寺社探訪

寺社探訪とコラム

天台宗 妙見寺

天台宗 妙見寺 目次

名称・寺格

神王山 観音院 妙見寺と称する天台宗の寺院です。寺格は特にありません。奥の院は北辰妙見尊、妙見宮と呼ばれています。

創建

天平宝宇4年(860年)に妙見宮が創建され、その別当寺として天永3年(1112年)に創建されました。

本尊

阿弥陀如来(妙見寺)

北辰妙見尊(妙見宮)

ご利益

妙見尊は、国土擁護、豊年、酒造 計画 運命 富貴寿命の守り神とされています。

みどころ

神社と寺院が隣り合っており、神仏習合の歴史を感じることができます。

アクセス

東京都稲城市百村1588

京王相模原線稲城」徒歩5分

探訪レポート

稲城市神仏習合の名残の濃い寺院があるとのことでやってきました。「この先行き止まり」の坂道を上がって間もなく、鳥居と山門が見えてきました。先に山門の方へ行きましょう。神王山という扁額が既に神仏習合を示していますね。

神仏習合というのは、神道と仏教が教義的に融合し、1つのものに再構築された信仰を言います。これは日本に仏教が伝来した頃から始まり、明治維新神仏分離令が出されるまで続きます。その影響で、今でもほとんどの日本人は神と仏の両方を信仰の対象としますし、仏教の作法と神道の作法の区別が難しいことも多々あります。

山門の裏側に手水舎があります。これ元々は獅子か何かの形をしていたのだと思いますが、風化して異様な形になっています。寺院と神社が隣りにあったり、同じ敷地にあったり、近くにあったりするのも、神仏習合の典型的なパターンです。神社に対して寺院の方が権力があったので、寺院が神社の運営も兼ねるようになり、それが進んで神社には運営を託す別当寺が必要という風習になります。大山阿夫利神社別当寺が大山寺で、神田明神別当寺が浅草の日輪寺、先日訪問した中野宝仙寺は杉並区の大宮八幡神社別当寺というように、セットで1つの信仰のようになっていました。古い家には神棚と仏壇の両方がありますが、地域の神社と地域の寺院が一緒に運営されていたのですから、当然のことなのです。牛頭天王社や権現を祀る神社のように、神社と寺院の建物や境内も1つになるパターンもあります。

六地蔵と鐘楼堂です。八百万の神々は、様々な仏が姿を変えて現れたもの、という本地垂迹説が神仏習合の特徴的な1つの根幹的な考えです。八幡神阿弥陀如来が神に姿を変えたもの、大国主命=大黒天、天照大御神大日如来、というような感じで、本地仏垂迹神を定め、その神仏が融合した神として権現、明神などが生み出されます。蔵王権現や飯綱権現、徳川家康も神仏が融合した東照大権現として祀られています。

こちらは珍しい伝教大師像です。最澄空海は何かにつけて比べられますが、空海が信仰の対象として全国的に祀られているのに対し、最澄を信仰の対象とした寺院はあまり聞いたことがありません。私の不勉強かもしれませんが、天台宗らしさを感じます。天台宗はその後派生した日本の宗教の源と言われます。以前天台宗の老僧に伺ったお話ですと、天台宗はお経が教義の元となっているので習得すべきお経の数が他宗派に比べて非常に多く、曹洞宗の以心伝心などは有り得ないのだとのことでした。最澄個人の求心力だけではなく、多種多様なお経(仏の教え)を網羅しているから、法然日蓮など後の宗祖たちが比叡山に学んだという訳です。

本堂の御本尊は阿弥陀如来ですが、ここはそもそも妙見信仰から始まった寺院です。妙見信仰は北極星や北斗七星にまつわる信仰で、中国の道教の影響が濃く、朝鮮半島を通じて日本に伝来する頃には既に神仏習合していて、更に日本で神道や仏教や山岳信仰と習合したものです。日本に妙見信仰を広めたのは百済高句麗からの渡来人とされています。古代~中世は元寇のみならず、朝鮮半島から攻めてきたり、日本から攻めて行ったり、朝鮮半島の内戦から日本に逃げ延びたりと、日本と朝鮮半島は人がダイナミックに行き来していました。

