目次
人の居ぬ集落に足を踏み入れる余所者
荒川百所巡礼 第86番 高尾庚申塔
一面六臂の青面金剛像の庚申塔です。畑の横に安置されていて、しめ縄と紙垂がかけられています。足元には三猿が彫られていて、側面には建立した村の名前が刻まれていました。
荒川百所巡礼 第87番 地蔵尊
県道57号線、さいたま鴻巣線を進みます。大きいですが、このサイズのお地蔵様が珍しくなく続きます。地蔵札が貼られています。地蔵菩薩は六道輪廻の中で迷う衆生を救う仏だとされています。そのために、家族が亡くなるとちゃんと浄土に導いていただけるように、お札に亡くなった方の名前などを記して、お地蔵様の体に貼るという風習です。隣には六地蔵を刻んだ石版が建てられていました。
荒川百所巡礼 第88番 馬頭観音
県道を離れ荒川の方に向かいます。するとすぐに馬頭観音の石碑が現れます。実はこちらは裏側です。何かの文字が刻まれていたが風雪でツルツルになってしまったのだと勘違いしてしまいました。お恥ずかしい。通りに向かって背を向けて建立されている珍しい石碑なのですが、まんまと引っかかってしまいました。
荒川百所巡礼 第89番 北袋神社
北袋というのはこのあたりの地名です。北袋村の鎮守として神明社があり、地蔵院が別当寺でした。他に北袋村には、同じく地蔵院を別当寺とする熊野社や、関ケ原の合戦の落武者が土着して祀った橿城社(旧第六天社)がありました。時代が進むにつれて、北袋村は荒井村、石戸村と大きな村に合併されていきます。そのために石戸村は村内に村社や無格社を多数抱えることになり、神社も合併させる動きになりました。大正5年に北袋の熊野社と橿城社を含む4社を、旧荒井村の須賀神社に合祀する話が持ち上がり、これに対抗して北袋の人々は、熊野社と橿城社が他所へ移されるのを阻むために、神明社と熊野社と橿城社を合祀して北袋神社とした、ということです。
荒川百所巡礼 第90番 遠藤稲荷神社
北袋神社のすぐそばにあるので、もしかしたら境内社という扱いなのかもしれませんが、遠藤稲荷神社です。鳥居の扁額にそう書かれているから、遠藤稲荷神社なのだとわかりますが、それ以外のことは何もわかりません。いつから、どうして、ここに鎮座されているのか、わからなくても必ずその答えはあるはずで、余人の知らぬ由緒がある神社なのだと思います。
石造が3つ、北袋神社のそばにありました。お地蔵さまと青面金剛+三猿です。地蔵札が貼ってありますね。
更に荒川方面へ向かって畑の中の道を歩きますと、市の文化財として山王神社があると書かれていました。県道を離れて荒川に向かっているのに、山っぽい景色です。
隣に山王社という石碑が建っています。ずいぶん古そうな石碑です。
荒川百所巡礼 第92番 山王神社
どんどん歩いていくと、山王神社を見つけました。ここは狭い道の突き当りで、そこにある個人宅の敷地内にも見えます。観光地でもない、民家が数件の道の突き当りで歩いていると、変質者だと思われないか不安でいっぱいです。江戸時代中期以降、この神社は安産の神様として村人から親しまれていました。山王権現の神使である猿の石像が数十体奉納されていて、安産を願う村人が石猿を奉納したとのことです。
荒川百所巡礼 第93番 地蔵尊
少し戻って、さらに奥へ向かいます。その分岐点にお地蔵さまがいらっしゃいました。道端のお地蔵さまにしてはサイズが大きすぎますね。これがこのあたりのスタンダードのようです。この道の奥は民家が2件あるだけの区画で、ここへ入っていく部外者はほぼ皆無だと思われます。
荒川百所巡礼 第94番 地蔵院
2軒の民家と共に地蔵院がありました。もちろん無住で、墓地があるから残っているようなお堂ですが、れっきとした寺院なのです。地蔵院北袋山延命寺と称する真言宗智山派の寺院で、貞享2年(1685年)に常勝寺の末寺として建立されました。本尊は地蔵尊で、本堂は何度かの改修、修理を経て、平成4年に建て替えられたものです。
北本市→鴻巣市 愛宕神社は階段の上
荒川百所巡礼 第95番 愛宕神社
県道に戻って、荒川の川上方面へ進みます。するとすぐに愛宕神社があります。ここから鴻巣市に入ります。実は鴻巣市に足を踏み入れるのは二度目ですが、あまり良い印象がありません。もう10年ほど前のことですが、ほぼ車通りも人通りもない道路でネズミ捕りに捕まったからです。交通違反で捕まる人が皆一様に思うことを、その時私も感じました。「もっと悪い人たくさんいるでしょ?」とはいえ、私が悪いので何も言えないのですが。こちらの愛宕神社は境内に愛宕自治会館というコミュニティセンターがあり、奥に児童公園と保育園があります。人々の拠り所であり、寄り所な訳です。
