ひとり暮らしが性に合う人もいるでしょうし、大家族だったのに子が巣立ち伴侶に先立たれてひとり暮らしになった人もいるでしょう。生き方はそれぞれの自由で、自身の運と選択の末に今がある訳ですが、孤独死はそんな肯定的な生き方とは対照的な光景を生み出すことがあります。
問題のひとつが、人は亡くなった瞬間から腐敗が始まるということです。特に夏は進行が早く、数日でドロドロになってしまうこともあります。そうなると、生前の偉業や人柄に関係なく、無残な外見に変化し、酷い悪臭を放つようになります。

以前は葬儀社が仕事を得るための過剰サービスとして、警察の領域の仕事も担っていました。ご遺体を「現場」から警察の霊安室に移動するのも葬儀社の仕事でした。「現場」と言っても、きれいな部屋の中とは限りません。天井に頭が着くほどゴミが堆積した部屋に潜入したり、溶け出た脂肪でドロドロになった風呂桶から引き上げたりすることもありました。また、屋内だけでなく、高層ビルの下、鉄道の線路上、畑だった藪の中など、人が亡くなる場所は様々です。

私は他人ですから、見た目と臭いのエグさに耐えれば良いのですが、家族の身になると居たたまれない気持ちになります。
ある日、ひとり暮らしでこたつの中で亡くなっていた年老いた男性を警察に引き取りに行った時のお話。霊安室の扉を空けて一歩踏み入る前に、あまりの刺激臭に「うぅ」と扉を閉めてしまいました。「これは凄いね」と葬儀社の社員と会話して、とりあえず香炉に線香を立てまくり、霊安室の中に置いてしばらく放置しました。

翌日、故人の妹が長野県からひとりやってきました。それまでは賃貸物件の大家さんが手助けしてくれていました。ご遺体は妹さんの了承を得て前日に棺に納めていて、臭いが漏れるのを防ぐために、棺のフタやあらゆる隙間をテープで封じて火葬場の霊安室に預けています。
「やっぱり顔は見られないんですか?」
顔が見られなくなることは前日に了承を得ていましたが、妹さんは名残惜しいようでした。テープを剥がして蓋を空け、分厚いビニール製の納体袋のチャックを開ければ、顔は見られるし故人に触れることもできます。しかし、火葬場は公共の場で多くの方々が利用されています。密封しなければならないほどの状態の棺のふたを開けると、大きな迷惑になってしまいます。そして、妹さんが見たいといったその顔は、おそらく妹さんが見たこともない顔です。腐敗した無残な外見から強烈な臭いを放つ兄を見ることが、妹さんにとって良いことなのか、悪いことなのか⋯⋯。経験上、会えば良かった、会わなければ良かった、どちらが正解かは神のみぞ知るところです。葬儀社は神様ではないので、状況の説明はしますが、判断は家族に委ねられます。
悩み抜いた妹さんは、棺の上に花束を供えたいと言いました。翌日の火葬の前に葬儀社が花束を用意することになっていましたが、妹さんは自分で花を選びたいとのことでしたので、ホテル近くの花屋さんを探しました。ホテルまで送ろうとすると、これから大家さんと会う予定とのことで、大家さんの家まで送ることになりました。お兄さんとは長年会っていないから、東京に住んでいるということ以外近況はわからないそうです。親しい友人やお世話になっている人たちがいても、逝去をお報せできず礼を欠いてしまうことを心配していました。
大家さんに挨拶して、終の棲家に行くことになりました。築古の木造アパートの1室は、想像していたよりも臭いが薄まっていました。妹さんがしばらく部屋の中を見たいということでしたので、私たちは1時間ほど車を止めて待っていました。さすがに長野県からやってきたばかりの人を、杉並区の住宅地に置き去りできません。

近況を知らない兄の終の棲家で、妹さんは何を感じたでしょうか? そこから「嫌われ松子の一生」のような壮大なストーリーが展開したのでしょうか? 火葬当日、妹さんの小柄な体には不釣り合いな大きな花束を抱えた姿が、今でも脳裏に思い浮かびます。
( ※ 写真はイメージのためのフリー素材です)
ーーーーーーーーーーーーーーー
