寺社探訪

寺社探訪とコラム

「お寺でパンパン問題」

ここ数年、ひとつの問題に答えを見出すべく悩み続けています。

とある寺院を訪れたときのこと。本堂でお参りをしていたら、隣に親子連れがいらっしゃいました。お父さんは神仏に真面目に向き合うことを息子に教えようと、厳しい口調で言いました。「礼して、もう一回礼して、ほら、二回するんだ。はい、パンパンして、最後にもう一回礼して、こらっ、ちゃんと礼して」という具合に。息子は途中でふざけようとしましたが、父親の真剣さが伝わり、ギクシャクしながらも教え通りにしていました。間違った知識が親から子に受け継がれていく瞬間、私は何も言えませんでした。

この「お寺でパンパン問題」は、何もこの時だけでなく、あちらこちらで見かけます。特に東京一の観光寺院である浅草寺では、本堂にいると1分も間を置かず「パンパン」と柏手を打つ音が聞こえてきます。今年のお正月も高幡不動尊不動明王にパンパンしている人がたくさんいました。若い方だけでなく、年輩の方でも、お寺でパンパンする方が結構います。

 

葬儀業界で仕事をしていると、宗派の差には人1倍敏感になります。真言宗豊山派真言宗智山派は、全く違う別の宗派として扱います。豊山派の僧侶を智山派と紹介したら、次の日から司会の仕事は来なくなります。ましてや、仏教と神道は全然違う別の国の宗教として扱います。

葬儀業界のフリーランス仲間に、先述の親子のことを話すと、「ん〜。それは注意できないなぁ」という答え。試しに、彼に矢継ぎ早にクイズを出しました。観音様は仏教?神道? 不動明王は仏教?神道? 大黒天は? 弁財天は? 八幡大菩薩は? 稲荷大明神は? 道祖神は? 庚申塔は? お盆は? お彼岸は? 節分は? 「うう、わからん。難しいですね」という答え。葬儀の専門家でも答えに窮するこの「神か仏か問題」。しかし、これらの区別を理解しないことには、「お寺でパンパン問題」は解決できません。悩ましい事態です。

 

そこで、発想を逆転させます。寺院と神社の区別がつかないのはなぜだ? を探ります。これは、明治時代までは仏教と神道の区別が極めて曖昧だったからです。いわゆる神仏習合という時代が千年続いていたのです。明治維新で神と仏は区別されましたが、誰かの都合で急に区別されても、着いていけなくて当然です。つまり、お寺でパンパンは当然の現象ということになります。実際に寺院と神社は本当によく似ているのです。門をくぐって境内に入り、手水舎で手と口を清めて拝殿(本堂)に向かい、綱を引いて鈴(鰐口)を鳴らして、お賽銭を投げてお祈りし、おみくじを引きます。仏教と神道は違う宗教だと言えない程に同じです。

また、逆転の発想で、お寺でパンパンではなく、神社で数珠をジョリジョリはいかがでしょうか?  数珠を常に携帯する人も少ないので、神社でジョリジョリはあまり見かけません。天台宗の有名な千日回峰行で行われる「京都大回り」を、TVなどで見たことがあるでしょうか? 回峰行を行う阿闍梨が、京都市内のお参りポイントを次々と訪問していくのですが、お参りポイントの中には八坂神社や下賀茂神社北野天満宮もあります。比叡山延暦寺の僧である阿闍梨が、神社の前で数珠をジョリジョリして、更にパンパンやっているのです。

以前、谷保天満宮の拝殿前で合掌して般若心経を唱えている人を見かけましたが、見ていてとても変でしたし、不敬な行動に思えました。しかし、お寺でパンパンが当然の行動なら、神社で読経も当然の行動であるべきです。こうなってくると、私達日本人にとって、神仏習合こそが信仰の本質なのか、神仏分離こそが信仰の本質なのか、という2択になってきます。現代は明治維新神仏分離がなされたまま、昭和になり日本国憲法で自由に信仰する権利が認められています。そこに正解はないのかもしれません。冒頭の親子を見て、間違った知識が親から子に受け継がれている、なんて感じるのは、事象を一方からしか見ない浅はかな考えなのかもしれません。神仏習合とは何なのかもっと知りたいと思います。

(※ 写真はフリー素材です)

 

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