目次
北本七福神巡り
荒川百所巡礼 第74番 福禄寿
ここからは北本市に入ります。まさに辻という表現がぴったりくる角に、何やら様々建っています。大木の根元にある石碑は、松尾芭蕉の句碑です。芭蕉は江戸初期の俳人ですが、この句碑が建立されたのは江戸後期だそうです。「原中や 物にもつかず 啼雲雀(なきひばり)」という句が書かれています。何もない原や高い空で自由ではあるものの、寂しくもある雲雀を描いた句です。奥のお社は北本七福神と健康長寿を楽しむ会によって奉納された七福神巡りの拠点とのこと。福禄寿という看板が立っているのですが、中の石像を見ると、「本当に福禄寿なのか?」と疑問を持ってしまいます。お堂の横には「奉納 猿田彦大神」とも書かれています。「庚申塔じゃないの?」という言葉を喉の奥に押し留め、先へと進みます。
荒川百所巡礼 第75番 八幡神社
前回登場した八幡神社とほぼ同じシチュエーションに、ほぼ同じように八幡神社が現れました。この八幡宮は入り口が難しくて、桜堤通りの酒たばこ飲料品のお店、鈴木商店の角を曲がって民家と民家の間の通路を奥へ進むと鳥居が現れます。
どうして同じような感じで八幡神社が続けて建立されているのか、理由があるなら解明したいですが、通りすがりの私には知る由もないことです。このあたりの通りの風景はどこか懐かしい感じがします。初めて訪れるのですが、遺伝子に刻まれた日本の原風景が呼び起こされているのかもしれません。
荒川百所巡礼 第76番 放光寺
放光寺は天台宗の寺院だそうです。本堂の扉が閉まっていて、おそらく、専属の住職はいない様子です。江戸期には隣の天神社の別当寺だったとのことで、境内が繋がっています。左の赤い屋根が本堂で、右の建物が念仏堂です。枝垂れ桜が有名とのこと。このあたりの道は鎌倉街道と伝わる古街道で、石戸宿と呼ばれています。宿並三六軒と呼ばれた家並と屋号が書かれた案内板がありました。間口が狭く奥行きが広い地割だったそうで、まさに宿場町の特徴ですね。
荒川百所巡礼 第77番 石戸宿天神社
放光寺の隣に天神社があります。入口は違いますが中身は繋がっています。天神社ですから菅原道真をお祀りしています。この近くに石戸城という城跡があるのですが、石戸城の鎮守として創建されたという説があるそうです。江戸期には年に4回の市が立ち、賑わっていたそうです。祭礼に奉納される「ささら獅子舞」は北本市指定の無形文化財となっています。
拝殿はトタンで覆われて、なんとも味気ない感じですが、こうする理由があるからしているのでしょう。現在の本殿は宝暦3年(1753年)の造立だそうです。内陣には天満天神座像が奉安されているそうで、社蔵の木札に宝暦9年(1759年)に奉安されたものと書かれているそうです。
歩いて程なくすると石戸城跡へ向かう分かれ道があり、看板が設置されています。私は城跡を見るのは嫌いではないのですが、どこが廓でどこが虎口でと説明してもらわないとわからない素人なので、今回は飛ばしました。次回があるかはわかりません。
荒川百所巡礼 第78番 水神宮
通り沿いに水神宮がありました。石戸城にあったとされる天神社が城が無くなってから堤外に移され、荒川の流れが変わる度に何度も移転したと説明書きにありました。荒川の氾濫は人々の生活を変えるだけでなく、神様の居所まで変えてしまっていたのですね。
荒川百所巡礼 第79番 横田薬師堂
ここは薬師如来像を安置するために作られたお堂です。宝暦2年(1752年)に川越の宮大工が建てたそうです。明治初期に各家の近辺にあった墓が集められて、共同墓地となったそうです。昭和37年(1962年)に墓地を持つ人だけでなく、公会堂としても使用できるように、近隣区域の住人によって本堂と庫裏が改修されたようです。
荒川百所巡礼 第80番 石戸宿馬頭観世音
横田薬師堂の近くに馬頭観音の石碑がありました。
桜堤通りを進みますと、青い屋根の地蔵尊と馬頭観音がありました。お地蔵様の顔がズタズタになってしまっていて忍びないです。宿場のような雰囲気は無くなって、畑と民家が交互に訪れる通りになっています。少しずつですが、栄えている方へ向かっている気がします。
荒川百所巡礼 第82番 北向地蔵
