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「僧の修行:性暴力事件と日本仏教」

天台宗の僧が14年に渡って女性を精神的に監禁し、性暴力や恫喝を繰り返したという事件がマスコミによって明るみになりました。

目次

日本式責任の取り方(逃れ方)

このような事件が起こると、政治家でも芸能人でも法人でも、同じような経緯で進行していきますね。自分が当事者だから一番よく知っているはずが、「調査の状況を見守ります」とか「捜査中のためコメントは控えます」とか。自民党の裏金議員も、今回の天台宗でもそこは同じですね。もっともらしく聞こえるが、理屈がおかしいです。そして人々の過熱が和らいだ頃に、事件の核心とは関係のない点、つまり「世間をお騒がせしました」「皆様にご心配をおかけしました」という点について謝罪することになります。その謝罪をしたら、それで一件落着にします。きっとこれが、この国では自分を守り、世間の反発を鎮め、責任を果たしたように見える方法なのでしょう。

政治家の裏金問題が発覚し始めた頃に田中真紀子さんが仰ってましたが、「やましいことがあるからコメントできないと言えばいい。国民はそんなに馬鹿じゃない。答弁を差し控えたらいけない。できないなら議員になることを差し控えたらいい」と、久々の真紀子節を展開していました。

 

金など要らぬ

被害者の尼僧は、かつて告発して一度不起訴になった事件を、新たに刑事事件や民事事件で訴えることは難しいと判断したのか、天台宗を相手に申告書を提出し、それをマスコミに訴えました。有名芸能人でも同じですが、性被害の窓口が警察でなくマスコミになっている日本社会はおかしいです。これって刑事告訴しても立証が難しいからですよね。被疑者の人権も考慮する必要がありますが、性被害事件を刑事事件で扱いにくい構造をどうにかすべきですね。さて、今回の事件では、性加害をした(とされる)僧だけでなく、それを隠匿した(とされる)師僧も同時に訴えられています。被害者の尼僧が天台宗に求めているのは、この二人の僧侶の僧籍の剝奪で、お金で解決することはできません。

 

スーパースター

天台宗的に頭が痛いのは、この師僧が、現在天台宗に6名しかいない千日回峰行を満行した「大阿闍梨」だということです。

以前当ブログで、インドで仏教が廃れた原因は、仏教に人々の心を引き付ける衝撃が足りないからと書きました。仏教に呪術的な密教の要素が発生したのは、心を引き付ける衝撃を与えて、他宗派に信者を流出させないためだったという説もあります。そういう意味で天台宗は、人の心を引き付ける衝撃的な修行を実施しています。そして、その衝撃的な修行をクリアした僧を数年に1度排出し、スーパースターに仕立て上げるのです。天台宗の「大阿闍梨」は信者が天台宗を信仰するのに欠かせない、憧れの存在であり「生き仏」なのです。事件発覚後に比叡山延暦寺で行われた「比叡の大護摩」でも、千日回峰行を満行した「北嶺大行満大阿闍梨」が導師を務めることが大々的に告知され、たくさんの信者が護摩木を奉納していました。

(※ 写真はイメージのためのフリー素材です)

 

天台宗の正念場

マスコミによって世間に知られるニュースにもなってしまったし、天台宗は知らぬ振りも難しい状況です。簡単に整理すると、今年の1月31日に被害者女性が会見を開き、事件を公表しました。天台宗宗務庁に加害者とされる二人の僧の僧籍剥奪を求めた申し立てを行ったことを発表しました。3月4日、天台宗宗務庁が被害者女性と代理人の弁護士にヒアリング調査を行いました。5月7日に天台宗宗務庁が四国の性暴力の加害者とされる寺院へ立ち入り調査しました。6月7日に被害者女性が天台宗宗務総長宛に、第三者委員会による調査を求める上申書を提出したと会見しました。

これらの状況の推移は、すべて被害者の会見で明らかになっていて、天台宗はマスコミの取材には応じておらず、加害者とされる僧もマスコミの取材に「天台宗から何も言うなと言われている」と答えています。

今回の事件では、千日回峰行を達成した「北嶺大先達大行満大阿闍梨」の称号を持つ「大僧正」という、「大」だらけの偉大な高僧が強姦事件に加担していたという疑惑が持たれています。最高位の僧を天台宗が調査し切れるのか、裁けるのかという問題もありますが、それよりも問題なのは「修行の意義」の崩壊です。

過酷な修行として有名な「千日回峰行」を達成できたのは、あまたの天台僧の中でもひと握り中のひと摘みです。だからこそ千日回峰行の達成者は「生き仏」のような聖人であるはずなのですが、実は強姦を隠匿し、被害者に金を渡して突き放す人物として訴えられています。過酷な修行を達成することと、その僧の人間性が無関係なら、修行をする意義が崩壊してしまうのではないでしょうか。被害者女性は、この大阿闍梨の僧籍の剥奪も要求しています。女性の要求に対して天台宗がどのように対応するのか、マスコミがどこまで粘り強く報じるかわかりませんが、事件の行く末を見守りたいです。

 

僧の修行とは

私たちが千日回峰行のような過酷な修行を見るのは、創り込まれたドキュメンタリー番組ですので、かなりの印象操作がなされています。各宗派が過酷な修行を紹介するとき、その過酷な部分を誇張しますので、これ以上厳しいことはこの世には無いように紹介されます。しかし、私は僧がする修行よりも、もっと厳しい状況を生きている人はたくさんいると思っています。それは、生まれつきの重病を抱える人や、不慮の事故で四肢や視覚聴覚を失った人という意味ではなく、街を当たり前に行き交う人々ですら、厳しい状況の中で喘ぎながら生きている人がたくさんいると思っています。

街を歩いていると、一生懸命働いている人を見かけます。今はその仕事をしていても、少し先の未来すら見えない世の中ですし、少子高齢化で30年も成長が止まったオワコンのような社会構造で、結婚や出産を諦める若者が増え、猛暑の中冷房を使うお金がなくて熱中症で亡くなる老人がいます。そんな中、衣食住の心配なく寺に籠もって、10年ほど修行に没頭すれば、全国の人々から「生き仏」と崇拝される一生が約束されるのです。この修行を達成した人=生き仏と見做すのは、間違えているのだと思います。

どんなに厳しくても、修行は手段に過ぎません。私の知っている天台宗の僧侶に、私よりも若い方ですが、とても法話の上手な方がいます。私は葬儀の仕事でその僧侶の法話を聞くのですが、新しい気づきを与えてくれるようなお話が多いです。知識が豊富で同じ話を二度しないし、相手に合わせた内容を語りかけていらっしゃいます。故人の人柄や生き様を忍ぶ話に、仏教や天台宗の教義を挟んで学びを与え、聞く人が前向きに生きるヒントのようなことを伝えます。どこでどんな修行をしてきたのか知りませんが、何も苦労しないでこのような法話はできないことはわかります。修行とはそういうものだと思います。

( ※ 写真はフリー素材です)

 

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