「千ヶ瀬河辺下通り」を歩いて進んでいます。JR青梅線で言うと「河辺」から「東青梅」に向かっています。後から地図で見ると、ここで千ヶ瀬神社というわりと大きめの神社に差し掛かるのですが、気づかずに多摩川方面に曲がって行ってしまっています。こういうことは結構あると思いますので、ご了承ください。
住宅の間にある社ですが、鳥居や灯明があって立派です。はっきり言って個人の敷地なのでしょうけど、このように外からお参りできるようにしてくれています。住宅街ですが、音と空気で多摩川がすぐそこにあることがわかります。
下奥多摩橋から見た多摩川です。川幅がぐっと狭くなっていますね。両岸には木々が生い茂り、人の暮らす社会との境界線となっています。欲と穢れに満ちた世の中と神聖な川の間を隔てて、川の浄化を守っています。しかし、橋の上から眺めていると、川もまた欲と穢れに満ちた川であることを悟ったりします。
千ヶ瀬河辺下通りと多摩川の間にある通りを進みます。下奥多摩橋を通過すると、すぐに葬儀屋さんがあって、忙しそうにしているのが見えました。そこから少し進んだところに、驟徳院がありました。臨済宗建長寺派の寺院です。このあたりに建長寺派の寺院が多いのは、多摩川を渡った対岸にある玉泉寺の影響なのかなと思います。
創建は不詳ですが、江戸後期には存在していたようです。境内にはおおきな観音像が建っていました。比較的新しいもののようで、寄贈する方がいらっしゃるということがわかります。どうも、このように辺鄙(失礼)な場所にあるお寺は、存続を心配していまいます。聚徳院は比較的墓地が大きいので、余計なお世話だと思いますが、無住っぽい感じも受けました。訪れた時はちょうど法事かお墓参りの方々が境内に集っていたので、邪魔者の私はそそくさと失礼しました。
聚徳院の前の道を少し進んだところに日枝神社があります。こちらは民家の敷地とかではなく、神社の体裁が見受けられます。左側に社務所と書かれた建物もあります。調べてみると、この日枝神社の御神体は猿の人形だそうです。猿は山王権現のご神使で、港区の山王日枝神社にも猿がいましたね。お隣の摂社は、「大山祇神・玉川大神」の二柱が祀られていました。本来、大山祇神は日枝神社の御祭神なのですが、神使の猿に追い出されてしまったのでしょうか。境内もきれいで、地域の人たちによってしっかり守られている感じを受けました。もしかしたら管理をしている神社があるのかもです。
調布橋です。調布橋は秋川街道が走っていて、青梅~日の出町・あきる野市を結ぶ道として古くから重宝されたと思われます。調布橋ができるまでは「千ヶ瀬の渡し」が大正10年まで活躍していました。橋の袂にはそんな調布橋の歴史が書かれたプレートがたくさんあって、地域住民と調布橋の繋がりの強さが伺えます。
調布橋から青梅街道へ出て、少し歩いたらまた多摩川の方へ向かいます。奥多摩街道って青梅駅あたりで終わってしまうんですね。名称からもっと先まであるのだと思っていました。ちょうど青梅街道から曲がったところに祠がありました。左側はお地蔵様だと思われますが、右側がよくわかりませんでした。
鮎美橋です。個人的には、多摩川にかかる橋の中でも、最も美しい斜張橋ではないかと思います。鮎美橋を渡って、多摩川右岸にお邪魔します。
これがあの多摩川とは信じがたい景色になっています。すっかり渓流のような装いで、別のところに広く大きな川が流れていそうですが、これが多摩川の主流なのです。この多摩川右岸は釜の淵公園という緑地公園になっています。釜の淵というのは、川の流れが岩盤に当たって大きく方向を変えている、丸く深い淵のことを言うそうです。
久々にキロ杭を見つけました。多摩川右岸61kmです。釜ヶ淵公園内には古民家や郷土博物館があります。川原でキャンプ用具を広げて、くつろぐ方がたくさんいました。バーベキューも自由にして良いそうです。
柳渕橋を渡って、再び左岸に戻ります。この橋の袂に、「若鮎の像」というバンザイをして横に向いた女性の裸像があります。これは琵琶湖の若鮎をこの地に放流し、生息できるかという実験が行われた記念碑だそうです。現在、全国の川に琵琶湖の鮎が生息しているのは、ここで行われた実験が成功したからだそうです。訪れた時はバイクのツーリングチームが休憩していて、女性の裸の像に盛り上がっていました。若鮎に興ずる若人を横目に、ガシガシと突き進みます。