交通量の多い県道33号線に当たり、桜堤通りは終点です。高尾地区の方へ路地を入っていくと、吹きっ晒しの畑の角にお地蔵様がいらっしゃいました。説明書きがあり、北向き地蔵尊とのことです。北を向いているから北向き地蔵です。本来敬うべき仏像は北向きには建てないのですが、地蔵菩薩は衆生と共にある菩薩様なので、北向きになっていることが多いです。説明書きに皮肉好きな私が興味を惹かれることが書かれていました。このお地蔵さまには泥団子をお供えして願いごとをし、願いが叶ったら米の団子をお供えする風習があるそうです。いわゆる成果主義・出来高報酬というやつです。お地蔵様も大変ですね。
賑わう境内の神社
荒川百所巡礼 第83番 須賀神社
北向き地蔵の少し先に神社が集まっているエリアがありました。これまでの神社と違って、参拝客が見受けられました。まず最初に訪れたのは須賀神社です。江戸時代は牛頭天王社と称していた、典型的な祇園信仰の神社だったようです。
入り口近くに北本七福神めぐりののぼり旗が立っていて、寿老人と書かれた立札がありました。お社の中を覗きますと、道祖神と書かれています。むぅ。どういうことなのでしょうか。北本市では市を挙げて七福神巡りをプッシュしていて、私のような余所者が文句を付けるつもりは毛頭ありませんが、何か喉の奥につかえるものがあります。
須賀神社の創建は天正年間(1573-1591年)とのことです。先ほど訪れた天台宗放光寺と同じく、川田谷村(桶川市川田谷)の泉福寺の末寺であった双徳寺が別当寺でしたが、明治維新で双徳寺は廃寺になり、当社は牛頭天王社から須賀神社に改名しました。明治11年に社殿が焼失しましたが、同年に再建されています。現在の社殿は昭和57年に建立されました。ここまでの神社とはレベルが違う立派な社殿です。
荒川百所巡礼 第84番 厳島神社
須賀神社の隣なのですが、少し下り坂になっていて、雰囲気がガラッと変わります。こちらは厳島神社です。更に階段を下りていくようになっています。
階段を降りると、人工的な池の中が丸い島になっていて、弁財天をお祀りしたお社があります。北本七福神めぐりの弁財天の立札があります。これぞ、典型的な厳島神社です。
お社の中をよくご覧いただきますと、賽銭箱の左の小机の上に、白い長いものが置かれています。これは実は安産祈願の腹帯です。金運アップで有名な弁財天に安産のご神徳があるのかは知りませんが、信じることが第一歩なので、しっかり乗っかっていきましょう。
荒川百所巡礼 第85番 高尾氷川神社
高尾氷川神社がこの周辺神社を管轄している、宮司常駐の神社です。駐車場もあって参拝客も結構いました。氷川神社ですから、素盞嗚尊をお祀りしています。年中行事も多く行われていて、しっかりした神社なのだと思います。おそらく、この地域には宮司常駐の神社は他に無いと思いますので、多くの神社を兼務しているようです。
手水舎に花飾りが施されています。人の少ない土手の道をひとり歩いてきたので、このような賑わいの欠片が気分を上げてくれます。
本殿は、これが正月仕様なのか、日頃からこんな感じなのかわかりませんが、こってり装飾されていました。境内では神社の関係者の方々が、何やら作業していました。
こちらは境内社で、北本七福神巡りの大黒天と恵比寿天の札が立っています。疑心暗鬼になっている私がよくよく観察しますと、琴平神社と書かれています。神社の説明書きに大物主神を祀っていると書かれているのが、この琴平神社のことだと思います。お社の中を覗くと、大黒天像がいっぱい。日本神話の中でも、古事記と日本書紀では内容が異なるのですが、大物主神=大国主=大黒天という図式もあることはあります。
神社を出ると、表参道の入口のように説明板や標識が立っている場所がありました。「これより石と舟とみち」と彫られた石柱ですが、亨保12年(1727年)に建てられたものの複製だそうです。側面に「北かうのす 西たかお」と書かれていて、道標となっています。「石と舟」は石戸河岸のことで、荒川の船運が盛んだったことを物語るものとなっています。今回歩いた福禄寿の辻󠄀(庚塚)からこの道標までの道は、鎌倉幕府へ通ずる鎌倉街道と伝えられる古街道とのことです。何があるからという訳でもなく、懐かしい雰囲気を感じるエリアでした。
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