「住職の留守に昼寝をせしは虚子」と書かれています。高浜虚子の句ではなく、虚子のお孫さんの稲畑汀子さんの作品です。この方も俳句会の大御所だそうです。さて、天平宝字4年(760年)に新羅が九州に侵攻したのですが、この時代はこういう非常事態に対し、まず祈ることから始まります。勅命を受けた道忠禅師はこの地で七日七晩に渡る伏敵の祈祷を行いました。このとき勤修したのが尊星王の秘法、いわゆる妙見信仰でした。この祈祷によって妙見菩薩が青龍に乗って現れ、国難がたちまちに退かれました。そこで天皇は国主に命じてこの山に妙見宮を建てさせた、というのが創建の由緒です。そして天永3年(1112年)に、妙見宮の別当寺として妙見寺が建立されました。

妙法塔と書かれています。現在山上にある妙見宮は妙見寺の奥の院という位置づけになっていて、北辰妙見尊を祀っています。そのために妙見宮の神事は、妙見寺の住職が仏式の読経をして執り行っています。神仏習合の要素を含む寺院では珍しくはないのですが、神社の姿で存在している場所で僧侶がお勤めをするのは、やはり少し違和感を感じます。

今度は鳥居をくぐって神社側に行ってみましょう。階段を上がると少し広い場所に出ます。1月8日にここで神化祭という開運厄除の護摩供が行われ、蘇民将来の木札を授与するとのこと。蘇民将来というとスサノオの茅の輪くぐりの伝説ですが、妙見信仰と関係あるのでしょうか。鳥居の前に大きな札が3枚と小さな木札がたくさん奉納されていました。3枚の札の中央には神化祭に際して諸仏に対し真言を奉じて祈念しました的なことが書かれていました。左右の札には四天王の名が書かれていました。これに蘇民将来が絡んで僧侶が護摩供を行うという、謎の行事に興味が引かれます。

このお社には、七福神的な像が御安置されていました。

こちらは二十三夜塔です。「山+神」企画で一度ご紹介しました。塔の前に置いてあるカラカラに枯れた草の塊のようなものは、実は蛇の頭なのです。毎年8月に行われている、東京都の無形文化財に指定されている「蛇より祭」で使用されたものです。


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寛文2年(1662年)から行われている行事とのことですが、ほとんど地元の人以外知らないのではないでしょうか。地元の人が歓迎するかどうかはわかりませんが、見物客用に構成をアレンジして、うまくPRすれば大きなお祭りになりそうな気がします。

お狐様がいらっしゃるので、こちらのお社は稲荷社ですね。右の階段の端に縄のようなものが置いてありますが、これが先程の蛇の胴体部分で、山の上の妙見宮へ向かって伸びています。

途中に広めの踊り場があるので何段階かに分けて、階段を上がっていきます。分割されているからわかりにくいですが、下から合計すると結構な段数になると思います。この階段の左側にも蛇の胴体がおいてありますね。

山の上に着くと、妙見宮の境内になります。手水舎は使用禁止になっていました。天台宗的には妙見寺奥の院で、妙見菩薩を安置しているということですが、妙見寺よりも前から妙見宮だったので、あまりここを天台宗の寺院として訪れる人は少ないと思います。

筆塚です。境内にはいくつかの石碑が建っています。妙見信仰にも、日本三妙見なるものがあるそうです。埼玉県の秩父神社山口県の妙見宮鷲頭寺と、こちら稲城市の妙見寺が日本三妙見なのだそうです。妙見信仰というと千葉神社が有名ですが、寺院でも神社でも祀られているので、それぞれ独自の由緒があって、横の繋がりはあまりなさそうな感じです。

こちらが妙見宮、いわゆる奥の院です。おそらく地元の方々の感覚では、神社だ寺院だという認識ではなく、妙見様として1つの信仰なのだと思います。訪れた日は土曜日でしたが、私が妙見宮にいる間は、どなたも見かけませんでした。常駐のご住職がいらっしやる寺+神社という、中世の伝統的な神仏習合を受け継いでいて、由緒のしっかりした珍しい祭りを行っていて、何かのきっかけで大ブレイクしそうな寺院でした。

ちなみに山の上からの眺望は木々に囲まれて抜群とは言えません。誰にも合わずにここまで来ましたが、階段を降りていると、カメラを首から下げたご老人とすれ違いました。長閑なので、よく晴れた日に訪れることをおすすめします。

 

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