多摩川左岸巡礼68番:八坂神社
なんと申しますか、羽村~青梅の間で顕著だったのが、一般に公開されているお社やお堂があるのですが、どう見ても個人宅の入口だったり、生活感のある敷地を通っていったりと、入るのに躊躇する場所が多いです。こちらもそんなお社です。この隣に観音堂がありましたが、住人の方かご近所さんかが井戸端会議をされていて、訪れるのを躊躇ってしまいました。(後で調べたら、常保寺の観音堂でした)私は社やお堂の維持管理に寄与しない完全なるよそ者ですから、住民の皆さんの邪魔をしないというのを大前提に探訪していきます。
多摩川左岸巡礼69番:稲荷神社
通りを渡ったところにあった稲荷神社です。ここも個人の敷地内のお社を一般に開放している形の神社だと思われます。不躾な話ですが、こういうお社って権利関係や税金関係ってどうなっているんでしょうね。
寺社を参拝すると、本堂や拝殿の中央に鈴が吊るされていて、紐が垂れていて鳴らすような仕組みになっています。私はこれをほとんど鳴らさないでお参りしています。お祓いとかお清めとか神仏を呼ぶためとか、いろいろと大切な意味があって鳴らすようになっているとは思うのですが、特にこの( ↑ )ような無人の小規模のものですと、取れちゃったらどうしよう? と不安になるので、触らないようにしています。
稲荷神社から大通りを青梅駅の方へ向かってすぐ、清宝院があります。こちらはかなり魅力的な寺院で訪れるのを楽しみにしていましたが、伺った時にちょうど法事をしていました。本堂の扉が空いていて、中から読経の声が聞こえ、親族が参列している様子が伺えました。私は通り過ぎるだけの存在なので、地域の方や檀家さんの邪魔をしないように、というのがこの探訪の大前提です。山門から遥拝して引き返しました。
清宝院は真言宗の単立寺院です。単立というのはどの宗派団体にも属していないという意味です。宗派という団体はピラミッドのような構造になっていて、例えば真言宗智山派ですと、頂点に総本山の京都の智積院があり、その下に大本山である成田山新勝寺、高尾山薬王院、川崎大師平間寺があります。その下に高幡不動尊などの別格本山が数カ寺あり、その末寺、さらにその末寺という団体構造になっています。単立寺院というのは、そのような宗派団体に所属せず、単体のみで運営されている寺院のことです。しかし、清宝院は成田山という山号の通り、真言宗智山派の大本山、成田山新勝寺と深い関係があります。新勝寺は成田不動尊と言うように不動尊信仰の寺院です。このご利益を勧請した別院、分院、末寺がたくさんあり、それぞれ成田山と称することが多いのです。成田山清宝院も新勝寺で開眼供養された不動明王を本尊としています。
こちらの東光寺は建てられたばかりですね。道路工事の関係で移築したのだとか。ものすごくきれいなのですが、やはりお寺は年代が味を出すと言いますか、少し寂しい感じがします。堂宇も本堂と庫裏くらいです。かなりだだっ広い感じの敷地になっていますので、これから色々と充実していくのかなと思います。
墓地も広くてきれいです。おそらく青梅市の人口は緩やかに減っていくと思われますので、今後墓地がどんどん拡大していくことは無いのかなと思いますが、この新しいお寺がどんな風に歴史を重ねていくのか、楽しみですね。永代供養墓らしきものも見受けられます。多くの方が集まるお寺になると良いです。
少し青梅駅の方へ戻ると、常保寺があるのですが、またまた訪れた時間帯にお葬式をしていて、入れない状態でした。ちょうど出棺時間だったようで、前を通りかかったら、係の人に「車が出ますので、お待ち下さい」と止められました。この車列が8台くらいあって長かったのですが、一緒に待っていたおじさんは、待ちきれずに車列に突っ込んで横切っていってしまいました。葬儀あるあるです。車や人の流れを止めることが多いのですが、警察でもなければ、道路工事のように許可を取っているわけでもないので、何の権限もなく道行く車や人に頭を下げて止まってもらうのです。急いでいる人もいるでしょうし、中には無視されることもあります。ということで、常保寺には立ち寄れませんでしたが、歩いていると常保寺の瑠璃堂というお堂が、境内と離れた場所にありました。これは常保寺の鬼門の方角に建てられた薬師堂だそうです。