嬉しいことに、ちゃんと階段の上に愛宕神社がありました。しかもかなり立派です。この愛宕神社はかなりの歴史があり、説明書きに書かれています。武蔵少掾(官職の名前)藤井元国という人がいました。元国は勝軍地蔵の教化を願い、その霊地を訪ね歩いていました。すると、この地で泊めてもらった庵の主である老女が、元国の信心に感銘を受け正体を現します。老女は地蔵に姿を変えて、光明を放ち、元国に教えを授けました。元国は長治2年(1105年)に山城国の愛宕山の神霊を、この地に社殿を造営して祀りました。その後、正慶2年(1333年)に新田義貞が挙兵した際に、家臣の世良田利長が剣を奉納して戦勝を祈願し、貞和4年(1348年)に武蔵権大目の藤井行久が社殿を改修し、神田を寄進したとのこと。かなりの由緒ですが、愛宕山の山岳信仰や修験道が融合した神仏習合の愛宕権現の本地仏とされているのが勝軍地蔵です。東京都港区の愛宕山にも、麓の真福寺の敷地に勝軍地蔵がいらっしゃいますね。神仏習合の時代は同じ原馬室村の妙楽寺が別当寺を務めていたそうです。
荒川百所巡礼 第96番 愛宕堂
愛宕神社前の県道を挟んだ反対側に、愛宕堂というお堂というか、集会所的な建物があります。ここは墓地になっているので、墓地+お堂という典型的な田舎の風景になっています。
荒川百所巡礼 第96番 馬頭観音
愛宕神社から程なく大きめの馬頭観音の石碑がありました。「馬頭尊」と刻まれています。右側は「馬頭観世音」、左は「山羊供養塔」と書かれています。山羊供養塔というのは初めてお目にかかりました。家畜の供養に建立したものでしょう。
荒川百所巡礼 第97番 妙楽寺
広い境内に特に何も無い寺院です。何も無いというのは大袈裟で、石碑や薬師堂がありますが、本堂や庫裏が大きくて立派で、何もなく広々しているように見えます。妙楽寺は応永年間に鎌倉建長寺の塔頭明月院の恵範が開山しました。その後、天正年間に真言宗智山派の常勝寺の末寺となったとのこと。
荒川百所巡礼 第98番 観音堂
さいたま鴻巣線という県道が合流して「なのはな通り」という名前になってすぐ、左手に大きなお堂の寺院がありました。こちらは真言宗智山派の観音堂です。文化年間(1804-1818年)に、妙楽寺の住職が名主の協力を得て伽藍を建立したとのこと。馬頭観音をお祀りし、陸運業に携わる人々の信仰を集めました。
立派なお堂で、隣には自治会館があります。お堂の前は広場になっていて、訪問時には犬の散歩の方がいらっしゃいました。この観音堂で行われる獅子舞は、埼玉県の無形文化財に指定されています。観音堂はあちこちにありますが、馬頭観音をお祀りしていて、このような大きなお堂が建っているのは珍しいですね。
荒川百所巡礼 第99番 馬頭観音
馬頭観音と言えばこのように道端に石碑が建てられているのがスタンダードに思います。右側の小さな石碑に馬頭観音と刻まれています。左側の大きな石碑には◯◯堂と読めるような漢字が書かれていますが、私には読めません。
なのはな通りを進みますと、水門と水路が見えてきました。この水路を辿れば荒川に合流しますが、ここからでは荒川の姿は全く見えません。土手の道が消滅したのか、ここが土手の道なのかわかりませんが、いったい海から何kmくらいなんでしょうか。広い畑の河川敷を進みます。
荒川百所巡礼達成
荒川百所巡礼 第100番 水神宮
ついに荒川百所巡礼も達成することができました。最初はほぼお参りポイントが無く、なかなか数字が上りませんでしたか、北本市、鴻巣市あたりから一気に来ましたね。百所目のお参りポイントは水神宮でした。荒川らしくて良いですね。右の大きな石碑は冠水橋の記念碑です。
荒川百所巡礼 第101番 谷津不動尊
水神宮の石碑の裏山の上、馬室小学校の南口横に鎮座しています。享保15年(1730年)に、村内安康万民豊楽を祈り、中島一族の守り本尊としてこの地に祀られたのだそうです。しかし、平成6年の火災で本尊ごと全焼してしまったそうです。それでも檀信徒の努力によって再建されたとあります。どこかの寺院の管理下にあるのでしょうね。このように不動尊だけがぽつんとあるような場所でも、ちゃんと人々が集まって年中行事を行っているのを見かけることがあります。伝統が続いていく力ってすごいですね。
荒川百所巡礼 第102番 地蔵尊
すぐそばの民家の塀にこのようなお地蔵さまがいらっしゃいました。かなり風化していますが、赤い帽子と前掛けをかけてもらっていますね。百所巡礼102番まで来ました。ゴールが見えない旅路で、どこでオチを付けるべきか模索しつつ歩いています。東京と埼玉の県境でもなく、100番達成でもなければ、どこまで行けばキリが良いのかわかりません。とにかく想像以上に寒いので、もしかしたらどこかで「休止」するかもしれません。今、「急死」と変換されました。不吉な・・・。
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