檀家さんや宗門関係者でなければ、あまり立ち入ることもない場所です。
このような場所で何が行われているのか気になりますよね。寺院はサービス業ではないのですが、檀家さん向けの様々な行事が行われています。例えば御詠歌や写経や座禅などの会がポピュラーです。須磨寺では琴の会があるそうです。
仏教の勉強会や法話会や講演会が行われたり、
他には檀家総代や宗門内の会合や行事に利用されています。
こちらは八角堂で、経木供養所・水施餓鬼場と呼なっています。1枚100円の経木に戒名や俗名や先祖代々や水子などと記入して供養してもらいます。訪問時に僧侶がひとり、八角堂の中央で読経していました。
平成29年に解体新築したお堂で、見た目にも新しいです。水施餓鬼というのは、飢えと乾きの世界にいる餓鬼を供養して仏の世界に導くことですが、経木を水に流すなど水辺で行う施餓鬼供養のことです。こちらにも経木を水をかけて供養することができるようになっています。左側には水子地蔵がご安置されています。
五智如来の石像が並んできます。五智如来は密教の五知恵を司る五体の如来のことです。前列中央が大日如来で、他には阿閦(あしゅく)如来、宝生如来、観自在王如来、不空成就如来、と聞き馴染みのない名前になっています。
こちらは出世稲荷社です。現在の日本の首都は東京ですが、かつて平清盛によって兵庫県神戸市が日本の首都になったことがあります。その福原京遷都の際に、都の守護神としてこの稲荷明神を湊川に奉安したところ、出世稲荷として広く庶民の信仰を集めたそうです。明治中期に湊川改修に際し、平家ゆかりの須磨寺に遷座したのだそうです。
一ノ谷弁財天女と書かれています。弁天様なので池があって橋が架かっている構図が造られています。ひとすじ弁天と扁額がかかっています。須磨琴を弾く姿の弁財天がお祀りされているそうです。須磨琴は一枚の板に一本の弦を張っただけの原始的な琴で、兵庫県の無形文化財に指定されています。
須磨寺のシンボルのひとつ三重塔です。400年前の文禄大地震で倒壊した塔を、弘法大師1150年遠忌、須磨寺開創1100年、平敦盛800年遠忌を記念して、昭和59年に再建したというものです。大日如来を中心に多くの仏像をお祀りしています。
緑を背に建つ塔は絵になると言いますか、格好いいですね。
塔の敷地には四国八十八ヶ所お砂踏み霊場があります。これは四国八十八ヶ所の寺院の砂を足元に埋めて、その砂を踏みながら巡礼することで、実際にお遍路したものと同じご利益が得られると言われています。全国各地の真言宗寺院に同様のものがたくさんあります。須磨寺では足元のお砂がガラス張りの中に埋まっていて、各寺院の砂を目で見ながら巡礼することができます。
きんぽとん童子と名付けられた奇妙な像です。足を組んだ子どもが笛を吹いているのですが、後光というか日輪というか、背後に輝きを放ち、雲に乗って楽器を奏でる7体の童子を従えています。きんぽとんの「きん」は金太郎の「金」で、きんぽとんの「ぽ」は浦島太郎の「浦」で、きんぽとんの「とん」は平敦盛の「敦」とのこと。それぞれにあやかって、良き子になるようにと願い込めて、子どもを守る存在として祀られています。
一畑薬師如来です。島根県一畑寺の本尊薬師如来を勧請したと言われています。一畑寺は浅草寺や須磨寺と同じく、漁師が海中から薬師像を引き上げたという伝説が由緒となっています。現在は臨済宗妙心寺派ですが、かつては臨済宗南禅寺派、天台宗の寺院でした。このような寺院は宗派というよりも薬師信仰に支えられていますから、一畑薬師教団の総本山という側面も持ち合わせています。
大正4年に須磨沖で起こった親子心中事件が「須磨の仇波」というタイトルで映画演劇に上演され、全国的に有名になったそうです。亡くなった親子の霊を慰めると共に、家庭不和に嘆く者が無くなるようにと願いを込めて親子地蔵尊が造立されました。
平敦盛の首塚です。熊谷直実に討たれた敦盛は17歳という若さで、笛を愛する少年だったことから物語が紡がれて後世に伝えられています。創られたお話なのかと思うことなかれ。その後の熊谷直実の人生を考えると、少年の命を奪ったことがどれほどの重さがあったのかが推し量られます。
こちらは合祀タイプの永代供養の納骨堂で、萬霊堂と称します。須磨寺では個別タイプの納骨堂である青葉殿と、この萬霊堂があります。おそらくまだ新しいので、とても綺麗です。
須磨寺はYoutubeに力を入れていて、寺務長の小池陽人さんの法話をメインとしたチャンネルが人気です。寺院のYoutubeにも寺院活動の裏側紹介がメインだったり、仏教の教えを解説がメインだったり、伝統仏事の紹介がメインだったりと様々ありますが、小池陽人さんの法話は、小池さん自身が体験した出来事のお話が多くて、とても面白いです。お坊さんは日常の生活をこんな風に感じながら過ごしているのだなぁと、そこから気づきを得られることも多くあります。
須磨寺は建物が比較的新しいので、歴史の重みや伝統を建築物から感じることは無いのですが、須磨寺を訪れてお参りしている人々の姿や、淡々とお務めをしている僧侶の姿から、周辺地域の人々と共に千年超の歴史を歩んできた寺院という雰囲気が境内に漂っていました。
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