多摩川左岸巡礼73番:瘡守稲荷
また常保寺の方へ戻ると、葬儀屋さんや関係者のトラックが乗り入れられてお葬式の後片付けをしていました。常保寺を通り抜けて西に向かうと、天ヶ瀬体育館の裏に瘡守稲荷があります。瘡守稲荷というのは笠森稲荷とか、瘡護稲荷とか漢字が当てられ、各地に見られます。これは、江戸時代は火事や地震よりも恐れられたという疱瘡(天然痘)から、身を守るご神徳を求めた神社です。あまりに恐ろしいので、疱瘡の神がいると信じられて、疱瘡の神を敬い祀ることで、疱瘡から守っていただこうという信仰です。この瘡守稲荷社がある土地は、この後訪れる金剛寺の寺領で、境内社のような位置づけにあるようです。神仏習合の稲荷大明神として存在していたのを、明治維新で神仏分離したものと思われます。今でも、例大祭では金剛寺の僧侶が読経するそうです。
そんな天ヶ瀬一帯の神仏の起点となっている、金剛寺にやって来ました。先ほど訪れた瘡守稲荷のみならず、東光寺はそもそもこの金剛寺を中心に四囲に置かれた寺院のひとつだったそうですし、常保寺を創建したのも、金剛寺の住職だったそうです。常保寺は最初は真言宗の寺院として建立されたのですね。金剛寺の境内はそんな由緒正しき雰囲気が漂っていました。金剛寺の山号は青梅山と言って、平将門が願をかけた梅の木が今も境内にあるそうです。将門の青梅は、現在青梅市として土地の名前になっています。
境内はとても広くて立派です。またまた法事の一団がいらっしゃいましたが、特に邪魔をすることなく拝観できました。調べてみるとやはりただならぬ寺院で、真言宗豊山派の管長を複数名輩出するような寺院でした。宗派内の人事は我々衆生にはそれ程関係もないとはいえ、宗派内では一大事です。菩提寺の住職が宗派のトップになるような寺院であることは、檀家さんにとっても誇らしいのかもしれません。そんな金剛寺は幼稚園も運営していて、日頃は由緒正しき境内に子どもたちの遊ぶ声が響いているのでしょう。
こちらは境内の片隅ですが、動物の慰霊碑が建っています。真新しい台座に鎮座されている仏様は、永年多くの命を見守ってきた感があって、今も動物慰霊碑を守ってくださっているように見えます。
金剛寺の真裏に位置する場所に瑞宝院がありました。こちらは真言宗醍醐派の寺院、と言いますか天ヶ瀬不動教会となっています。真言宗醍醐派は修験道の流れを汲んでいますので、寺院は修業の場なのでしょうか、教会と称しています。
隣には稲荷神社がありました。瑞宝院の本堂の扉から人が出入りしていたので、おそらくはお寺の住職さんかその家族の方だと思われます。リュックを背負ってウロウロしている私は絶対に怪しいのですが、見て見ぬ振りをしてくれているようでした。
多摩川左岸巡礼76番:八坂神社
瑞宝院から天ケ瀬通りに下りて、西に向かうとすぐに八坂神社がありました。こちらは本殿と右に神楽殿らしき建物があるだけの社です。由緒書きによりますと、祇園信仰の牛頭天王社として京都祇園から勧請した社とのとこ。この地は江戸時代以前は武蔵と甲斐を結ぶ要衝の地であったことから、この牛頭天王社は青梅を中心にこの地域随一の社であったそうです。本家の京都と同じように、明治維新で八坂神社に改名し現在に至っているそうです。
天ケ瀬通りが青梅街道に合流する直前に、神明橋通りに入って、また細い道をつらつらと進みます。神明橋を渡ってすぐに左に坂を降りると、九十九神社があります。この九十九神社は、ここまで訪れてきた神社の中でも、最も強烈な雰囲気がありました。いつからこんな風に存在しているのかわからない苔蒸し具合、これぞ私が求めていた信仰のみがそこにある神殿といった感じです。当然ですが、創建や由緒について調べたってわかりゃしません。九十九神社の入口の前には猫がいました。人馴れしているようで、手を差し伸べれば寄ってきそうでした。しかし私は飼い猫を亡くしたショックから立ち直れていないので、猫に触れたり愛でたりすることを躊躇ってしまいます。神社に参拝した後、その守り主の猫にも手を降って去りました。猫は私が坂を上がっていく姿をずっと眺めていました。
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