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日本ランク15位
荒川 百所巡礼 第140番 荒川神社
荒川神社というわかりやすい名称です。見晴公園の敷地の半分くらいが荒川神社境内になっているような感じです。他に公園内には公衆トイレや地域の集会所があり、住民のための施設+拠り所となっています。
見た感じではどんな神様をお祀りしているのかわかりませんでした。案内板には年中神事が書かれていて、夏越の大祓の茅の輪くぐりを「胎内くぐり」と書いていました。スサノオの蘇民将来伝説だけが由来と思っていましたが、茅の輪にも様々な由緒があるのですね。「胎内くぐり」は洞窟などでよく見られるのですが、狭く窮屈な場所を抜けることで、穢れを祓い落として胎内から新たに産まれ変わるという意味合いがあります。
隣に千本鳥居が並んでいて、荒川土手の上からも朱塗りの鳥居の連続が目立って見えます。こちらは稲荷神社です。
熊谷伏見稲荷社と書かれています。規模的にどこかの神社の兼務社になっていると思いますが、この神社があると無いでは、きっと心のどこかが違ってくるのだと思います。毎年決まった日に神事が営まれ、参加しなくてもそのことを知るだけで、地域が正しく存在している気持ちになりますね。
なぜかこのあたりの荒川河川敷にはソフトボール場がたくさんありました。私は子どもの頃、地域の軟式野球チームに入っていましたが、引越先の地域がソフトボールが盛んで、そのまま地域のソフトボールチームに入りました。熊谷市もソフトボールが盛んな地域なのかもしれません。
ソフトボール場を過ぎると、ゴルフ場になりました。熊谷ゴルフクラブだそうです。ゴルフ場の中にも鳥居と神社がありました。また荒川の見えないとて道を歩いて行く感じですが、川の様相は変化しつつあるので、次に荒川と出会う時には、一気に変化した姿が見られるかもです。
海から78kmまで来ました。まだ河川敷にゴルフコースがあって、土手上の道が健在なのがすごいですね。ふと疑問に思い調べてみると、これでも荒川は日本の長い川ランキング10位にも入っていないそうです。川幅日本一の称号があるのですが、長さでは15位とのこと。全長173kmと書かれていました。調べるんじゃなかったですね。半分も来てないということか……。まぁ、173km地点に行くつもりは毛頭ありませんが。
木々が生い茂る中に熊谷大橋が架かっていました。全長1154mの橋で、日本の長い橋ランキング33位です。対岸も熊谷市です。
こちらは広瀬川原車両基地です。珍しそうな車両が停まっていましたが、鉄関係はよくわかりません。土手上の道がアスファルトではなくなりました。舗装はしてありますので、歩くのに問題はありません。どこまで続くのか直進したい気持ちもありましたが、ここで大麻生陸閘を通って秩父往還へ向かいます。
神仏習合
秩父往還の角にあった酒屋の前で、老婆が「やぁどうもどうも」と話しかけてきました。この敷居が無い感じ、流石だなぁと思って「こんにちは」と返すと、「今日は幾分いいね。あったかい」と言ってどこかへ行ってしまいました。ずいぶん遠くまで歩いてきましたが、おばあちゃん含めてこの土地の風景のように感じました。
お寺の境内で古い石碑を塚のように積み上げるのをよく見かけますが、これほどのものはなかなかお目にかかりません。逆光で無理やり撮影したら、バベルの塔の如く聳え立つ神聖な感じになりました。
お隣が赤城神社で、赤城山正光寺という名称からも、赤城神社の別当寺として建立されたのかと思いましたが、正光寺の方が先に建立されています。慶長8年(1603年)に没した一葉玄芳が開山しました。いずれにしても明治維新までは、赤城神社の別当寺として神社の運営もしていたとのことです。
荒川 百所巡礼 第142番 赤城神社
お隣の赤城神社は正光寺の第4世の僧風山が、寛文13年(1673年)に創建したとされています。僧風山が下野国河内郡(現:宇都宮市)の二荒権現を受けて、正光寺の守護神として一社を構えたのが赤城神社の始まりですが、二荒権現から赤城神社に至る経緯は謎のようです。
大麻生村には上・中・下郷の3つの村社がそれぞれあって、明治維新の社格制度によって1つにまとめることになったそうです。そこで各社の世話人の合議によってこの赤城神社に、村内すべての神社を合祀して統合することになったのですが、納得しない方々もいて、結局はうまくいかったようです。
赤城神社の御祭神は大己貴命と、豊城入彦命です。豊城入彦命は崇神天皇の御子で、東国を治定したそうです。天皇が神として祀られるのは、八幡神などに見られますが、天皇の御子や系譜も神として祀られるのは珍しくありません。日本武尊や聖徳太子などが有名です。
大麻生駅前を散策
秩父往還を歩きます。JRはどこかへ行ってしまい、秩父鉄道が荒川と並走しています。秩父往還は、日本武尊の東征のルートとも言われるほど古くから人々が利用してきた街道です。熊谷から甲府まで通っています。秩父鉄道は羽生から三峰口までを結ぶ鉄道で、宝登山や長瀞渓谷などの秩父地域の観光開発を手掛けてきた会社です。
秩父往還から大麻生の駅の方へ路地を入ると、分譲地の1区画のような場所に、石仏群がありました。
屋根付きの1番立派な祠には地蔵菩薩がご安置されています。きちんとお花もお供えもされていて、神仏習合でお地蔵様のお堂にもしめ縄と紙垂が付けられています。
同じ敷地に石碑が二基と石仏二体が並んでいます。石碑は多聞天と庚申塔のようです。石仏はよくわかりません。
六地蔵と横に並んだ石碑が3つ。その右側に原型を留めていない塊が2つ。奥に板碑がひとつ、ご安置されています。3つの石碑は左から馬頭観音、馬頭観音、南無阿弥陀仏、となっています。どの石碑も風化が激しくて、いずれ崩れてしまいそうです。
こちらは少し離れた用水路のような小さな川のようなところに架けられた橋の袂にありました石橋供養塔です。石橋供養塔は橋そのものの安泰と、橋を利用する方々の安全を願って建てられるものです。塞の神や道祖神、庚申塔も同様ですが、橋などの通り道に、災が村内に入り込まないように設置していました。北に伸びていた荒川が西にカーブして、進行方向に秩父の山々がそびえるように見えます。まさかここまで土手上の道が続いているなんて、金八先生もビックリですね。
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