
浄土宗 傳通院 目次
名称・寺格
無量山 伝通院 寿経寺と称する浄土宗の寺院です。寺格は特にありません。
創建
応永22年(1415年)、浄土宗第七祖の聖冏こと了誉に創建されました。
本尊
みどころ
閑静な住宅街に美しい山門が映える寺院です。徳川家の菩提寺のひとつであり、墓地には著名人のお墓が多くあります。
アクセス
文京区小石川3丁目14-6
東京メトロ南北線・丸の内線「後楽園」徒歩10分
探訪レポート

2012年再建の山門の正面には幅広い参道がまっすぐ続きますが、いわゆる門前町のように参拝客向けの店が立ち並ぶような参道ではありません。マンションが並ぶ参道ですが、その中に日本指圧専門学校があります。50代以上の方々には懐かしい浪越徳治郎さんの銅像がありました。ビートたけしの「元気が出るテレビ」に出演していた「アッハー浪越」「ジェット浪越」として人気を博した方ですが、指圧業界で大きな功績を残した偉大なる先人です。

徳川家の菩提寺と言えば芝の増上寺と上野の寛永寺が有名ですが、将軍以外の徳川家ゆかりの人物は増上寺と寛永寺以外の寺院にも埋葬されていますし、位牌と墓が別々の寺院にある場合も多く、徳川家ゆかりの寺院は全国にあります。この傳通院は徳川家康の生母である於大の方の墓があることで有名です。傳通院というのは於大の方の戒名につけられた院号で、そもそもは浄土宗第七祖の聖冏こと了誉がこの付近に無量山寿経寺という草庵を結んだことに始まります。当初家康は生母を増上寺に埋葬しようとしましたが、増上寺を創建した聖聡の師である了誉が開いたということで、無量山寿経寺を菩提寺として堂宇を建て寺院を建立しました。

山門を入って左側に石碑などが並ぶエリアがあります。傳通院は江戸時代徳川家の庇護を受けてきました。多くの学僧が集う壇林として繁栄し、徳川家の女性や子供が多く傳通院に埋葬されました。江戸時代には増上寺や寛永寺と並び三霊山と称されていた傳通院ですが、明治時代になると廃仏毀釈のために衰えてしまいます。

こちらは法蔵地蔵尊です。脇侍は右が観音菩薩で左が勢至菩薩です。法蔵地蔵尊の法蔵とは法蔵菩薩のことです。菩薩とは厳密にはまだ悟りを開いていない状態で、悟りを開いて仏様になると如来と呼びます。お釈迦様は悟りを開いたので釈迦菩薩ではなく釈迦如来と呼びます。実は法蔵菩薩もすでに悟りを開いていて、それが皆様ご存じの阿弥陀如来なのです。では、法蔵地蔵とは何でしょう? 阿弥陀如来が衆生に寄り添うべく菩薩に成り下がった姿が法蔵菩薩とされています。

指塚とは珍しい。浪越徳治郎さんが寄進されたものです。筆塚や包丁塚など、それぞれの職業で使われる道具に対する感謝の念から塚を築くことがあります。指圧師の浪越徳治郎さんにとっては、指がその道具なのですね。

見るからに新しい鐘楼堂ですが、2019年に落慶したものです。季節は冬ですが、紅く色付いた木の葉が美しいです。江戸の寺院ですから何度かの大火で堂宇を焼失しました。先の大戦の東京大空襲でもほぼすべての堂宇が焼失したとのこと。そんな中この鐘楼は戦火を生き残ったもので、天保10年(1839年)に鋳造されたものです。

本堂には阿弥陀如来がご安置されています。於大の方の念持仏であった阿弥陀如来は、元の塔頭寺院であった善光寺(文京区)の本尊となっています。傳通院の本尊の阿弥陀如来は、平安時代の恵心僧都源信作とされています。恵心僧都源信は「往生要集」で有名で、阿弥陀信仰の核となる天台宗の僧です。角大師で有名な元三大師良源の弟子です。

さて、こちらが於大の方の墓です。於大の方は徳川家康の生母なので、徳川家繁栄の礎のような存在にあやかりたいと多くの人々の崇敬を集めています。於大の方は今川家の勢力に組みしていた松平家に嫁ぎ、家康を生んだのですが、実家が織田家の勢力側になったために離縁され、その後再婚して子を授かっています。言わば家康は元旦那に引き取られた子で、現代なら新しい家庭があればほぼ他人のように暮らすのでしょうが、天下人の生母となれば話は別ですね。

於大の方の他にも徳川家の他、徳川二代秀忠の娘千姫、三代家光の正室孝子など、徳川家ゆかりの方々の墓があります。小石川伝通院は多くの文学作品に登場するのですが、佐藤春夫や柴田錬三郎の墓もあります。ちなみに。浪越徳治郎さんもこの傳通院に眠っています。

如是我聞の石碑です。奥の方に日本庭園が整えられています。そこまでは入れないのですが、書院から眺めると美しいでしょうね。如是我聞というのは、多くの経典の始めに書かれている文言です。直訳すると「私はこのように聞きました」となるのですが、これはお経が編纂されたのが、釈迦の死後数百年経ってからということに起因しています。それまでは釈迦の教えは、師から弟子に語り継がれてきたのです。ですから、教えを説く前に「私はこのように聞きました」と前置きしているのです。
戦禍のため新しい堂宇が多く、歴史を感じるものばかりという訳ではありませんが、徳川将軍家が支配した社会に触れることのできる寺院です。
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